宋名臣言行錄外集卷五十九 周敦頤

出自と生い立ち

  • 周敦頤、字は茂叔、濂溪先生・元公と諡される。もとの名は敦実だったが厚陵藩邸の名を避け改名した。道州營道の人。景祐三年、舅の龍圖鄭向の奏挙により将作監簿試に就いた。洪州分寧簿、南安軍司理、郴邑令、桂陽令、南昌宰、太子中舍・合州僉判、國博・虔州倅、尚書虞部員外郎などを歴任し、熙寧初に趙抃・呂公著の推薦で広東漕運判官に抜擢され、後に虞部郎中・提刑となった。母の墓が水に浸食されるのを憂い南康軍知事を求め改葬、印綬を分司南京に返上した。熙寧六年、趙抃の再度の推挙で朝命が下るも赴任前の六月七日に没した。享年五十七。嘉定庚辰に諡を賜り、淳祐辛丑に汝南伯に封ぜられ程頤・程顥・張載・朱熹と共に従祀された。

若き日の風雅

  • 天聖己巳年、十三歳にして志趣高遠、濂溪の橋亭で釣りや吟風弄月を楽しみ、その様子は郷里の古老に語り継がれた。

各地での治績

  • 分寧簿として着任早々、長年未決の獄を一度の訊問で裁いたと衆口に称えられた。
  • 南安司理の時、法により死罪に当たらない囚人を運使王逵が無理に重罰しようとしたのを一人力争し、告身(辞令書)を置いて辞す覚悟を示した。「人に媚びるために人を殺すことはしない」と述べ、逵も感悟し囚人は死を免れた。
  • 郴州で守の李初平に学識を見出され属吏として扱われず、朝廷に薦挙され、初平自身も敦頤に学び二年で悟るところがあった。初平の死後、遺族の世話と葬儀を最後まで取り仕切った。
  • 南昌宰として赴任すると、分寧の獄を裁いた人物と喜ばれ、民は互いに教命に背かぬよう戒め合った。
  • 病を得て一昼夜後に蘇生した際、友人潘興嗣が見た家財は敝篋ひとつ、銭も数百に満たなかったという。
  • 合州では、郡民は心服し吏も敦頤の裁定を待って動いた。使者趙清獻(趙抃)に讒言する者があったが、清獻も後に「幾失君矣、今日乃知周茂叔也」と悟った。
  • 広東提刑として瘴毒の地にも自ら赴き、冤罪を晴らし物を救うことを己の任とした。

学問と交友

  • 程珦(明道・伊川の父)が南安で敦頤の非凡さを知り、二子(程顥・程頤)を師事させた。朱熹はこれを「濂溪の学を知る者は少なく、程太中(珦)のみがこれを知り、二程夫子を生ませた」と評した。
  • 蒲宗孟は蜀江で敦頤と語らい感服し妹を嫁がせた(初妻は陸氏、後に蒲氏)。
  • 王荊公(王安石)と語り合い、荊公は退いて寝食を忘れて思索したという。
  • 名節を重んじ、俸禄は宗族・賓友に施し、家では妻子の食にも事欠くことがあったが意に介さなかった。廬山の麓に濂溪の名にちなむ書堂を建て、「可仕可止、古人所必」の志を潘興嗣に語った。

程顥・程頤への感化(逸話集)

  • 程明道は「昔茂叔に学び、仲尼・顔子の楽しむところを尋ねよと言われた」と語った。
  • 「窓前の草を除かぬのは、自家の意思と同じだから」との逸話。
  • 「吾と点也(曾点)の意」を得て天地生物の気象を観じ、「一部の華厳経を看るより一つの艮卦の注を看る方がよい」と述べた。
  • 荀子の「養心に誠に勝るものなし」を、敦頤は「荀子は誠を知らない、既に誠であれば心を養う必要はない」と評した。
  • 程顥が若く狩猟を好んだ後に断ったと言うと、敦頤は「その心はまだ潜んでいるだけ」と見抜き、十二年後に的中したという。
  • 邵康節が伊川に天地万物の理を極論した際、伊川は「平生ただ周茂叔の論のみこれに及ぶを見た」と嘆じた。

後世の評価

  • 朱熹は敦頤の像賛で「道喪千載、聖遠く言湮ぶ、先覚あらざれば孰か後を開かん」と讃えた。
  • 孔文仲は「公年甚だ壮んにして玉色金声、従容和毅、一府尽く傾く」と祭文に記した。
  • 黄山谷(黄庭堅)は「胸中洒落として光風霽月の如し」と評し、延平李侗もこの評を「有道者の気象」として継承した。
  • 朱熹は各地の祠堂記で、周子の学が孟子没後途絶えていた聖学の伝を継ぎ、程氏兄弟を経て自らに至る道統の起点であると繰り返し論じた(江州・隆興・袁州・韶州・南康軍・道州の各祠堂記)。
  • 張南軒(張栻)・葉水心(葉適)・魏鶴山(魏了翁)・真西山(真徳秀)らも同様に、周敦頤が『太極図説』『通書』により儒学の道統を再興したと高く評価した。

太極図説・通書をめぐる問答

  • 朱熹門下の問答では、太極図の「無極而太極」の意味、陰陽五行と仁義礼智の対応、『通書』と『太極図説』が表裏一体であることなどが繰り返し論じられ、「濂溪の学は陳搏・种放・穆修に由来する」との説を朱熹は否定し、周敦頤自身の自得によるものと結論づけた。
  • 通書は簡潔ながら意味深く、程氏没後も真に理解する者は少なかったが、朱熹・張栻らによって再評価されたと総括される。