出自と生い立ち
- 張載、字は子厚、横渠先生・明公と諡される。先祖は大梁の人で後に鳳翔に寓居した。嘉祐二年進士に及第し祁州司法、丹州雲巖縣令、渭州僉判を歴任した。熙寧二年冬、召されて崇文校書となったが翌年疾を理由に帰郷、十年春に再召され太常礼院同知となったが議礼が合わず再び疾により帰郷、享年五十八で没した。
若き日と学問の転回
- 幼くして父を失い諸学を修め、兵学を好んだ。康定の対西夏戦の際、十八歳で慷慨し功名を志して范文正公(仲淹)に上書したが、范仲淹は「儒者には自ら名教の楽しみがある、兵に何の用があろうか」と諭して『中庸』を薦めた。仏老の書も渉猟した後、六経に立ち返り、嘉祐初年京師で二程(程顥・程頤)と語らい、「吾が道は自ら足る、旁ら求める要はない」と悟り、異学を尽く棄てて純正な学に至った。
- かつて京師で虎皮に座して『易』を講じ聴衆を集めていたが、二程が易を論じるのを聞いた翌日、虎皮を撤去し「私が皆に説いてきたことは誤りが多い、二程の方が易道に明るい、皆は彼らを師とせよ」と語った。
各地での治績と朝廷への献策
- 雲巖縣令として本を敦くし俗を善くする政を行い、京兆の王樂道の推薦で郡学に招かれ、徳をもって人を教えた。
- 神宗即位二年、呂晦叔(公著)の推薦により召見され、治道を問われて「漸復三代」の説を対した。執政者との対話で「玉人が追琢するように人材を用いよ」と説いたが意見は合わず、執政は次第に不快の色を示した。
- 崇文校書を辞し浙東で獄を按じた際、道徳の士に獄を扱わせるべきでないとの声もあったが「皋陶のような名判官も囚人を献じたことがある」と応じた。弟張天祺が言事で罪を得たこともあり、告げて西へ帰った。
横渠での学問
- 横渠の故居に帰り終日一室に端座し、書を読み思索し、得るところあれば夜中でも起きて燭を取り書き留めた。門人には「知禮成性・変化気質」の道を説き、学問は聖人に至るまで已めるべきでないと教え、聞く者を感動させた。「吾が学、既に心に得れば辭命を修め、辭命に差なければ事を断ずるに失なし」と語った。
- 熙寧九年秋、平生の思索を集めて『正䝉(正蒙)』を著し、門人に「これは私が長年思いを致した所得、前聖の言と概ね合致する。要は端緒を示すのみ、あとは学ぶ者の潤色に俟つ」と語った。
- 三代の治を慕い、経界(井田制)の整備を治の要とし、学者と共に古法に倣った田制の実践を志したが未完に終わった。朝を去って後は南山下に敝衣蔬食で専心治学し、「知人而不知天」を秦漢以降の学者の大弊と論じ、礼を尊び徳を貴び、天命に安んじ天を楽しむことを持論とした。
人柄と最期
- 気質剛毅で徳高く貌厳しかったが、人と久しく居れば日々親しまれた。人の善を聞けば喜色を現し、学ぶ者には倦まず教え、成就の遅きを恐れた。
- 再び疾により西帰する途中、洛陽で二程に会い「病は治らぬだろうが長安までは行けよう」と語り、臨潼で沐浴更衣して寝み、翌朝には既に没していた。
諡と明道の哭詩
- 門人が「明誠」の諡を望んだが、司馬温公(光)は古礼を引き、弟子が師に諡することは礼にかなわぬとして「陳文範・陶靖節・王文中・孟貞曜に比するより孔子に比すべき」と答えた。
- 明道(程顥)は哭詩を作り「歎息斯文約共修、如何夫子便長休」と悼んだ。
学問の要旨
- 「多く読んでも忘れやすいのは義理が精しくないため。理が精しければ記憶を要さない」「孔子の一以貫之は義理を一貫させること」など、要旨に貫く思索を説いた。
- 「学者は少年で緩まず、四十五十を待たず修めるべき」「範巽之への答えで、古人に及ばぬ病源を自ら悟らせる工夫」など、実践的な教えの逸話が多く伝わる。
- 「為天地立心、為生民立極、為前聖繼絶學、為萬世開太平」の四句は、道を以て自任する張載の志を示すものとして朱熹に称えられた。
- 明道は「子厚は礼を以て学者に先んじ最も善い」と評し、伊川は「子厚は謹厳だが迫切の気があり寛舒の気に乏しい」と評した。
『東銘』『西銘』(訂頑・砭愚)
- 書斎の両窓に「砭愚(東銘)」「訂頑(西銘)」と銘したが、伊川の勧めで「東銘」「西銘」と改めた。
- 明道は西銘を「孟子以後未だこれに及ぶ者なし」と激賞し、游酢は「中庸の理を言語の外に求めたもの」と評した。伊川は「西銘は理一分殊を明らかにするもので、墨子の兼愛とは異なる」と楊時の疑義に答えた。
- 西銘をめぐる楊時(龜山)と伊川・朱熹の間の往復書簡では、「理一分殊」の解釈(乾坤を父母とする「理一」と、民を同胞とする際の親疎の分の「分殊」が矛盾なく両立すること)が繰り返し論じられ、朱熹はこれを「西銘の大指」として総括した。
朱熹らによる総合評価
- 朱熹は『正䝉』について「窮尽万物之理」としつつ、「清虚一大を万物の原とする説には未安な点がある」と伊川の評を引いて留保も示した。「横渠は厳密、孟子は宏闊」「横渠の用工は親切、程氏の規模は広大」など、学風の違いを比較しつつ、程頤・程顥に次ぐ北宋道学の中心人物として位置づけた。
- 朱熹は程頤・張載らの言を精選して『近思録』を編んだことも付記される。