出自と経歴
- 字は光祖。邵武軍光澤県の人。元祐党人・李深の子。太学に遊学し郷薦を受けたがいずれも及第せず、紹興の初め、遺逸として推挙された。朱異が郡国を巡って戻り、公の名を対に挙げ、便殿での召対の後、〓令所の刪定官に除せられたが、間もなく喪に服すため辞した。喪が明けると進書の恩によって承務郎に改められたが、秦檜が用事するに及んで隠居した。しばらくして福建帥司に起用されたが、あることで帥に忤らい、病を理由に退官を告げた。紹興二十年に没した。享年六十。
龜山の教えと三十年余の求道
- 龜山(楊時)は程氏に受学した後、その説を東南に教授し、当時の学者はこぞってこれに従った。龜山は常々「唐虞以前は載籍が備わっていなかったのに、その時代には聖賢がかくも多くいた。晩周以来、秦漢を経て今に至るまで、文字の数は計り知れないほど増えたが、そのうち千百年を求めても顔回・曾子のような人物を一人も得ることができない。すなわち道の伝わりはもとより文字にあるのではなく、いにしえの聖賢が聖賢たるゆえんの用心が別にあったのだ」と語った。公が餘杭に龜山を訪ねて教えを請うた際にも「学ぶ者はまず古人の学問がどこに用心を置いていたかを知るべきだ。学びをまさに何に用いるのかを知らねばならない。もし孔門の学が仁のみであるとするなら、何をもって仁と言うのか。もし仁は人の心であるとするなら、何をもって人心と言うのか」と告げた。公はこの言葉を受けて退き、その説を求めて進めたが、投じれば投じるほど合わなかった。そこで論語・孟子の書を取って伏し読み、朝夕怠らないこと十八年、その後ようやく渙然として得るところがあった。龜山は深くこれを許した。公が学者に語る言葉もまた「学者は経を読み、また読み返し、その無味な箇所においてますます思いを致すべきだ。多くの疑いが並び起こり、寝食も忘れるほどになって、初めてそこから駆け進むべきだ」というものであった。
幼少期と龜山への入門・婚姻
- 公は幼くしていたずらを好まず、座立ちともに端正であった。少長じては舅である陳忠肅公(陳瓘)に学び、二十歳を過ぎて龜山にまみえて教えを請うた。龜山はひとめでその優れたことを認め、自らの娘を嫁がせた。
秦檜の専権下での隠棲
- 秦檜が用事すると、公は自ら禄仕に俯仰(迎合)することができないと悟り、邑の西山に室を築いてそこに往来し読書した。家もまた貧窮したが、人にはその憂いに堪えられない者もあるほどであったのに、公は独り悠然としてこれを意に介さなかった。それでも当時の賢い士大夫はますます彼を仰いだ。
人柄と学識の広さ
- 天資は粋美で涵養に方があり、目上に事えては恭しく礼をわきまえ、目下を治めては厳しくも恩情があった。平生怠る様子を見せず、人を教え諭す際も終日倦む色がなかった。自ら奉ずることは甚だ質素であったが、親に事えることはきわめて厚かった。世務や人情、官政や文法、さらに軍陣・農圃の事に至るまで究め知らないことはなかったが、ついに世に用いられずして没した。識者はこれを恨んだ。
論評――道学不伝の憂い
- ああ、聖賢は遠く隔たったが、その立言し訓えを垂れ、後学を開示したことはまことに至れりというべきである。ただ秦漢以来、道学が伝わらなくなり、儒者は自らを省みることを知らず、ひたすら記覧誦説(暗記と口伝)を事とするようになった。それゆえ道を有する君子は深くこれを憂えたが、それでもなお書を束ねて読まず、空妙を座して談ずることをよしとはしなかった。龜山が教えたところ、西山(李郁)が学んだところは、まことにこの姿勢によく表れているというべきである。