出自と経歴
- 劉子翬、字は彦冲、号は病翁先生。忠顯公(劉韐)の次子である。父・忠顯の勲功により承務郎に補せられ、真定幕府に辟召された。
- 忠顯が薨じると、先生は過度なまでの喪礼を尽くした。喪が明けると興化軍の倅(通判)となり、任期を最も優れた成績で終えたとして詔により旧官のまま留められた。
- しかし先生は哀毀のあまり病を得、自ら吏務に堪えないと判断し、祠禄を請うて武夷冲佑観の主管となり帰郷した。それから十七年、四たび崇道観の祠官を務め、官階は右承議郎に至った。享年四十七、紹興十七年十二月に没した。
隠棲後の生活
- 若くして非凡な才能を持ち、まだ冠をつけぬうちから太学に遊学し名声は同輩に抜きん出ていた。屏山の下、潭溪のほとりに園林水石の勝景を持つ家があり、祠禄を得てからはその間に俯仰し、世事をことごとく棄てて自ら病翁と号し、一室に独居して終日終夜端座することもあった。心に得るところがあれば筆を執って書に記し、あるいは詠歌して自ら楽しんだ。数日おきに父・忠顯の墓を訪れては徘徊し涕泣し、何日も経ってから帰ることもあった。兄弟の間も睦まじかった。
甥・朱熹への教導
- 忠肅公(劉珙)は先生の甥にあたり、幼くして聡明で学問を好んだ。先生はこれを愛し、文行経業を教えて手を抜かず、必ず大きく遠いことを志させた。胡憲(原仲)・劉勉之(致中)と道義の交わりを結び、互いに見えれば講学以外の雑談をせず、交友もみな海内の名士で、その深遠さに感服しないものはなかった。それでも先生は自ら満足することなく、常人の一言の善であっても従容として問い質し、両端を尽くしてから止めた。族党・後生で学問を問う者があれば、その器量に応じて教え諭し、終日倦むことがなかった。
朱熹への入道の次第の教え
- 朱熹(晦庵)がある日、先生に平生の入道の次第を尋ねた。先生は喜んで語った。「わたしは若いころ道を聞かなかったが、莆田で官にあったとき病を患い、仏老の徒に接して清浄寂滅の説を喜び、道はここにあると思っていた。帰郷して儒書を読み直し、そこで初めて悟るところがあり、わが道の大きさとその体用の全備がこのようなものだと知った。とりわけ『易』において道に入る門を得た。いわゆる『不遠復』こそがわたしにとっての三字の符である。これを佩び守って怠ることのないよう、『復齋銘』『聖傳論』を作って志を示した。おまえも励みなさい」。
臨終
- 先生は微恙を得ると、すぐに宗廟に参って母夫人に別れを泣いて告げ、平素往来のある者すべてに書をもって決別を告げた。甥の劉珙を呼んで家事を託し、葬地を指示し、中外の孤児遺族について一つ一つ配慮した。仕事の始末をつけると、日々学者と修身求道の要を論じ、訓誡数百言を作り、瑟を弾じ詩を賦し、平常と変わらず淡々としていた。二日の後に没した。
易学の造詣
- 学問はとりわけ『易』に深く、家には東西二つの書斎があり、東を「復」、西を「䝉」と名づけた。「䝉齋記」には、「三代以後、易学は廃れた。六国の士は談説に䝉われ、両漢の士は章句に䝉われ、晉魏の士は虚無に䝉われ、隋唐の士は詞藻に䝉われた。みな偏った停滞に陥って反省せず、波が砂を巻いてかえって自ら濁り、谷が霧を昇らせてかえって自ら暗くなるようなものであった。今、わたしと諸君はすでにこれを知った。慎み深くその聖なるものを養わずにいられようか」とある。
- 「跋浩然子」には、「易を学ぶ者には必ず門戸があり、復卦は易の門戸である。室に入る者は戸から始め、易を学ぶ者は復から始めるべきである。復の一義こそ道を聞く要であり、進修の近道であると知られる。学ぶ者がこれを実践し真に積み力を久しくすれば、胸中から沛然として湧き出るものがあり、いわゆる易とはこれを自ら知ることである」とある。
「維民論」の要旨
- 「維民論」には、「民心は無常で去就は定まらず、古今を通じて天下の民は必ず帰属するところがある。堯舜の民は禹がこれを維ぎ、桀がその維を解いて夏は滅んだ。殷の民は文武がこれを維ぎ、幽厲がその維を解いて周は滅んだ。秦漢以来、この治乱興亡の循環は絶えることがない。わが宋は寛厚をもって治めており、仁宗の仁は三代以来ただ一人である。笑言承恩、咳唾これ澤となり、四十余年にわたって民に浸み渡らせ、民を維ぐ道を尽くした」とある。
「經制之道」の講義
- 「經制之道」を講じて、「国が富むのに人が反発心を抱くのは、窮迫によって人に恕む心があるからである。今、主計の官には出入の制がなく、田に応じて取るだけで民力を量らない。兵は民を衛るため民から食を得、官は民を治めるため民から食を得る。もし出でて戦に臨まず、居て事を司らないならば、食を受けるべきではない。郡県はすでに併合されてもまた欠員が復活し、増減しても抑制されないことを憂える者もいるが、それは費用の広大さが山のごとくなるのは天から降り地から湧くものではなく、すべて民から取るものであることを考えていない。ここに経制の道がまだ尽くされていない所以がある」とある。
「聖傳論」の要旨
- 「聖傳論」には、「わたしが古聖賢の徳を進める速さを見るに、湯王ほどの者はない。湯王の盤銘には『まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり』とある。これは瞬息の間も悠々とした緩みがなかったということだ。善を楽しむこと貪るがごとく、理に契うこと符を得るがごとく、非を聞くこと利を得るがごとく、過ちを捨てること蛇の脱皮のごとく、徳は必ず日々新たになる。日新の学は実践の積み重ねによらねば自覚できない。あの、聖道は一言で契うもので階級によらず修為を借りないという者は、日々月々の努力を初学者のためのものとし、真の積み重ねを鈍才のためのものとするが、それは自らを欺くものである」とある。
遺愛の琴と文集への評
- 先生には「復齋」「䝉齋」と名づけた二つの琴があり、嗣子の劉玶が大切に保管した。門人の朱熹が謹んで銘を作った。
- 「復齋」の銘は、「金にあらず石にあらず、玉の真を含む。雷は腹に伏して神を閟す。硜然として(一に「万物皆春」に作る)わが器を含んで覿る。宝としてこの人を懐う。静を主とし復を観じ、その身を修める。時とともに詘して、その伸びるに及ばず」といった趣旨である。
- 「䝉齋」の銘は、「抑えて幽然たるものはまっすぐで、険に遭って止まる。冩して冷然たるものはその導きで、山の泉より出る。先生の言葉はもはや聞くことができないが、その亨貞の意は、この器に託されてなお伝わる」といった趣旨である。
- また文集の跋には、「先生の文辞の雄偉さは一世の耳目を驚かすに足るが、その精微な学問と静退の風は文墨に表れ、蒙を啓き鄙吝を消す力がある。これこそ読む者が最も心を尽くすべきところである」とある。
「聞筝」詩とその評
- 先生には「聞筝」と題する詩があり、月夜に筝の音を聞き、その響きに心を寄せて、聞こえぬ筝弾く人への思いを詠んだ内容である。旧寵を離れた者への同情や、志を得ぬまま年老いていく嘆きが込められている。
- 朱熹(晦翁)はこの詩に跋して、「これは先生の若いころの作である。その規模・意態はもっぱら『文選』所収の楽府諸篇に学び、近世の雑体に染まらないため、気韻は高古で音節は華暢であり、同時代の者でこれに及ぶ者は少ない。晩年の筆力はさらに老健となり、諸作に出入りして一家をなし、この若い頃の作風からはやや変化した」と述べた。
- さらに「詩を学ぶ者はこの類を法とすべきで、それによって古人本来の体裁を失わずに済む。その先に成就して変化できるかは容易には測れないが、変化してなお正しければどこまでも妙用が利くだろう。しかし一度正を失えば、かえって旧法を守るほうが穏当ということになりかねない」と評した。
朱熹による人物評(先生遺帖の跋)
- 朱熹は先生の遺帖に跋して次のように述べた。「先生は壮年で官を棄て、一室に端居して道を味わい、禅僧の庵と変わらぬ暮らしをした。世の声色権利を争う者たちを見ても漠然として無いもののように見なしていた。わたし(熹)は幼くしてお側に仕え、先生も初めは科挙を志す子として遇したが、わたしがひそかにその自らの生き方と人への教えが違うことに気づき、暇な折に無礼を承知で師事を願い出た」。
- 「先生は喜んでわたしの志を嘉し、学問への門戸を開き示し、朝夕教え諭して倦まなかった。その後わたしが病を得たとき、先生は急ぎ帰って見舞い、大いに喜んで『病中に語り合う相手がなかった。おまえが帰って来てくれて幸いだ』と言った。それからは教えがますます詳しく、期待もますます重くなり、平生の学問の次第を具に語り、心を尽くしてくださった」。
- 「ある日、詩一篇を授けられたが、それは先生自筆のものだった。没後にその封じた遺書を開くと、さらに一片の紙があり、わたしに大業に努めよという言葉が記されていた。わたしは泣いてこれを受け取り、大切に保管し、子孫や同志に示して先賢を慕う心を知らしめようと思う」。
朱熹との議論――「原道」と「十論」について
- 朱熹が「原道」について、孟軻の死後その道統が伝わらなかったとする説について尋ねると、程子はこれを見識の真実さの表れとした。しかし劉子翬(屏山)は「これでは聖道は孤立し後学が絶える」と考えていた、それはどうしてかと問うたところ、朱熹は「屏山はただ釈子・道流にこそその伝統があると言いたかったのだ」と笑って答えた。
- また「十論」の作について、孔子はもっぱら死生をもって語ったとされ、先生はこれを大事とみなしたのはなぜかと問うと、朱熹は「もともとは釈学の論であり、それを翻案して展開させ多くの話に仕立てたにすぎない」と答えた(以上、朱子の語をまとめたもの)。