宋名臣言行錄外集卷六十四 呂希哲

出自と生い立ち

  • 呂希哲、字は原明、呂正獻公(公著)の長子。恩により官を補せられ、元祐中に兵部員外郎・崇政殿説書となった。紹聖初、太平州知事に出され党論により和州に謫居した。徽宗初に復官し単州知事、光禄少卿・直祕閣・曹州知事に召されたが、まもなく職を奪われ相州・邢州の祠禄に処された。政和中、七十八歳で没した。

厳格な家庭教育

  • 父正獻は寡黙で事物に心を煩わせず、母申国夫人は厳格に規矩を守らせた。十歳の頃から寒暑を厭わず終日侍立し、命じられずして坐らず、常に冠帯を正し、市井里巷の言葉や鄭衛の音楽(俗曲)に耳を触れさせず、不正の書・非礼の色に目を触れさせなかった。父が頴州倅(副知事)の時、厳毅方正な焦千之(伯強)を招いて子弟を教えさせ、その厳しい薫陶によって希哲の徳器は人並外れて成就した。希哲は後年「賢い父兄や師友なくして成る人は少ない」と語った。

学問の遍歴

  • 太学で胡安定(瑗)に学び、後に孫復・石介・李覯を経て王安石にも学んだ。安石が「官なき者の科挙は貧のため、官ある者が科挙を重ねるのは僥倖のためで学者の道ではない」と言うのを聞き、科挙を棄てて古学に専心した。程伊川と共に胡瑗に学び、伊川より年長ながらその学問の源流に非凡さを見て師の礼をもって仕え、明道・横渠・孫覺・李常らとも交遊した。特定の一説に偏らず枝葉を省き涵養に努め、曾子の学を慕い、知言を先とし自得を本とし躬行を実とし、虚言・異行を排した。

父正獻の薫陶

  • 父正獻は「この子は暗室でも欺かず、京師で官にあっても台諫を訪ねず、転任の際は執政に一度会うのみでそれ以上は会わない」と張耒に語った。
  • 正獻は当世の賢士を広く用い、かつて紙に名士の名を書き留めていたが失い、後に再び見つけたところその全員が既に登用されていたという逸話が伝わる。「当世の善士は皆用いたが、お前だけは私の子ゆえに用いなかった、これも命であろう」と手ずから書き遺した。

経筵説書としての功績

  • 説書として二年間、日夕人主に修身を本とし、修身は正心を本とし、心正しく意誠なれば天下自ずから化すことを説いた。
  • 諫官を辞して受けなかった際、蘇子瞻(軾)が邇英閣で「法筵の龍象たるもの第一義を観よ」と戯れたが、希哲は笑って答えず、後に范淳父に「辞して聴かれねば楊畏が首になろう」と語った。

晩年の生活

  • 宿州・真揚間に十余年住み、食糧に窮しても平然とし、州県に一切頼らなかった。和州では「借書と沽酒以外に事なし」の詩を作り、毎日『易』一爻を読み古今の諸儒の説を考え、子孫と古今を論じ合った。
  • 若い頃から官途で人に推薦を求めず、仲父呂舜従の「職事に勤しみ他を慎むこそ、知られることを求めることになる」との言葉を後生への戒めとした。
  • 橋の崩落で川に落ちても神色動じなかった逸話が伝わり、徐仲車(積)は「我敬吕公」の詩を贈って徳を称えた。
  • 郡令として鰒魚・干物・筍乾・蕈乾を蓄え、鶏鴨などの生き物を殺す代わりに賓客に供した。
  • 病人の苦痛を減らすため、飲食・衣服・薬・日常動作などを記した牌子を用意し、病人が指し示すだけで意思疎通できるよう工夫した逸話も伝わる。
  • 妻仙源との六十年の夫婦生活で一度も顔を赤らめたことがなかったという。

処世の教え

  • 「世人が『無好人(善い人はいない)』と言うのは自らを損なう言葉」として、包孝肅(拯)が京尹の時、遺金を巡り互いに譲り合った父子の逸話を引き、人は皆堯舜たり得ると説いた。
  • 後生の初学には「気象」(言葉遣い・立ち居振る舞い)を見れば君子小人の別も貴賤寿夭の別も分かると教えた。
  • 「己の悪を攻めて人の悪を攻めず」の教え、交遊の書簡で相手の父祖の諱を避けるべきことなど、細やかな処世訓を残した。
  • 小人に罵られた際の対処法として「上策は人我一体と知って忿怒せぬこと、下策でも自ら省みれば忿心も消える」と説いた。

史論

  • 朱熹は呂希哲の家伝について「前輩の涵養の深さに啓発されるところ多い」としつつ、「一門に偏らず一説を私しないというのは博にして雑、直截勁捷に聖人に至るというのは約にして陋」と学問の本末に問題があると指摘した。特に晩年仏学に傾き「仏と聖人が合致する」と見たことを、程門の教えの本旨(儒仏の別を明らかにすること)に背くものとして深く惜しんだ。