宋名臣言行錄外集卷六十四 劉絢

出自と生い立ち

  • 劉絢、字は質夫、先祖は常山の人で祖父の代に河南で仕官した。祖父の蔭により官を得て、初め夀安縣簿、後に潞州長子令に移った。元祐初、韓維の推薦で学官に充てられ、王巖叟らの推薦で春秋博士となったが、元祐二年に官にあるまま四十二歳で没した。

人柄と学問

  • 生まれつき質明粹、長じては温恭で、髫齓(幼少)の頃から二程に師事した。学ぶところに本末があり、知ることは深奥に至り、止まるべき所を知っていた。天性孝弟にして善を楽しみ異端に惑わされなかった。明道は「他人の学は敏ではあるが保ちがたい、この人の志は疑いようがない」と評した。
  • 気は和やかで体は荘重、議論はみだりに人に合わせず、歩みの一つ一つも学を忘れなかった。病中、李籲に「瞀悶(頭がぼうっとする)の時は正坐して端意すれば気が下る、平生の持養の気を疎かにできようか」と語り、呂與叔(大臨)の見舞いには「死生は常理、言うに足らぬが、ただ親に累を及ぼすことのみ念う」と答えた。

春秋学と最期

  • 王巖叟・朱光庭の推薦で春秋博士に召され、病を得ても学校で勉め論議を怠らなかった。学者に親しまれ、没した際は公卿大夫から師友学士まで皆その死を悼んだ。
  • 絢の春秋学は程氏に基づき、専ら孔孟の言をもって経の意を断じた。臨終に際してもなお義例を士大夫に質し、遺稿は未完のまま、最期に手足を整え自ら洗面してなお詩書を語ったという。

史論

  • 伊川は哭辞で「聖学の伝わらざること久し、我が生百世の後にこの道を明らかにし絶えた学を興そうとするも、力小さく任重いことを懼れていた。学ぶ者を広げれば力を尽くす者も増えると考えていたが、我が門に遊ぶ者多くとも、篤く信じ多くを得て果断に行い固く守った者は君のごとき者は稀であった。まさに君の力を頼みとしていたのに不幸にして没した」と、絢への深い信頼と喪失感を述べた。侯仲良は「明道の平和簡易な学風に最も近いのは劉絢」と評し、上蔡(謝良佐)も「門人の中で程先生の意を最もよく得たのは劉質夫」と称えた。