出自と経歴
- 朱松、字は喬年、号は韋齋先生。徽州婺源の人。政和八年、同上舎出身により建州政和尉に授けられた。父の喪に服し、服喪明けに南劍州尤溪尉、泉州石井鎮の監となった。
- 紹興四年、館職に召試され正字に除せられ、内艱(母の喪)に服して服闋の後、召対を経て左宣教郎・秘書省校書郎に改められ、著作佐郎・尚書度支員外郎に遷り、史館校勘を兼ねた。司勲・吏部の両曹を歴任し史職はもとのままとし、『哲宗実録』の編纂に携わりその完成にともなって奉議郎に転じ、年労により承議郎に転じて饒州の知事に任じられたが赴任前に間職を請い、台州崇道観の主管に就いた。任期満了の再任を請うたところ、命が下るのと同時に没した。紹興十三年三月二十四日のことで、通議大夫を贈られた。
才気と文才
- 幼少より優れた才があり、児童の頃から発する言葉がすでに人を驚かせた。少し長じては学校で挙子の文を作り、当時の卑弱陳腐な気風がなく清新洒落であった。科挙を退いてからは自由に詩文を作るようになり、その詩は初めは技巧を凝らさなくても天然に秀発し、格調や筆力が閑暇の中に超然として世俗を超えた趣があり、遠近に伝誦されて京師にまで聞こえた。当時の詩人たちはその顔を知らぬうちからすでに口をそろえて称賛した。その文章は汪洋放肆で涯りが見えず、川の流れが奔騰し渾浩に流転して瞬時に千変万化するようで、追随できる者は少なかった。
学問への転向
- ある日発憤して自らを改め、六経・諸史・百家の書を伏して読み、天下国家の興亡治乱の変遷と、時勢に応じ変化に合わせる先後本末の順序を求め、賈誼や陸贄のように議論を立て事業に用いることを期した。楊時(龜山)が伝えた河洛の学を聞き、以来ますます自らを刻励し浮華を刮ぎ落として実質を追求し、日々『大学』『中庸』を誦して致知誠意の工夫に力を用いた。
「韋齋」の号の由来
- 自ら弁が過ぎて道を害しやすいと考え、古人の佩韋(性急を戒める帯革)の故事から書斎を「韋齋」と名づけ、朝夕その中で自らを戒めた。これによって観察して得たところをますます自信を持って堅く守るようになり、常に「士の志すところはただ義と利との間にある。その分かれ目はごくわずかだが、その流れる先は遥かに遠い」と述べた。
- また「父子は恩を主とし君臣は義を主とする。これは天下の大戒であり、天地の間で逃れることはできない。人が飲食呼吸を元気の中で行うのと同じで、一息でも続かなければ理として必ず死に至る。それゆえ古来聖賢が法を立て教えを垂れて、これを維持し防範してきたのであり、いっときも忘れることは許されない」と述べた。
御史胡世将への進言
- 御史の胡世将が東南を撫諭した際、公はこれに謁見して説いた。「今日の廟堂の議論は、ただ長江・漢水を頼り荊州・呉を控えて東南を保つだけを目指しているのか、それとも神州を回復し陵闕を掃い中原に拠って三河を撫することを目指しているのか、まだ分からない。かつて『関中を取らねば中原は復せず、荊淮を取らねば東南は保てない』と聞いた。今、進んでは六師の重みをもって荊襄を通り漢沔を経て興元に赴き、跖䟦の地に連結して五路を抑え東に向かって中原を図ることもできず、退いては建康に本営を移し兵を訓練して荊淮を争い固守の計を立てることもできず、ただ一方に蹙まって日月を道途に費やすだけでは、この漂漂たる先行きがどうなるか分からない」。
綱常を守るべしとの主張
- かつて公は、士人が俗学に溺れて君臣の大義を明らかにせず、そのため成敗の間に処する際に生を偸み自らを恕む心を持ちがちで、綱常を廃れさせる恐れがあることを憂えた。既往の失敗に鑑み、人倫を明らかにし名節を励ますことを先務とし、さらに気骨があり忠実な士を広く求めて朝廷に置き、平時には正色をもって朝廷に立たせ、姦悪の萌しを未然に消し、いざ急変があれば身を顧みず大難に立ち向かわせるべきだと説いた。そうすれば国家の権威は安んじ基礎は強固になると論じた。
金の和議への反対上疏
- 金が和議を提案したとき、公は史院の同僚である胡珵らとともに疏を上げて論じた。「金がにわかにわれと和を結ぼうとするのは、和という説でわれを侮り、あるいはわれが力を蓄え時を待つのを撓めるためである。金の和議の使者は秦の連衡策士のようなもので、六国が連衡の割地を懲りずに繰り返して滅んだように、今わが国が金の和議の真意を悟らなければ、その禍もまた計り知れない」。
- 「執事の者たちは、梓宮(先帝の柩)や母后・淵聖(皇族)を思って和議を進めようとしているが、それはかつて項羽が太公を俎上に置いて高祖に降伏を迫った故事に似ている。高祖はその詐謀を信じず、屈することなく日夜楚を図る策を巡らし、ついに項羽を鴻溝に追い詰め、力尽きさせて太公を自ら帰させた。この故事によって、今の計の得失を推し量るべきである」。
国防・人材登用への建言
- 公は国運が日々困難になり人心がまだ服さない中、天子には自ら軍を率いる兵がなく、諸道には典戎の実がなく、二三の大将が兵権を独占して制御できない事態を憂え、しばしば建言した。武挙を復活させて韜略に長け軍を統御できる人材を将帥候補として蓄えるべきこと、州郡から驍勇の者を選抜して行在の周衛に補すべきこと、精選した帥守が兵員を検閲して藩鎮の勢いを強めるべきことなど、いずれも長期的な計であり、繰り返し説いて止むことがなかった。
- また太学を建てて人倫を明らかにし節義の気風を興し安逸の悪習を戒めるべきことを平素から深く憂え、常に「人が元気の中で呼吸するように、一息でも続かなければ必ず死に至る」という譬えを用いて説いた。これは後の者たちが上の意向をうかがって課試の文墨を太平の粉飾の具とするのとは異なるものであった。しかし国是がすでに定まり、公の言葉は用いられず、それゆえ辞職の意志はますます強まり、秦檜の怒りもますます公に向けられ、ついに言者が「公はひとり異を懐き自ら賢とし、へりくだりを装いながら辞退の罪を犯した」と論じて公を朝廷から出させた。
隠棲後の暮らしと臨終
- 建渓のほとりに隠居して日々旧学を尋ねることを事とし、手ずから抄写し口に誦して怠らず、ますます篤実に取り組んだ。義理の微妙なところに心を遊ばせ塵垢の外に意を放ち、自ら得るところがあり淡々としていた。
- 公は生来孝行で友愛に厚く、人と交わるにあたっては信を重んじ、生死窮達によって心を変えることがなかった。後進を導き教え諭して倦むことなく、人の善を聞けば追いつけぬほど推し称えた。一方、邪佞・卑劣で賢者を退け権勢に媚びる者とは志を異にし、卑しんで遠ざけ、時にその顔を正視するにも忍びなかった。吏治にあたっても果断明弁で、邪を抑え正を助けて憚らなかった。
- 晩年に病を得ると、自ら再起しないことを悟りながらも泰然として憂懼の色がなかった。手ずから遺書をしたため、親交のあった胡憲・劉勉之・劉子翬にその子(朱熹)を託し、朱熹には彼らのもとで学ぶよう言い残した。その道を志し身をもって奉じる姿勢は死してなお止まず、後の人が道を見失わぬよう配慮を尽くしたのであった。