宋名臣言行錄外集卷六十九 李侗
李侗(字は愿中、号は延平先生、諡は文靖公、南劍州劍浦の人、?–隆興元年、享年七十一)。羅従彦に師事して二程の学を受け継ぎ、山里に隠棲して四十年余り学問と涵養に専心した。仕官せず民間で学統を伝え、朱熹の師として知られる。
年表(1件)
- 隆興元年十月十五日閩帥の招きに赴く途中で病を発し、府治の館舎で没する。享年七十一
出自と経歴
- 李侗、字は愿中、号は延平先生、文靖公。南劍州劍浦の人。父は李渙といい、贈右朝議大夫。先生はその末子である。
- 晩年、一人の子が進士に及第し諸郡に仕えることになったため、これを機に迎養を請い、建安から鉛山へ赴いて外家の兄弟を昭武に訪ね、その門弟や故人を武夷・潭溪のあたりに訪ねてから帰った。
- ちょうど閩帥の汪公(原文「王山汪公」)が書礼と車馬を送って迎えたところ、先生は赴く途中で病を発し、府治の館舎で没した。享年七十一、隆興元年十月十五日のことである。
羅従彦への師事と隠棲
- 若くして郷校に遊学し名声があった。まもなく同郡の羅従彦(仲素)が〓(底本欠字、龜山=楊時の学統を指すとみられる)の門で河洛の学(程氏の学)を得たと聞き、これに従って学んだ。
- 羅公は清介で世俗から超然としており、里人でこれをよく知る者は少なかった。先生が師事しているのを見て嘲笑する者もいたが、意に介さず数年にわたって『春秋』『中庸』『論語』『孟子』を学び、じっくりと味わい心に会得して、羅公の伝えるところの奥義をことごとく身につけた。羅公は深くこれを認め、しばしば称賛した。
- こうして先生は退いて山里に隠れ、水竹の間に茅屋を結んで俗事を絶ち、四十年余りを過ごした。簞食瓢飲でしばしば窮乏したが泰然自若としていた。郡の長官や学官がその名を聞いて招いたり、子弟を遊学させたりすることもあり、州郡の士人の模範となった。
学問の方法――未発の気象を観る
- かつて〓(底本欠字、龜山)が東南に道を唱えその門に遊学する者は多かったが、深く思索し力行してその極みに至った者は羅公ただ一人であった。先生は羅公に学んだ後、講誦の余暇に終日端座し、喜怒哀楽が未だ発しない前の気象がどのようなものかを体験し、いわゆる「中」を求めた。それは長い年月をかけて天下の大本がここにあることを知るためであった。
- 天下の理はすべてこれより出るのであり、その根本を得れば、そこから出る万殊も曲折も融け合い各々条理を持つ。川の流れや脈絡が乱れないように、大は天地の厚さから微は万物の化育、経訓の微言や日用の小事に至るまで、これを味わって心に得られないものはなかった。これによって操持はますます固く、涵養はますます熟し、精明純一にして応対がすべて中節に適うようになった。
- 先生は「学問の道は多言にあらず、ただ黙坐して心を澄まし天理を体認するにある。もし真に見るところがあれば、たとえ一毫の私欲が兆しても退けられる。長くこれに力を用いれば次第に明らかになり、講学にも力がつく」と述べた。
- また「学ぶ者の病は、氷が解けるように洒然と晴れる境地に至らないことにある。たとえ力を持って持守しても、それは明らかな過ちを避けるだけに過ぎず、言うに足りない」とも述べた。
- さらに「今の人の学問は古人と違う。孔門の諸子は日々群居して互いに切磋し、孔子を依り所として日々感化されるところが多かった。融釈脱落の境地は言葉で伝えられるものではない。さもなければ子貢が『夫子の性と天道についての言葉は聞くことができない』と言ったのはなぜか」と述べ、黄庭堅が周敦頤(濂溪)の胸中を「光風霽月」と評したのは有道者の気象をよく表していると誦し、学ぶ者に「これを胸中に持てば、事に遇うたびに廓然として義理が少しずつ進むだろう」と語った。
『中庸』『春秋』についての講義
- 『中庸』を講じて、「聖門がこの書を伝えたのは、後学を開悟させるために遺す策がないほど尽くされているからだ。喜怒哀楽の未発を中と謂うというのが、一篇の要である。ただ記誦するだけでは意味がなく、必ず身をもってこれを体し、顔回が卓然としてこれを一物として見て心目の間から離さなかったように会得してこそ、初めて中庸を語ることができる」と述べた。
- 『春秋』を講じて、「『春秋』は一事ごとにそれぞれ一つの例を発明しており、山水を眺めるようなもので、歩みごとに形勢が異なり一つの法にとらわれてはならない。しかし語りがたいのは、常人の心をもって聖人を推し測るからで、聖人の洒然たる境地にはとても及ばない」と述べ、『論語』『孟子』や他の経書についても疑問があれば必ずその趣旨を極めて答えた。
読書と学問の姿勢
- 先生は「読書とは、書かれていることがすべて自分の事だと知り、我が身に引き寄せてこれを求めることであり、そうすれば聖賢が到達し自分がまだ至らないところも努めて進むことができる。もし文字だけで求め、その辞義を喜んで解説を事とするならば、物に玩ばれ志を喪う者にならないことは稀である」と述べ、それゆえ講解を専らにすることはなかったが、その分析は精微を極め毫釐まで見抜いた。
- また「講学は深く沈潜し縝密であることが肝要で、そうして初めて気味が滋長し、道筋を誤らない。もし理は一つだと決めつけて分の違いを察しなければ、学ぶ者は疑似の説に流れて自ら気づかないことになる」と語った。
人柄と学問の域
- 先生は生まれつき勁特な気節を持ちながら、充養が完全で圭角がなく、精純な気が顔つきに表れ、温かく厳しい言葉、定まった精神と和やかな態度、動静の端正さは自然の中に成法があるようだった。日常は恂恂として可否を明かさぬようであったが、事変に応じては義理を基準として截然と犯しがたいものがあった。
- 若くして道を聞くと官途への志を棄て超然と身を引いたが、時事を憂え論じるときは人を感動させた。治道を語るときは天理を明らかにし人心を正し節義を崇び廉恥を励ますことを先務とし、本末を備えて実行可能なものであり、空言に留まらなかった。異端の学は心に入る余地がなかったが、一度その説を聞けば正邪を微細な差異から見分けることができ、儒釈の邪正はここで分かたれた。
- 先生の道徳は純備し学術は通明で、当世に比類がなかったが、世に知られることを求めず、また軽々しく人に語ることもなかったため、上には知られず学者にも知られないままだった。進んでは人に施すことができず、退いては後世に伝えることもできなかったが、先生は畎畝の間でその安楽を玩び、悠然として老いの至るのも知らなかった。いわゆる「中庸に依り世を遯れて知られずとも悔いない」者に、先生は近いといえよう。
朱松・朱熹による評
- 朱松(韋齋)は先生を評して「氷壺秋月のごとく瑩徹して瑕がない」と述べた。
- 朱熹(晦庵)は祭文で次のように述べた。「先生は早くに良師を得、身も世も忘れてただ道のみを頼りとし、精義は約を極め、窮理は微を極めた。氷解けるがごとく、天機より発し、乾坤の端倪、鬼神の秘彰、風霆の変化、日月の光、さらに山川草木・昆虫・人倫の至り、王道の中に至るまで、これを一貫し、外にあまるところがなかった」。
- 「その分かつところは殊なるが、体用は混然一体、隠顕は昭融し、万変に並び応じ、浮雲は太空にあり、仁孝友弟、洒落誠明、清通和楽、その大成たるや揺るぎない。丘林に婆娑として、世はわたしを知らずとも、悠々として歳を終えて楽しんだ」。
- 「ああ先生はここに留まってしまわれた。命の融らぬこと、誰がこれを主るのか。合散屈伸、消息満虚、廓然大公として造化とともにあり、古今は一息、物我は一身、誰が窮通を為すというのか。ああ聖学は絶えることの綫のごとく細いが、先生はこれを厚く得ながら、進んでは施されず退いては伝えられぬまま身をもって殉じて没した。これは天の非にあらずして何であろうか」。
- 続けて朱熹は自らの幼少期からの師事を振り返り、「先君(朱松)とわたしは源流を共にし、誾誾侃侃として襟を正し先生を推した。氷壺秋月とはまさに先生のことであった。後人に及ぼしてこの志を渝えることはない。遊学すること十年、教え諭すこと切々として、春には山に朝の栄えを見、秋には堂に夜の空を見た。事に即して理に即し、幽なるところも窮めぬところがなかった。互いの期待は日々深まり励ましはますます切実だった。歩みを止めようとしたときに鞭が既に打たれ、暑い盛りに安車で我が門を訪ねてくださった。帰る旗が相遇う涼秋、すでにその時わたしは召命を受けて教えを問うたところ、先生は繰り返し教え諭し、最後に『おまえ努めよ、すべての理はお前が自ら知るところだ、これを奉じて周旋し失うことのないように』と言われた。帰り仕度を整えた朝、厳しい訃報が夕べに至り、声を失って号泣し涙は懸泉のように落ちた。この言葉がまさか永訣の言葉になろうとは思いもよらなかった」と結んだ。
朱熹との問答(学問・工夫について)
- 誰かが先生の言行を尋ねたのに対し、朱熹は「先生は著書をされなかったが、養いを極めてよく修めておられた。学問というのはこのように涵養を積み重ねていくもので、他に異論はない。ただ先生の晬面盎背たる自然さは及びがたい。延平は初め豪邁な人であったが、後には琢磨の力を得た」と答えた。
- 「静坐の説について先生は必ずしも賛同されなかったと聞くがどうか」との問いには、「これも言い難い。静坐して道理を会得するのは妨げないが、ただ静坐そのものを求めるのはよくない。道理が明透に会得できれば自然に静になる。先生はかつて『羅先生が春秋を説くのを聞いてあまり感心しなかったが、羅浮で静を極めた後にはどう会得されただろうか』と語っておられ、わたしも今にして思えばその通りだと感じる。心が騒がしければ道理は見えないものだ」と答えた。
- 「延平は常にこの心を存して事物に勝たれないようにせよと言われた」との問いには、「先生の涵養は格別で、事物に勝たれないというのはまさにその通りで、古人が『終日疾言遽色なし』と言ったのはまさにこれである」と答えた。
- 「先生はかつて、明らかな過悪の萌しは容易に見えて除きやすいが、なんでもない事から念慮が絡みつき除きにくいのがかえって害になると言われた。わたしも以前はそうであった」とも語られた。
- 先生の意図はただ学ぶ者に静の中で主宰する存養の場を持たせることにあった。
- 「延平の行状に、終日端座して喜怒哀楽の前の気象を体験し中を求めたとあるが、これは程頤(伊川)の説と違うのではないか」との問いには、「この言い方はやや重すぎる。伊川の言葉に照らせば工夫の付け方に多少偏りはあるが、李先生は静を極められたゆえにそこに一つの覚りの場を見出されたのだ」と答えた。
- 「延平は未発の前にその気象を観よと言われたが、これは楊時(龜山)の未発以前に体験するという説とどう違うか」との問いには、「これにも欠点がある。体験という語には思うという意味があり、思えばそれはすでに已発である。観るというのも意識して見れば已発になる」「これは観ずして観るということだ」と答え、さらに延平は「人の心の中で大きな悪念はかえって制しやすいが、大した利害でもないのに往来する念慮が絶えず続くのが最も除きにくい」と語ったといい、朱熹も「今にして思えばその通りだ」と述べた。
- 李先生が人物を見る際は、おおむね静中で大本・未発の気象を体認させ、明らかになれば事物に応じても自然に中節すると教えた。これは楊時(龜山)門下相伝の指訣である。
- おおよそ義理を思索して紛乱し行き詰まったときは、一切を掃い去って胸中を空虚にし、それから改めて眺めれば自ら落ち着きどころが見えてくる、という説はかつて李先生から聞いたが、今日まさに実際に験することができた。
- 少しでも利害を絡めると人に語らずにはいられなくなるが、それは学ばない人と何ら変わらない。かつて李先生は「もし大いに気が晴れないなら、古人が耐えがたい患難に遭った例を思い自らと比べれば少し安らぐことができる」と語り、初めはその言葉を軽んじたが、後に事に臨んでその効を実感したという。
- かつて李先生は「若くして師友に従い幸いに聞くところがあったが、その後講習の機会を失いほとんど廃れそうになった。しかし天の霊のおかげでこの道理は常に心目の間にあり忘れることがなかった」と語られた。ここにその持守の功と、見識・修養の精熟さが窺える(以上は朱子の語をまとめたもの)。