出自と経歴
- 劉勉之、字は致中、号は白水先生。建州崇安の人。郷挙により太学に入り、途中南京に立ち寄って劉安世(忠定)・楊時(文靖)に師事した。後に中書の諸臣から推薦を受け、詔により闕下に召されたが、召見に及ばず給札を受けて帰郷した。紹興十九年二月、五十九歳で没した。
若き日の学問
- 幼くして学問に努め、一日数千言を誦し、耳目に触れたことは一度で忘れなかった。文章は筆を執ればたちまち成り、勢い盛んで凌厲頓挫、同輩の及ぶところではなかった。
太学時代――程氏の学の秘かな伝授
- 二十歳を過ぎて太学に入ったとき、蔡京が政権を握り、士人が元祐年間の書を所持することを禁じ、師弟連座の法を設けて犯した者は流罪に処せられた。名目は「道を一つにする」というものだが、実際には天下の口を封じるものだった。先生は独りその非を知り、密かに程頤・程顥(伊洛)の学統を訪ね、その書を得て隠し、夜更けて同室の者が皆眠った後に箱を開き膏火の下でひそかに写しては黙誦した。
- また譙天授がかつて程夫子に学び易学を極めたと聞き、たまたま用事で京師に赴いた際に訪ねてその学の本末をすべて得た。まもなく科挙の学を厭い、ある日籍を棄てて諸生に別れを告げ帰郷した。
劉元城・楊龜山への師事
- 劉安世(元城)・楊時(龜山)を訪ねて教えを請うた。劉安世は特にその才を認め、数十日にわたって語り、平生の行いや立朝の大節、他人があまり聞くことのできない方外の学まで余すことなく伝えた。先生はその言葉を拝受して精思力行し、朝夕怠らず、長く続けるうちに得るところがあった。かつて一言の善を聞けばそれを融会貫通してすべて自分のものとし、実践は日に日に篤くなった。
交友と学問
- 胡憲(籍溪・原仲)、劉子翬(屏山・彦冲)両先生と親しく交わり、日々講論切磋を事とした。世務については無頓着に見えたが、細大の事についての論説や処理には条理があった。
隠棲後の生活
- 戦乱の後、故郷の家屋敷が荒廃したため、建陽近郊の蕭屯という別荘に草堂を結んで移り、その中で読書し、農耕によって自給した。淡々として世に求めるところがなく、当時の賢士大夫はみなその人柄を敬慕した。
朝廷への推挙
- 中書舎人の呂本中(居仁)は先生を深く知り、かつて短い詩で「老大にして多才、十年堅坐す」と評した。世間ではこれを実録として伝えた。当時、国家は南渡してすでに数十年、中原回復を謀り宿憤を晴らそうとして、まだ一定の計はなかった。朝廷は俊傑を求めていたところ、呂公が同僚の曽開(天游)・李椿年(似之)・張致遠(子猷)ら数人とともに先生の行誼志業を朝廷に上奏し、特に詔して闕下に召された。
- 出発に際し、劉子翬(屏山)が「招劍之文」を作って祝った。その乱辞には「宝剣来たりて君王を奉じ、四夷を撫し八荒を定めよ。時なるかな時なるかな」とあり、先生への期待の大きさが窺える。
秦檜の専権下での隠遁
- 秦檜が国柄を専らにしていた頃、和戎の策を決しようとしており、天下の正論を嫌い、山林の士が利害を顧みず言を尽くして忌諱に触れることを恐れ、とりわけ天子に直接見えて当世の事を語ることを望まなかった。そこで先生には省試に策試だけを命じ、その答対を朝廷に上せさせた。先生は道が容易には行われないと悟り、即日辞病して帰郷し、十余年門を閉ざして高臥した。
- その修養はますます熟し、名声も日々高まった。旧宰相の趙鼎(忠簡)が地方に赴任する途中、里門に立ち寄って轡を曲げて訪ね、語り合ううちに感嘆をますます深めた。しかし趙鼎はまもなく讒言によって海外に流され没した。同時代に先生を知る者たちもみな廃錮され用いられなくなり、先生もついに一度も用いられることなく没した。志ある人々はみなこれを哀しんだ。
学問の性格と清廉
- 先生の学問はもとより己のためのものだったが、その才は世に用いるに十分であり、事に臨んでの処置は声色を動かさなかった。日常は厳しく自らを持し犯すべからざるようであったが、人と接する際は恂恂として和悦、笑顔に親しみがあった。財に対しては清廉で、一介たりとも妄りに取らなかった。若いころ妻の実家が富裕で子がなかった際、その資産すべてを娘に譲ろうとしたのを固辞して受け取らず、代わりに宗族の中で賢い者を選んでこれを与え、祖先の祭祀を継がせた。
朱熹の回想
- 朱熹(晦庵)は述べた。「わたしの亡父(朱松)は若くして先生と交わり、深く親しんでいた。亡くなる際には後事を先生に託し、わたしに先生のもとで学ぶよう戒めた。父が没した後、先生は快く家事を取り仕切り、わたしを子や甥のように教え諭してくれた。長い年月ののち、その娘をわたしの妻に迎えさせ、親戚や旧知の困窮者にも援助を尽くし、心を尽くして恩義を果たしてくれた。学生が門を訪れれば、その資質に応じて聖賢の教学の門戸を説き、前言往行の美事にまで及び、終日懇切に語って倦むことがなかった。壮年から老年まで、その姿勢は一貫していた」。