宋名臣言行錄外集卷六十九 胡宏

出自と経歴

  • 胡宏、字は仁仲、号は五峯先生。胡安国(文定公)の末子である。
  • 幼くして大道を志し、京師で楊時(中立)に学び、さらに荊門で侯師聖に師事して、最終的に父・文定の学統を受け継いだ。
  • 晩年に朝廷から召命を受けたが、病に伏して出仕できないまま没した。

学問の風格(南軒の評)

  • 先生は南山のふもとで二十年余りを悠然と過ごし、昼夜を問わず心を神明の道に遊ばせ、知り得たことを親身に実践した。
  • 太極の精妙な趣旨を分析し、帝王の政の根本を窮め、万物の理を一つの根源に総合し、古今を一息に貫いた。
  • 人欲の偏りを見極めて天理の全体を明らかにし、形而下の事象において無声無臭の妙理を発揮した。
  • 学ぶ者に端緒の近さを体験させ、高く深い境地へ導く力量を持ち、体用ともに備わり、これを取り上げて実践できるものであった。先生の道に対する見識は明晰で、その拡充も極めて深いと評された。

『知言』をめぐる南軒との問答

  • 張栻(南軒)は「『知言』一書は先生平生の自著であり、その言葉は簡約でその意義は精密、道学の要諦、治世の指針である」と評した。
  • ある人が南軒に問うた。「『論語』は性についてほとんど語らず、『中庸』にわずかに『天命之謂性』とあり、孟子に至って初めて性善を説いた。ところが『知言』は性について繰り返し詳論している。これは聖賢の意にそぐわないのではないか」。
  • 南軒は答えた。「そうではない。孔子は性を明言しなかったが、子貢はすでにそれを察知し『夫子の言う性と天道は聞くことができない』と述べた。これは実は聞けなかったのではなく、孔子の言葉すべてが性と天道の流行そのものだったのである」。
  • 南軒はさらに、孟子の時代には楊朱・墨翟・告子らの異説が並び興ったため孟子は大本を示して惑いを止めさせたが、当今の異端は心を識り性を見ると自称してその説が広く行き渡り、高明な人士がかえってこれに喜んで赴き、一度その中に溺れると本心を失い万事を崩し、わずかな差が天地ほどの誤りとなる、その禍は言い尽くせないと述べた。
  • 五峯先生はこの弊害を憂えて敢えて論じたのであり、「誠は天下の性を成し、性は天下の有を立て、情は天下の動を効し、心は性情の徳を妙にする」「誠は命の道、中は性の道、仁は心の道であり、仁者のみが性を尽くし命に至ることができる」と説いた。
  • 学ぶ者が視聴言動の間で精察し、心の妙なる働きを卓然と知れば、性命の理は黙って会得できる。そうして初めて先生の意が古人と符節を合わせるように一致することが分かる、と南軒は結んだ。

『知言』本文の要旨

  • 『知言』にいう。「天命之謂性、性は天下の大本である。堯・舜・禹・湯・文王・孔子の六君子が先後して教えを伝えるとき、必ず『心』と言い『性』と言わなかったのはなぜか。心とは天地を知り万物を宰領して性を成すものである」(南軒はこれを改めて性情を主とした)。「六君子は心を尽くした者であるから天下の大本を立てることができ、人は今に至るまでこれに頼っている。そうでなければ異端が並び興り、物はその類に従って〓(底本欠字)分かれ、誰がこれを一つにまとめられようか」。
  • また「道は身に満ち天地に塞がるが、肉体に拘泥する者はその大きさを見ず、飲食男女の事の中に存するがその流れに溺れる者はその精妙さを知らない。諸子百家は臆測で意味づけ、弁舌で飾り立て、伝聞や見聞をそのまま受け継いで、心の官・性命の理を茫昧なまま放置している。悲しいことに、邪説暴行が盛んに行われて惑わされない者が少ないのはこのためである。ではどうすべきか。『わが身を修めるにある』」と説いた。
  • さらに「天理と人欲は同体にして異用、同行にして異情である。進修する君子はよくこれを分別すべきである」と述べた。

朱子による『知言』批判

  • 朱子は「『天理人欲同體而異用』の一句は言い方がよくない。天理と人欲がどうして同体でありえようか。これでは性が善にも悪にもなりうるという話になり、かえって人欲の巣窟を体としてしまうことになる」と批判した。
  • 呂祖謙(東萊)は「『知言』は『正蒙』に勝る」と言ったが、朱子は「それは後から出た方が巧みに見えるだけだ。『正蒙』は規模が大きく、『知言』は小さい」と評した。
  • また朱子は、「近世の精義の説では『正蒙』が最も詳しいが、五峯もまた『居敬は精義の所以である』と述べており、この言葉は特に精切で味わい深い」と述べた。
  • 朱子はさらに、「天命を物に囿われないとするのは可だが、善に囿われないとすれば天の天たる所以を知らないことになる。悪は性と言えないとするのは可だが、善だけでは性を語るに足りないとすれば、善の由来を知らないことになる。『知言』にはこうした自己矛盾の議論が多く、告子・楊子・釈氏・蘇氏の言とほとんど変わらないところがある。かねて疑いを抱いていたのはこのためであり、五峯の門で直接質すことができなかったのが惜しまれる」と論じた。
  • 朱子はまた、「『知言』の議論には近ごろ張敬夫(南軒)・呂伯恭(東萊)と共に疑問視した点が多い。心が性を成すという体用の説、性に善悪なく心に死生なしという説、天理人欲同体異用の説、まず仁体を識ってから敬を施すべきとする説、まず大なるものに志してから小なることに従うべきとする説など、天道の変化を世俗の応対に持ち込む議論、また游・夏の孝についての問答の論じ方など、この類が非常に多い。その言葉は概して急迫で寛裕さに欠けるのは、もっぱら智力で探り取ろうとして涵養の功が全くないためだが、その思索の精到さは及びがたい」と述べた。
  • また、「『知言』の書は用意が精切だが気象が急迫で穏やかさに欠け、いくつかの大きな要点でも誤りがある。性に善悪なしとする説、心を已発とする説、先知後敬とする説など、いずれも聖賢の本旨を失している」とも評した。
  • 朱子は「五峯はよく思索したが、思索の行き過ぎもあった」と総括した。

臨終の言葉

  • 五峯は臨終のとき、弟子の彭仲徳(處徳美)に「聖門の工夫の要点はただ『敬』の一字にある」と告げた。これは名言として伝わる。

文集・亭記への評

  • 五峯には「有本亭記」があり、その道理はよいが、文章の構成は文人特有の技巧的なものであると朱子は評した(以上朱子の言を並べたもの)。

南軒による文集序

  • 張栻(南軒)は先生の文集の序で次のように述べた。「先生はもとより文を作ることを意図した人ではない。折々の詠歌は自らの性情を紓写するものにすぎず、その他の著述や問答往来の書簡もすべて道義を明らかにし異同を検討するためのものであって、世の文章家のようにひたすら言語を弄ぶものではなかった」。
  • 「先生は若くして文定公(父・胡安国)の教えを受け、生涯にわたって日々徳を進めたため、その言葉や議論に表れるものも月ごと年ごとに変化していった。しかしながら先生の学問はついに時に大きく用いられることなく、不幸にも中年で世を去り、文字に残されたものもこの程度に留まった。まことに嘆かわしいことだが、その志の遠さ、造詣の深さ、綱領の大きさ、義理の精緻さは、後の人がこれを推し量って知ることができるだろう」。

南軒との出会いのすれ違いと和解

  • 南軒がかつて先生を訪ねたとき、先生は病と称して面会を辞退した。後日、南軒が孫正孺と会ったとき、孫が五峯の言葉として「彼の家は仏を好む」と語っていたことを伝えた。南軒はこれを聞いて初めてこれまで会ってもらえなかった理由を悟り、改めて訪ねると話がよく通じ合い、ついに師事するに至った。
  • 南軒は「わたし(栻)がもし孫正孺に出会わなければ、道を誤るところだった」と語った。