宋名臣言行錄外集卷六十一 程頤

出自と生い立ち

  • 程頤、字は正叔、伊川先生・正公と諡される。程明道の弟。進士挙に応じ嘉祐四年廷試で報罷(不合格)となり以後受験を止めた。呂申公(公著)が大学正への就任を求めたが固辞。元豊八年、汝州團練推官・西監教を授かった。元祐初、秘省校書郎に召され通直郎・崇政殿説書となり、鼓院を判じたが元祐二年に孔文仲の弾劾で西京国子監に転じた。父の喪に服し、その後直秘閣・西監判官などを経て、紹聖年間に党論により涪州に編管され、徽宗即位後は峽州に移され、赦により洛陽に戻った。崇寧二年、著書が朝政を誹謗するとして出身以来の文字を追毀され、龍門の南に移り住んだ。崇寧五年に宣義郎致仕、大観元年九月に没した。享年七十五。嘉定八年に諡を賜り、淳祐初に伊川伯に封ぜられた。

学問の出発

  • 幼くして非礼を為さぬ高い識見を持ち、十四五歳で兄明道と共に周濂溪に学んだ。十八歳で闕下に上書し、仁宗に王道を心とし民を念ずべきことを勧めたが応答を得なかった。太学に遊学した際、胡翼之(瑗)の「顔子所好何學論」の試に応え胡瑗を驚かせ、学職に迎えられた。呂希哲は隣室の学生ながら師の礼をもって仕えた。

出仕を固辞した年月

  • 任子の恩を族人に譲り、熙寧年間に近臣から度々推挙されたが「学未だ足らず」と仕官を望まなかった。呂申公・司馬光・韓絳らが繰り返しその行義を朝廷に上奏し、諫官朱光庭も「道徳純備、学問淵博、天民の先覚、聖代の真儒」と絶賛して推挙した。

元祐年間の経筵侍講

  • 元祐初、京師に召され校書郎に除せられたが辞退し、王巖叟の再度の上奏を経て召見された。経筵三事(講官の人選・侍従の人選・宮講の坐講)を上奏し、崇政殿説書となった。
  • 講義は経典の文義を超えて人主への戒めを説くことを常とし、顔子の「不改其樂」章では「陋巷の士も仁義身に在れば富貴に動じない」と説き聞く者を感嘆させた。文潞公(文彦博)に対する礼儀の厳格さについて問われ「潞公は四朝の大臣、恭しくせざるを得ぬ。我は布衣の輔導職、自重せざるを得ぬ」と答えた。
  • 上(哲宗)が柳枝を折る戯れをした際「春に発生する物を故なく摧折すべきでない」と諫め、「容」の字を避諱で覆う慣習も「臣下が過度に君を尊べば驕心が生じる」として改めるよう求めた。
  • 神宗の喪中の賀表や除喪後の開宴について礼にかなうよう度々諫言。金製の水桶を見て「上の御用なら諫めざるを得ぬ」と述べ、在職中禄を求めず妻の封も辞退した。

蜀党・洛党の対立

  • 文潞公・呂公著・范祖禹らは頤の講義に感服したが、蘇軾ら文士は「洛党」に対抗する「蜀党」を形成し、司馬光の弔問と賀正の礼をめぐる論争(哭則不歌の礼)から蘇軾と対立、以後互いに敵視するようになった。孔文仲の弾劾により西京国子監管勾に左遷された。范祖禹は後年、頤への誣告を悔い、その賢を弁護する上疏を行った。

涪州への貶謫

  • 紹聖年間、党論により田里に放たれ涪州に編管された。江を渡る際、舟が転覆しかけ皆が号泣する中、頤独り正襟して動じず、岸の老父に「心に誠敬を存するのみ」と答えると、老父は「誠敬より無心の方が善い」と言い残し去った。
  • 涪州で『易』の注釈を続け、門弟と講学して憂えず、赦されて帰っても喜ばず、以後は仕官の意なく一月の俸だけ受けて退いた。
  • 崇寧年間、著書が朝政を誹謗するとして出身以来の文字を追毀され、学徒は逐われ党籍に隷せられたが、頤は「聞くところに従い知るところを行えばよく、必ずしも我が門に至らずともよい」と門人を諭した。

晩年と易伝

  • 「吾は気を受けること甚だ薄いが、四十で盛んになり、七十二の今、筋骨に損なうところなし」と語り、忘生徇欲を深く恥じるとした。
  • 『易傳』は長年推敲を重ね、病篤くなってようやく尹焞・張繹に授けた。尹焞は「先生の学は易傳に集約される」と述べた。
  • 大觀初年九月、病革(危篤)に臨み、門人が「先生平生の学は今日にこそ用うべし」と言うと、力を振り絞り「道を著(あらわ)して用うるは、便ちこれ非なり」と答え、まもなく没した。

兄明道との関係と人物評

  • 明道は嘗て頤に「異日、師道を尊厳にする者は吾が弟なり」と語り、頤自身も「我が道は明道と同じ」と述べた。母夫人は幼少の頤らに知人の鑒を示し、二子の才を予見していたという。
  • 韓維との交友では、子弟の不敬な様子を厲声で叱り、孝謹の風を正した逸話や、黄金の贈り物を固辞した逸話が伝わる。呂汲公(呂大防)の絹百疋の贈与も「天下の貧者は多い、公の絹も足りぬ」と辞退した。
  • 二程が漢州の僧寺に泊まった際、明道は門を入って右に折れ従者も皆従ったが、伊川は左に独り歩み法堂で合流した逸話は、両者の性格の違い(明道は和易、伊川は厳重)を象徴するものとして伝わる。

経済・財政の見識

  • 謝良佐は「伊川は才大、大事に処すれば声色を動かさず事を成す」と評し、陜西の鉄銭を銅銭に改める議、解鹽の価格政策について頤の見識が実利に適っていたと伝えた。司馬光の役法改革についても「軽々に改めるべきでない」と慎重論を述べた。

学問の総合評価

  • 尹焞は「先生の学は至誠に本づき、疏通簡易にして矯異せず」と述べ、謝良佐・胡安国・胡宏・張栻ら門人・後学は皆、程頤・明道兄弟が孟子以後絶えた聖学を興したと評した。
  • 朱熹は程頤『易傳』を「理義精しく字数足りて一毫の欠闕なし」としつつ、易の卜筮としての本義とは必ずしも一致しないと指摘し、明道と伊川の学風の違い(明道は渾然天成、伊川は工夫造極)を繰り返し論じた。

史論

  • 胡安国は程氏の学問について、『易』では理により象を明らかにし体用一源を知り、『春秋』では聖人の大用を見、『論語』『孟子』では求仁・入徳の序を発したと総括し、その行いは忠誠孝悌に貫かれ、道義に非ざる辞受を一切取らなかったと評した。朱熹も「この道は程子に至ってようやく透徹して説かれた」と、二程の学統上の意義を高く評価した。