宋名臣言行錄外集卷六十八 胡安國
胡安國(字は康侯、建州崇安の人、紹聖四年進士及第–紹興八年没)。三十年をかけて『春秋伝』を完成させ、伊洛(二程)の学を継いで春秋学に生涯を捧げた学者・官僚。靖康の初めには帝王の学と国是の確立を説き、南宋成立後も再三の召しに固辞を重ねつつ経学の講義に努めた。
出自と経歴
- 字は康侯。建州崇安の人。紹聖四年、進士に登第し常州の判官を授かった。江陵の推官に改められたが赴任せず、荆門への道すがら江陵の帥守・監司に一目見られて意気投合し、荆南教授を除せられるよう奏請してこれが許された。太学録に除せられ、外任を求めて湖南学事の提挙となった。崇寧五年、学事の例による罷免に遭い、成徳軍の副官となったが、遺逸を推挙したことで譴責を受け除名された。大観四年、官を復し、元符の断(判定)を改められた。宣和元年、江東学事の提挙となったがほどなく官を辞した。晩年、侍臣がそろってその経学の有用を推薦し、致仕の詔が撤回されて尚書員外郎に除せられたが三度辞退しても許されず、ついに中舎に除せられ三品の服を賜った。宰臣がこれを排斥し殿撰・知通州に除せられた。中興の初め、給事中として召されたが三度辞退した。建炎三年、再び召されたが固辞し祠官を主った。紹興の初め、中舎兼侍講に除せられたが辞退が許されず、二年に至って就職した。呂頥浩が公はしばしば詔を受けながら偃蹇(不遜)であると言ったため、祠官に落とされた。五年、徽猷閣待制・知永州に除せられたが辞し、詔により太平観の提挙に差された。ほどなく寳文閣直学士に除せられ、八年、書堂の正寝で歿した。
太学時代の学問
- 若くして太学に入り、昼夜刻苦して励んだ。同舎の穎昌の靳裁之がかつて程氏の学を聞いており、公とともに経史の大義を論じ合ったため、公の学識はますます強くなり、日に日に明らかになった。
進士策問での高評価
- 登第の際の策問では、大要として熙豊の政を復すべきかを問われたが、公は大学の格物致知・正心誠意によって天下を平らげる道を推し論じ、その辞はほぼ一万言に及んだ。考官はこれを見て第一位に定めたが、宰執は策の中に元祐を貶す言葉がないとしてその順位を下げようとした。しかし哲宗が親しくこれを抜擢し第三位とした。
靖康初の対策上奏――帝王の学
- 靖康の初め、京師に至ったが病のため休暇を取っていたところ、ある日昼寝の枕上に急ぎ召された。参内して「明君は学を務めることを急務とし、聖学は正心を要とします。心とは事物の宗であり、心を正すとは事を推し量り物を宰する権です。もし章句を分析し文義に牽制されることばかりで心術に益がなければ、それは帝王の学ではありません。願わくは治国平天下の本に明るい名儒を選び、虚心にこれを訪ねて広く独智を発せられんことを」と奏上した。
揺るがぬ国是の必要性
- また「天下国家を為すには、必ず一定にして易うべからざる計謀が必要です。議論をひとたび定めれば君臣は固くこれを守り、たとえ浮言異説がこれを揺り動かしても最初の計を移してはなりません。そうすれば志は必ず成り、治功は立てられるでしょう」と奏上した。
許翰による人物評
- 淵聖(欽宗)はある日、中丞・許翰に「安国を知っているか」と問うと、「私はその顔を知りませんが、久しくその名を聞いております。蔡京が政を得て以来、天下の士大夫で彼に籠絡されない者はほとんどいませんが、超然として遠く迹を離れ、その汚れを受けなかったのは胡某ただ一人です」と答えた。淵聖はこれを聞いて驚嘆した。
何㮚の四道帥臣案への反対
- 何㮚(何栗)が「天下の勢いは、治平の時代には内を重んじ、変事のある時には外を重んじるべきだ」として、四道に帥臣を分置し都総管とし、それぞれ一面を守らせ王室を衛り敵冦を防ぐ計を建議した。公は「内外の勢いは平衡であってこそ安泰であり、偏り重ければ危うくなります。今、州郡の権は軽すぎますから通変が必要ですが、一挙に数百州・二十三路もの広大な地を四道に分ければ、権力は再び重くなりすぎます。もし万一抗衡・跋扈して号令に応じない者が出れば、どう対処するのですか。現存の帥司の中から重臣を選んで都総管の権を付与し、専ら軍旅を治めさせ、毎年一度その管内を巡察させ、もし京師に警急があれば各帥がその属地から応援に赴くようにすれば、京師を擁衛する態勢を保ちながら、尾大不掉(末端が大きすぎて制御できなくなる)の憂いもなくなり、一挙両得となりましょう」と奏上した。
張浚の推挙と辞退の書
- 枢密の張浚が公を大用に足る人物として推挙し、給事中として再び召したが、公は辞退し、宰相・呂頥浩への書に「そもそも嘉祐の政事の大要は民を愛することを本とし、謀を審らかにすることに始まり、果断をもって成る。今、朝廷は兵政を治めて国を強くしようとしているのに、官吏は民を恤み兵を養うことを知らない。これでは稼を育てようとして水を涸らし、木を茂らせようとして根を除くようなものであり、嘉祐の愛民の意とは相反する。また衆議が紛紜として国是が定まらず、命令が交錯して民の信を得ておらず、法制が数々改められて下は何を守るべきか知らない、これもまた嘉祐の審謀・果断の精神とは異なる」と述べた。
定計論
- 「乱を撥め衰を興すには、必ず前もって定まった動かすべからざる計がなければならない、そうして初めて功が成る。陛下が即位して六年、都を建てるには必ず守り不移の居がなく、賊を討つには必ず操り不変の術がなく、政を立てるには必ず行い不反の令がなく、官を任ずるには必ず信じて疑わぬ臣がない。今これを図らねば、後悔しても及ばない」と論じた。
設險論
- 「険を設けるには人を得ることを本とし、智計を先とする。人が険に勝るのが上策であり、険が人に勝るのは下策であり、人と険が均衡するのがようやく中策である。今の憂いはただ険にのみ頼って人の謀がまだ善くない点にある。上流を固めるには漢沔を保つべきであり、下流を固めるには淮泗を守るべきであり、中流を固めるには重兵をもって安陸を鎮めるべきである。これは長江を守る常道であり、小さな変化はあってもその大概は易えられない」と論じた。
正心論
- 「心は身の本である。心を正す道は、まずその知を致し、その意を誠にすることにある。それゆえ人主は学ばずにいられない。禍乱を戡定(平定)するのが急務であっても、必ず方寸(心)に本づかなければならず、学んで知を致さねば方寸は乱れる。それでどうして帝王の業を成せようか」と論じた。
養氣論
- 「用兵の勝敗は軍旅の強弱に係り、軍旅の強弱は将帥の勇怯に係り、将帥の勇怯は人主が養う気の曲直如何に係る。人主が将を将いるには、直をもって気を養うべきであり、自ら反りみて縮(正しさ)があれば、孟子のいわゆる『約』であり、狐偃のいわゆる『壮』である。壮であれば強い。曲をもって気を喪えば、自ら反りみて縮なければ孟子のいわゆる『餒』であり、狐偃のいわゆる『老』である。老であれば弱い。おおよそ曲直は兵家が勝敗を制する先の機である。陛下は勇んで善を為し、ますます徳を新たにし、曲と言われる点をなくせば、剛気は両間(天地の間)を塞ぐことができ、震(雷)のような怒気は天下を安んじることができよう」と論じた。
宏度論
- 「人主は天下をもって度(器量)とする者である。好むところは王道に従うべきで私的な労をもって賞を行うべきではなく、悪むところは王路に従うべきで私的な怨みをもって刑を用いるべきではない。その喜怒は必ず節度に中るべきで、和気が絪緼(充満)してこそ万物を育てる。陛下の聖度は虚明で天心は広大であり、私的な喜びで諛佞の者を近づけるべきではなく、私的な怒りで正直な者を遠ざけるべきではない。当然の賞を与えれば天命とみなされ、当然の罰を与えれば天討とみなされる。これを一人に施せば千万人が悦んで畏れよう」と論じた。
寛隠論
- 「君が臣下を遇するには、恩礼は一様であっても、崇高で厳格な態度は常に武人に対して行い、その驕悍で使いにくい気を折るべきであり、柔遜謙屈な態度は常に林壑に退き隠れた士に対して施し、その廉靖無求の節を励ますべきである。そうしてこそ人材を駕馭し風俗を正すことができる。威を加えるべきところに加えて威を立て、勢いを屈すべきところに屈して勢いを忘れさせれば、道は昌える。詔を降して、召されても赴けなかった者はみなその望みに従わせ、強いて呼び寄せないようにすべきである。ただ威刑をもって外は暴横な戎狄に、内は貪残の賊、讒説殄行(讒言による害)の臣に対して施せば、治道は成るであろう」と論じた。
春秋の進講
- 上(皇帝)は「そなたは春秋に奥深いと聞いている、講論させようと思う」と言い、左氏伝を公に付して句読と音を点ぜしめようとした。公は「春秋は仲尼(孔子)が自ら筆をとったもので、実に経世の大典であり、空言の類ではありません。陛下がもし僭叛を平らげ、寳図(帝業)を回復し、乱臣賊子を懼れさせて事を起こさせないようにされたいなら、仲尼の経に心を寄せるべきであり、そこに南面(統治)の術がことごとく備わっています」と奏上した。これにより侍講を兼ね、専ら春秋を進講することになった。
呂頥浩・秦檜との軋轢
- 朱勝非を都督江淮荆浙諸軍事に任じる件があった際、公は「長江に沿った都督の人選の得失は国の安危にかかわります、勝非は頼りとするに足りないのではと恐れます」と奏上したが、朱勝非を召す詔が下った。当時、呂頥浩が都督から朝廷に戻り、右相・秦檜を退けようとして、公を党魁に見立て、力を尽くして勝非を助勢として引き入れ、公の奏擬を根拠に「安国はしばしば召されても来ず、今初めて出仕したのにまた多く意見を述べる、彼の考えとしては善くとも、百官がこれに倣えば国政はどうなるのか」と責め、ついに公は官職と祠官まで落とされた。
隠棲――衡嶽へ
- 公は舟に乗り、川を遡ること三日にして出発し、途中衢州で医者を訪ね、再び二十日ほど留まり、豊城に至ってさらに半年寓居し、ようやく南江を渡って衡嶽に休らい、土地を買って書堂という名の廬を結び、そこを終焉の地と定め、当世への念を頹然と絶った。
春秋研究の三十年
- 初め、荆公(王安石)は文字の学によって経義を解こうとし、自ら千聖一致の妙と称したが、春秋については偏旁点画をも通じることができないとして、これを「断爛朝報」と貶し廃棄して学官の科目から外させた。崇寧年間に至ると禁は一段と厳しくなり、旧家や遺俗にわずかに三伝の旧本が残るのみで、これを見る者は撫でて歎くほどとなり、仲尼が世を経営する心はほとんど絶えかけていた。公は壮年からこの書に心を寄せる志があり、「六籍の中でこの書のみが先聖の手から出ながら、人主にこれを聞かせず、学者にこれを伝習させないでいる。倫理を乱し理を滅ぼし、夷をもって夏を変じるのはおそらくこれによるのだろう」と語り、心を潜め意を刻んで、古今の諸儒の著述で百家に及ぶものを集め、片言の善なるものも採り拾って洩らさず、義を害する箇所は切に深く弁正し、あるいは去りあるいは取り、一毫も好悪の偏りなく、論語・孟子を準則とし、五経をもって権衡とし、歴代の史をもって証拠とし、窮め研き玩味し游泳し沈酔することおよそ三十年、そして伊川(程頤)の作った伝を得るに及び、その中の精義十余条が符節を合わせるがごとく一致しているのを見て、ますます自信を深め、探索にいっそう勤めた。ここに至って年六十一にして書がようやく完成し、感慨深く「この伝こそ心を伝える要典である」と歎じた。克己修徳の方、君父を尊び乱賊を討ち夷狄を攘い天理を存し人心を正す術について、繰り返し詳らかに記さないことはなかったという。
人柄――為善去悪の徹底
- 公は傑出絶異な資質を持ち、善を見れば必ずこれを為し、為せば必ずその成功を求め、悪を知れば必ずこれを去り、去れば必ずその根を絶った。幼少より俗塵を超えた趣があり、登科後の同年の宴集で酒量を過ごしたことがあったが、それ以後生涯二度と酔うことはなかった。かつて奕(囲碁)を好んだが、ある時人に「一度の及第に、徳業はついに碁で終わるのか」と自ら責め、以後二度と碁を打たなかった。学官として京師にいた頃、同僚が妾を買うことを多く勧めたが、慨然として「私の親は千里の彼方で私の養いを待っている、これを急ぐべきことか」と嘆じ、その議を止め、生涯二度と妾を買わなかった。長沙にいた日、部を巡って衡岳を過ぎ、その雄秀を愛して一度登覧しようとしすでに行装を整えていたが、ふと「これは職事の場ではない」と思い直し、すぐに取り止めた。荆南の官を離れる際、僚旧が渚宮で送別の宴を開き楽妓を呼んで待っていたが、交代の楊龜山(楊時)は簡素な膳を用意し公と語り合い、清座して論語・孟子を語り合ううちに、日が暮れるのも忘れるほどであった。壬子の年、闕に赴く途中、上饒で従臣の家に招かれた際、姫妾を飾らせて出させ酒を勧めさせようとしたが、公は顔をしかめて「二帝(徽宗・欽宗)が蒙塵している今、国歩は危うい、どうして我らが宴楽にふける時であろうか」と辞退し、その人は恥じ入って止めた。
辞受・出処の厳格さ
- 辞退・受納・取捨は些細なことにも必ず義に照らして判断し、恬静簡黙で言動も控えめであった。宴閑や独処の時でも書物を手放さず、朝夕子弟の安否を問う際にも必ず「何を学んでいるか」と尋ね、意にかなうものがあれば「士たるものは聖人を志すべきであり、深きに臨んで高しとするな」と語った。怠慢で不敬な様子を見れば必ず眉をひそめ「時は惜しむべきだ、小人に成り下がってはならない」と語った。子弟がたまたま外出して宴会に加わり、たとえ深夜になっても帰るまで眠らず、必ずその酔い加減、どのような客と会ったか、何を論じたか、益があったか無かったかを尋ね、これを常とした。遠方から学びに来る士子には、その資性に応じて接し、おおむね立志を先とし忠信を本とし、致知をもって窮理の漸とし、敬をもって持養の要とした。常に曾子の言葉「君子の人を愛するは徳をもってし、小人の人を愛するは姑息をもってす」を誦え、それゆえ辞色を貸すことなく(甘い顔をせず)、子弟や学者にも志を屈することなく、みだりに唯々諾々として人の悦びを求めるようなことはさせなかった。
若き日の釈氏研究と離脱
- 壮年の頃、釈氏(仏教)の書を読んだが後にこれを退けた。贑川の曽㡬への返書に「窮理尽性は聖門の事業であり、物ごとに察知することが窮理の始めであり、一以て貫くことが知の至りである。あなたの書には五典四端をそれぞれ充拡すべきとあるが、これも物ごとに察するものであって一以て貫くの要ではなく、足を挙げずして泰山に登ろうとするようなものだ。四端はもとより外から与えられたものではなく、五典と天叙は違えることができない、四端を充たし五典を敦くすれば性は成り倫は尽くされる。釈氏に『心を了る』説はあるが、その未だ了られないところは、まず理を窮めることをせず、かえってこれを障りとみなし、用いる場において究竟しないからである。それゆえその説は流転して、物に接し事に応じるとき顛倒錯繆し、点検に堪えない。聖門の学は致知をもって始めとし窮理をもって要とし、知が至り理が得られれば、日が中天にあるように万象がみな見え、行いに疑いを持たず内外が合する。それゆえ修身より天下国家に至るまで処すところとして当たらないことがない。あなたはまた良知良能を充たして尽くすことと宗門の要妙とは互いに妨げない、なぜあちらを捨ててこちらを取る必要があるのかと言うが、良知良能は愛親敬長の本心であり、儒者はこれを広げて充たし天下に達しようとするが、釈氏はこれを前塵妄想とみなし、根を批き抜いて滅ぼそうとするのであって、正反対である。それを互いに妨げないというのはどういうことか」と論じた。
出処進退の姿勢
- 公は出処進退において道に由り義に拠り、心の安んずるところに従って行った。出仕は勧奨によるものではなく、退くのも引き留めることができなかった。朱震が召された際、出処の宜しきを問うと、公は「世間では、講学論政については切実に詢究すべきだが、身の去就・語黙の機に至っては、人が飲食してその飢渇寒温を自ら斟酌するように、自ら決めるべきで、他人が決められるものでもない、と私は考える。私の出処は崇寧以来すべて心の内で自ら断じており、定夫(游酢)・顯道(謝良佐)ら諸先輩でさえこれについて相談したことはない」と答えた。
游楊謝三君子の期待
- 游・楊・謝はみな二程の高弟であったが、公は二程の門に及ばなかったにもかかわらず、この三君子はみな斯文(儒学)の任を公に期待した。謝公(謝良佐)はかつて朱震に「康侯(胡安国)はまさに厳冬の厳雪の中で百草が萎え死んでも松柏だけが挺然として独り秀でるようなものだ、もし彼がこのような困厄に遭うなら、それは天が大任を降そうとしているのだ」と語った。
尊崇する人物
- 公は古人を論ずるにあたり諸葛武侯(諸葛亮)を第一とし、本朝の卿相では韓忠獻公(韓琦)を冠とし、常にこれを慕い仰ぎ言及した。
老年の気質
- 公はもともと性格が剛急であったが、老年に至ると気宇は冲澹(穏やか)となり、和楽の中にも毅然として犯すべからざる気配があり、厳正の中にも薫然として親しみやすい趣があった。年老いて病を得てもなお礼を謹んで平時と変わらなかった。
貧に処する姿勢
- 家は代々至って貧しく、転居流寓を重ねてついに窮乏に至ったが、「貧」の一字を、親しい人の間でさえ口にせず、また文字にも書かなかった。子弟に「人に対して貧を言う者は、何を求めているのか、汝らこれを心せよ」と戒めた。
生涯を通じた清廉
- 公の風度は凝逺で、蕭然として塵俗を超え、天下のいかなる物も心を煩わすに足りないと見た。取捨は些細なことにも必ず義に照らして判断し、飢えても得られなければ食べず、寒くても得られなければ着なかった。登第から致仕に至るまで四十年、実際に官にあったのは六年に満たなかった。しばしば罪により去りながらも、君を愛する心は遠ざかるほど篤くなった。召されるたびに家事を顧みず、通夜眠らずに君に告げるべきことを思案したが、宦情は寄留の身のごとく淡く、好むところはそこにはなかった。
上蔡による評
- 上蔡(謝良佐)は「あなたが道に進むこと甚だ篤く、徳業が日に美しくなると聞く、その及ぶところに涯涘(限界)はあろうか、まことに畏敬すべきだ。さらにその大きなところを小さな事物にも移して日用の工夫とすればなおよい」と語った。
南軒による評
- 南軒(張栻)は言う。公は河南(二程)の門には及ばなかったが、游・楊・謝と交わりその説を講じ、その自得の奥は春秋にある。明時に遇い経を執って侍講に入り、正大の論をもって当世を動かし、三綱を扶け大義を明らかにし邪説を退け人心を正した、これも斯文に功があったというべきである。以上、建寧祠記による。
晦庵(朱熹)による評
- 晦庵(朱熹)は言う。公は伊洛の道を伝え、志は春秋にあり、書を著し言を立てて君を正し後世に垂れ、天理を明らかにし人心を正し三綱を扶け九法(洪範九疇)を叙するところ、深切著明にして体用が該貫している。その正色危言は、事を論ずるにあたり剛大正直の気に満ち、古人にも劣らない。以上、朱子の語による。
呂尚書との交わりの跋
- 公と呂尚書との書簡帖の跋に「朋友の交わりは、責善(互いの善を求め責め合う)によって己の誠を尽くし、取善によって己の徳を益するもので、互いに恩を施し合うものではない。ただ各々その道を尽くしてみだりにしなければ、麗澤(互いに切磋琢磨する)の益は自ずと止まないものである」とある。この帖を読む者は凛然として敬意を起こし、厳師畏友がその前後左右にいるかのように感じるという。ああ、これらの数君子はまことに朋友の道を尽くしてみだりにしない者であり、その卓然として当年に自立し、後世に伝わる遺風余烈は、決して偶然ではない。
春秋傳への朱子の評
- 胡文定の春秋伝には、ただ「轅濤塗を執う」の一事のみを取り上げて器が小さいとする箇所があるが、これは牽強である。管仲が桓公を助けて楚を伐たせた際、ただ包茅の貢と昭王の南巡不反の二事を問責したのは、年代が久しく冷めていた罪過をわざわざ探し出したもので、当時無大利害と判断してあまり深く咎めなかっただけであり、これもまた器が小さいと評すべき理由になろう。
- 胡氏の春秋伝には牽強な箇所があるが、議論には開合(展開)の精神がある。
- 朱熹は文定の家説を親しく聞いたことがある。文定春秋説は、孔子は夏の時を月に冠し、周の正朔をもって事を紀したとし、公の即位は依然として十一月であり、ただ孔子が正月に改めて「春正月」としたのだという。しかしこの説は二百四十二年の間、孔子はただ「行夏之時」という四字を証すために書いたことになってしまう。今の周礼によれば正月・正嵗があり、周は実際に元を改めて春正月としたのだから、孔子の「行夏之時」はただ建寅に順わないことを改めようとしただけである、と朱熹は疑いを示した。
- 胡氏の「公即位」の説は結局筋が通らない。踰年の即位で凶服のままどうして廟に入れようか。胡氏は冢宰が代わって即位を摂行し、摂行できるなら即位も摂行できるとする。例えば十一月乙丑、伊尹が冕服を奉じて嗣王(太甲)に対したこと、また「十有三祀」の際に喪服を除いていたことがある。康王の誥について蘇軾は「これは召公の失礼だ」と論じたが、思うに古の大事にはこのような権宜(臨機応変)があったのであろう、借吉(喪中に吉礼を借りる)の例のようなものである。
- 胡氏の春秋説は説き方が深すぎる。しかし大義は正しい。
- 胡氏が説くところはすべて正理であるが、聖人が当初どのように考えたのかは今となっては知りようがない、それゆえ朱熹は春秋については一言も措く(軽々しく判断する)ことをせず、憶測して臆断することを恐れているのだ。
- 胡氏は「春秋が獲麟に筆を絶ったのは志が一(麒麟の出現に感じて)であるためだ」と説くが、これは気に動かされた見方であり、その説き方はなかなか良い。
- 経を解いて世務に通じる点では文定に及ぶ者はない。しかし彼に経筵官を務めさせようとしてもなかなか承諾せず、去ろうとばかりするのはどういう考えか分からない。彼には退いて著書立言し後世に垂れようという意図があったのだろう。
- 胡氏の春秋説は悪くはないが、この件は聖人の意がどうであったか、あの件は聖人の意がどうであったかと合わないところがある。要するに聖人はただ直筆をもって見在の事をそのまま書いただけであり、これほど多くの忉怛(苦悩・詮索)があったはずはない。
- 胡氏の春秋は義理を論じ終える前に、その文字を見ればこの老人の胸中の間架規模が草々(いい加減)ではないことが分かる。
- 胡氏の春秋がただ「忠孝に帰す」ことばかり説くのは経疑にあたらないか、果たして孔子の意を得ているか問われ、「そうとは限らない。詩・書は一重二重を隔てて説くもので、易・春秋は三重四重を隔てて説くものだ。春秋の義例は易の爻象と同じく聖人が立てたものだが、今それを説く者は各々自分の見解を用い、人倫の大綱についてはみな通じているが、聖人の当初の本意に得たかどうかはまだ分からない。ひとまず彼らにそう説かせておき、三綱五常が廃れないようにしておけば十分だ。今、聖人の本意を直ちに得ようとして違わないようにしたいなら、まず他の経に取り組む必要はなく、まず論語・孟子を専心して見るべきだ、切に焦ってはならない、虚心にこれを観て、先に自分の見解を立ててはならず、徐々に俟つべきだ、課程(進度)を立ててはならない」と答えられた。
- 『胡氏傳家錄』の議論は極めて力があり、貪る者を立て懦弱な者を起こすことができるが、上(実践)の工夫がまだ至っていない。
- 文定はまことに卓然として自立した人物で、いわゆる「文王を待たずして興る者」であると問われ、「もとより資質が良かったからだが、太学にあって師友の訓えを多く聞いたからこそ、そのようになれたのだ」と答えられた。
- 文定の学は後に上蔡から得たものが多い。
- 文定の説はやや粗いがより良く、五峰(胡宏)の説は密だがやや病がある。
- 文定と秦檜が親しかった経緯について問われ、「秦はかつて密州の教官であり、翟公巽(翟汝文)が密州の知事となった際に宏詞に推挙された。游定夫(游酢)が密州を過ぎて翟のもとで同席し、秦を竒才と認めた。後に康侯(胡安国)が定夫に人材を問うと、真っ先に秦を挙げ『その人は文若(荀彧)のようだ』と言い、また『何事にも通じないことがない』とも言った。後に京城が陥落し、金が張邦昌を執政に立てようとした際、下の者たちは異議を唱える勇気がなかったが、秦だけは抗論して不可とした。康侯はますますその行いを義とし、張徳逺(張浚)ら諸公の前でこれを力説した。後に秦が金から帰り国政に与ると、康侯の期待はいっそう切実になり、書疏の往還や国政の論議もあった。康侯が詞掖(翰林院)や天筵(経筵)への召しを受けたのも、秦の推薦によるものであった。しかしその本心は堅く出仕を望まず、この頃すでに秦の隠微な一二を窺い知って難色を示し、老病を理由に辞退した。後に秦が大きく失態を演じたときには、康侯はすでに世を去っていた」と答えられた。