宋名臣言行錄外集卷六十九 胡憲

出自と経歴

  • 胡憲、字は原仲、号は籍溪先生。建州崇安の人で、文定公(胡安国)の従父の兄の子にあたる。
  • やや長じて文定に学び、程氏の学説を聞いた。まもなく郷貢によって太学に入ったが、ある日故郷の山に帰り隠棲した。
  • 朝廷への推薦を受けて本州の添教に任じられ、続いて南嶽廟の監となり、福建帥司の要請で祠官を改め、秘書省正字となったが、病により辞職を求め、左宣教郎として崇道観の主管となり帰郷して没した。時に紹興三十二年、享年七十七であった。

学問と隠棲

  • 生まれつき沈静・端慤で、みだりに言笑せず、長じて程氏の説を聞いた。元祐年間の学禁に触れる際は、郷人の劉致中(劉勉之)と密かに講じ、こっそり誦した。
  • また涪陵の処士・譙天授に易を学んだが、長く成果を得られなかった。天授は「これは当然のことだ。心が物によって汚されているために見えないだけで、学べば必ず明らかになる」と告げた。先生はため息をついて「いわゆる学とは己に克つ工夫のことではないか」と悟り、以来ひたすら下学に努め人に知られることを求めなくなり、ある日諸生に別れを告げて故郷に帰った。
  • 故郷に戻ってからは田を耕し薬を売って親を養い、道義に適わないものは一切人から受け取らなかった。文定公はその隠君子の操を称賛し、郷里の士子たちも慕って学びに来る者が日ごとに増え、当時の賢士大夫でその名を聞いた者もみな敬慕した。

出仕をめぐる詩の応酬

  • 紹興己卯(紹興二十九年)、先生が司直から正字に改められて赴任する際、朱熹(晦翁)が送別の詩を贈り、「わたしを執って仇仇のごとくあしらいながら、なお行止をもって天機を試すとは。猿は驚き鶴は怨む、それは何ゆえか。ただ先生が袖手して帰ることを恐れるのみ」と詠んだ。
  • 続けて別の詩を寄せ、「先生は芸香閣に上り、閤老は新たに豸角冠を戴く」(このとき劉琪が秘書丞から察官に除せられていた)「幽人を空谷に留め臥せしめよ、一川の風月は人が見るべきもの。甕牖の前には画屏が並び、夜には静かに姿を対する。浮雲は閒かに舒巻するに任せ、万古の青山はただ青いばかり」と詠んだ。
  • 胡宏(五峯)はこの詩を見て「言葉に体はあるが用がない」と評し、代わりに次の詩を贈った。「幽人は偏に青山の良さを愛し、この青山は青くして老いず。青山より雲が出て〓(底本欠字)太虚を洗い、塵埃を洗い尽くせば山はさらに好し。籍溪のために解嘲するがごとし」。

晦翁からの書簡

  • 朱熹が送った手紙にはおおよそ次のようにある。「先日、天下の事を極論なさり、慷慨して涙を流すほどであったのを聞き、仁人の心が世を忘れられないさまをここに見た。天がもしや大儒の力を試そうとしているのではないか。これを聞いて喜んで眠れなかった。おそらく胸中にすでに定まった構想がおありだろう。わたしが思うに、天下の形勢は当路の者が知らないでよいものではない。これを救う術はただその根本を救うことにあり、天下の人望が帰するところの人物を挙げて用い、その挙措・用捨が必ず人心に叶えば、天下の心は一つにまとまり、その気力は動かしやすくなる。ちょうど衰弱した病人に鍼薬が及ばぬところ、丹田・気海に灸をすえれば気血が根本に集まり耳目手足が利くようになるのと同じである」。

秦檜専権下の隠居と復帰後の上疏

  • 秦檜が政権を握っていた間、天地が閉塞したような約二十年、先生も世に望みを持たず淡々と過ごした。秦檜の死後、賢者たちが次第に登用されると、先生も正字となり、殿中で奏事する予定であったが病で朝見できず、そのまま草稿を書いて上疏した。
  • 上疏の趣旨は、金人が汴京の宮室を大いに修築しており、必ず盟約を破るだろうということ、当時の重臣・宿将では張浚と劉錡だけが頼りとなり、中外の識者もみな金が南下すれば両人以外に対抗できる者はいないと言っていること、陛下は急ぎこの両名を起用すべきであり、そうすれば臣は死んでも悔いはない、というものであった。
  • しかしこのとき両名はともに讒言によって傷つけられ、皇帝の意もまだ晴れていなかったが、先生は独りありのままを極言して憚らず、上疏を出すとともにすぐに辞職を求めた。

人柄

  • 先生は生来恬淡でありながら深く堅固な修養を積んでいた。日常は端座し立ち居振る舞いにも節度があり、その後にようやく口を開く人物であった。遠目には枯れ木の枝のようだが、近づけば温かく、慌ただしい時でも疾言や急な顔色を見せることがなく、人に無礼を受けても咎めることがなかった。読書では自らの説を立てることに努めず、『論語』の注釈書数十家を集めて要点を抜き自説を付した。

晦翁の祭文

  • 朱熹(晦翁)は祭文で先生の生涯を次のように讃えた。「先生の生まれつきは温良で、二十歳で学に志し四方に発憤して蓬蒿の中から身を興した。臨漳に至って学は家より承け、行いは郷に著れた。王府に献策し膠庠(学校)に遊学し、退いては洛陽の隠者に師事し、また蜀の莊公(譙天授)に束脩をもって入門し、一語で妙契し天の光を発した」。
  • 「浩然として東に帰り衡泌に隠れ、簞食瓢飲・糟糠を良しとし、あるいは渓で漁をし、あるいは岡で耕作した。水に鯉は肥え、薬草は豊かに育ち、これをもって養いとし、老いても康らかに、これをもって楽しみとし、逍遥として月日を過ごした。心はゆったりとし、歳月は荒れゆくままに、白髪となっても名は帝の傍らに聞こえ、弓旌鼎の礼をもって招聘の幣が至った」。
  • 「義として親を去らず、隠れようとしてなお彰れ、ついに梓桑の地で教えを典るよう命ぜられ、人材育成の功は今なお忘れられない。中秘の官として典冊を司り、晩年には群儒の望むところとなり、朝廷で謀を陳べその声は廟廊に震えた。人は『先生は允に仁にして剛』と評した。ついに旧廬に帰り、長寿と善を全うしたが、なんと不幸にも突然世を去られた」。
  • また祭文には、「先生は諸生を教える折々、古人の善行を短冊に書き記し、あるいは詩文・銘賛を添えて壁に貼り、往来の者にこれを誦させ、みな熟達させた」ともある。