宋名臣言行錄外集卷六十四 朱光庭

出自と生い立ち

  • 朱光庭、字は公掞、河南偃師の人。嘉祐二年進士に及第し萬年簿となった。文潞公(彦博)が制科に薦めたが仁宗崩御で試が中止となり、その後喪に服し、修武令・坦曲令を経て樞臣の推薦で召され、呂汲公(大防)が長安を守るとき僉判に辟され、司馬温公の推薦で左正言に召され、左司諌・右諌議大夫・給事中を歴任、集賢修撰・知亳州、給事中復帰、知潞州、集賢院学士を経て、紹聖元年に五十八歳で没した。

学問

  • 初め胡安定(瑗)に学び、学問の本は忠信にあると教えられ終身これを力行した。後に二程に洛陽で学び、格物致知を道に進む門とし、正心誠意を徳に入る方とする教えを受け、造次にも忘れなかった。異端を力めて排し正道を扶けた。

官途での実務と諫言

  • 萬年簿として仮の邑事を数多くこなし、邑人に「明鏡」と称された。程伯淳(顥)・張山甫がそれぞれ鄠縣・武功の簿として並び称され、関中で「三傑」と呼ばれた。
  • 神宗への召対で、法度の改変が臣下の運用次第で便不便が生じることを説いた。
  • 司馬温公の推薦で左正言となり、大臣の忠邪を弁じ、天子が儒臣と経筵を重ねること、青苗法の緩和、太学に明師を置くことなどを絶えず論奏した。太皇太后は光庭の正直を嘉し朝政の欠失を安心して言うよう諭し、多くの建言が施行された。
  • 右諌議大夫として、後苑の花見・釣魚の宴を天の戒めを慎むべしとして罷めるよう請うた。
  • 劉摯の罷相に際し、功ある大臣が無名で去るべきでないと麻制(辞令)を封還し、「朋党と指弾されるなら甘んじて斥けられよう」と述べたが、鄭雍の攻撃により亳州知事に出された。
  • 洛陽の書室に「天道の要」「仁義の道」を記した両牖と「毋不敬・思無邪」の榜を掲げていた。

史論

  • 伊川(程頤)は哭辞で、光庭が学問興起の初めから疑わず篤学力行し、終生節を金石のごとく守ったと称え、循吏の風・王臣の節を惜しんだ。胡文定(安国)は熙寧・元祐・靖国間の名臣として張天祺・朱光庭を挙げ、その忠を尽くす姿勢を評価しつつも議論に行き過ぎがあったとも評した。