出自と生い立ち
- 程顥、字は伯淳、明道先生・純公と諡される。五世前は中山博野に居り、高祖の程羽は太宗朝の輔翼の功により京師に第を賜り、以来河南の人となった。二十歳を過ぎ嘉祐二年に進士に及第、鄠縣簿・上元簿・晉城令を歴任し著佐に改まった。呂公著の推薦で太子中允・権御史裏行・権発遣京西提刑を授かり、鎮寧僉判・監西京竹木務・太常丞・奉議郎などを経て、汝州税監を経て宗正寺丞に召されたが赴任前に元豊八年六月十五日、五十四歳で没した。嘉定二年に謚を賜り、淳祐初に河南伯に封ぜられた。
幼少期の逸話
- 明道元年の誕生時から神気秀爽で常の子と異なり、まだ話せぬ頃、叔母が簪を落としたのに気づかず数日後に探した際、指差してその場所を示し簪が見つかったという。数歳で成人の如き度量を示し、貪泉を酌む詩を詠んで志操を認められた。十二三歳で庠序の集いでも老成人の如くであった。
鄠縣・上元での治績
- 鄠縣の悪徳税官が「新任主簿に告発されれば必ず人を殺す」と脅した際、顥は「君の禄を食みながら盗みを働くとは考えにくく、まして人を殺す余裕などあるまい」と笑って諭し、その者は密かに盗んだ分を償い善く去った。
- 民の相続争いで埋蔵銭の所有を巡る訴えを、貨幣の鋳造年代から偽りを見破り解決した。
- 南山の石仏が光を放つとの評判で群衆が昼夜集まる騒ぎを、寺僧に「再び光れば自分に先に知らせよ、首を取って見せる」と戒めて鎮めた。
- 夏の水害で堤防が決壊した際、法定手続きを待たず即座に民を発して塞ぎ、豊作を得た。
- 江寧では水運の病卒のために「小営子」を作り給与の手続きを簡素化して多くの命を救った。
- 上元簿として仁宗崩御の際、喪服の期日を巡り府尹に「遺詔の定めに違えることはできない」と諫めた。
晉城での善政
- 治平四年、晉城令として民に孝弟忠信を説き、保伍の制で患難相恤の仕組みを作り、孤独・残疾者を親族に責任を持たせ、旅人の病には手当を施した。学校を興し子弟を教育し、十余年で儒服を着る者数百人に及んだ。三年間、強盗も闘死もなく、去る際には夜半の殺人騒ぎもすぐ犯人を言い当てるほど民情に通じていた。
- 差役に対する民の怨嗟を、財産の多寡に応じて公平に割り当てることで解消した。河東の義勇兵制度も晉城では実質的な精兵に鍛え上げた。
- 座右に「視民如傷」の四字を書き、常に恥じるところがあると語った。
御史時代の献策
- 熙寧二年、呂申公(呂公著)の推薦で太子中允・権御史裏行となり、神宗にしばしば召され対話した。正心窒欲・求賢育才を先とする建言を重ね、張載・程頤ら数十名の人材を推挙した。
- 「御史は臣下の短長を拾って直名を沽うためのものではなく、朝廷を補佐するためのもの」と述べ、神宗は御史の本分を得ていると称賛した。
- 「王霸論」では、天理の正・人倫の至を極めるのが堯舜の道であり、私心により仁義に依るのが覇者の事であると論じた。「正学厲賢論」では君の学問と志の確立を説き、「延英院」設置による賢者登用の制度を提案した。朱子はこの王霸劄子を「古今の王霸論の中で最も余蘊なし」と評した。
王安石との対立
- 中書での議事で王安石が言者に激怒した際、顥は「天下の事は一家の私議ではない、平気で聴くべし」と諭し、安石は恥じ入った。安石は後に「公の学は壁上の言のようで実行し難い」と評したが、顥は「参政の学は風を捉えるが如し」と応じつつも、安石を「未だ道を知らずとも忠信の人」と評した。
- 新法をめぐり自ら至誠をもって開陳し、疏を上げても控えを残さず「己を揚げ衆に矜るは吾がなすところにあらず」と述べた。
- 新法批判者が皆罪を得る中、顥は言が用いられぬことを理由に外任を求め、澶州判官などに転じた。
- 後年、顥は新法を巡る党争の経緯を振り返り、安石が君子を退けて小人を用いたため害がいよいよ深まったと述べ、当初の対立の激化を惜しんだ。
郷里での学問
- 熙寧五年、父太中公の致仕に伴い洛陽に帰り、監西京洛河竹木務となり、清貧の中十余年、弟程頤と親しく講学に努めた。士大夫の来学者は門に溢れ、位は退いても名声はいよいよ高まった。
- 熙寧八年、彗星の変に際し切実な上疏をしたが用いられず、扶溝縣令に出された。低湿地の水旱対策として溝洫の法を計画したが完成前に離任、学校興設も同様に未完に終わったことを「命なり、然れど知りて為さざるは責を命に帰するもの」と自省した。
神宗崩御と晩年
- 元豊八年三月、神宗崩御の報に哀を挙げ、留守韓康公の子宗師の問いに「司馬君実(光)・呂晦叔(公著)が宰相となろう」と予見し、元豊の大臣と協調すべきこと、党争の危険を戒めた。宗丞に召されたが赴任前に没した。
人物評(門人・後世の評)
- 富弼は「伯淳は天下の人のために福なし(自身が天子に用いられる福運がない)」と評した。
- 尹焞は「天理の二字は自ら体貼して得たもの」との顥の言を伝え、朱熹はその書法にすら「字を書くにも敬をもってす、これすなわち学」との逸話を伝えた。
- 「秋日」詩に「万物静観皆自得、四時佳興与人同」など、悠然たる境地を詠んだ。
- 上蔡(謝良佐)は「明道は擺脱して開くを得たり、彼に過ぎる者は化す」と評し、胡文定(胡安国)は聖人の志は天下国家にあり顥もまたそうであったと評した。
- 侯仲良は「朱公掞(光庭)が明道に汝州で会い、春風の中に一月座ったようだと語った」と伝え、謝顯道(良佐)は「明道は終日坐して泥塑人の如く、人に接すれば渾然一団の和気」と評した。
- 弟程頤は墓表で「周公没して聖人の道行われず、孟軻死して聖人の学伝わらず。先生千四百年の後に生まれ、伝わらざる学を遺経に得て斯文の興起を己が任とし、異端を弁じ邪説を闢き、聖人の道を煥然として世に復明せしめた。孟子以後一人のみ」と称えた。
- 朱熹をはじめ游酢・呂大臨・劉立之・邢恕・范祖禹・朱光庭ら門人も、顥の徳性・気象・誠を極めた学問を口々に称賛し、邵康節(雍)は「四賢吟」で程顥の言を「条暢」と評した。
史論
- 顥は十五六歳で周茂叔(周敦頤)の論道を聞いて科挙の学を厭い、諸家・老釈を巡ること十年、六経に反り聖学を得た。孟子以後絶えた聖学を興すことを己の任とし、異端の惑わしを弁じて、平易にして賢愚皆その益を受ける教えを説いた。伊川は「明道の葬に門人朋友が各々の理解で文を作ったが、孟子以後聖人の道を伝えた一人である点だけは皆一致していた」と記した。