出自と生い立ち
- 晏敦復、字は景初、晏元獻公(晏殊)の曾孫。大観三年に及第し、宣和末に吏部外郎を除せられ、検正吏部侍郎、礼部・工部・吏部の各侍郎を歴任した。紹興十五年に薨じた。
学問と師事
- 伊川(程頤)の道学が天下の宗師であった頃、千里を厭わず訪ねてその教えを受け、学問はいよいよ純正となり士類に重んじられた。
治本の説
- 上が恢復のため内修外攘を志した際、「朝廷は天下の本である。朝廷が治まって天下が治まらぬことはなく、朝廷が治まらずして天下が治まることもない。朝廷を正して百官を正し、百官を正して万民を正し、万民を正して四方を正すのが不易の序である」と治本の説を進言した。
防秋の疏
- 淮甸の防備について、諸将の分屯・営田策は可とし、進退の計は慎重を期すべきこと、内重外軽の原則により朝廷が江上を固め諸軍の後援となるべきことなどを上疏した。
用兵を慎むべしとの諫言
- 兵は凶器・戦は危事であるとし、越王勾践が呉を滅ぼすまで二十二年を要した故事を引き、必勝の策なくして軽々に用兵すべきでないと説いた。
秦檜への警戒
- 秦檜が宰相となった際、朝士が皆祝う中で敦復は独り憂色を示し、「姦人が相となった」と述べた。張致遠・魏矼は当初これを過言と思ったが、後にその見識に服した。
胡銓救援
- 胡銓が昭州へ貶され械送される際、范如圭・方疇と共に敦復に助力を求めると、敦復は知府張澄に「胡銓の宰相弾劾は天下周知のこと、祖宗朝の言事官もこのような扱いは受けなかった」と説き、澄は恥じて追い戻した。
吏部での職務
- 剛厳の人柄で世に憚られ、天官(吏部)を掌ってはいよいよ公正を貫き、請託を退け、僥倖を抑えて清流を甄別した。中興以来の選格の法の多くは敦復が裁定したもので、上は「晏敦復は凝重剛方、山濤・毛玠も及ばぬ」と称えた。
和議への反対と貶謫
- 金使が難行の礼を求めて和を乞うた際、上が屈己して和を図ろうとしたのに対し、敦復は「一事に屈すれば他事にも屈することになる」と諫め、和議と用兵は偏廃すべきでないと説いた。宰相(秦檜)は「これは陛下の宸断による」として議を強行し、附会する者が台官に登用されて反対派を排斥する事態となった。敦復は「主憂えれば臣辱められ、主辱められれば臣死す」と憤り、勾龍如淵らの登用の不当を上疏したが容れられなかった。
- 吏部尚書として和議の非を強く弾劾したため知衢州に左遷された。檜は腹心を通じて「曲従すれば宰相の地位も得られる」と誘ったが、敦復は「身を誤って国を誤ることはしない、薑桂の性は老いてなお辛い」と拒み、檜もついに屈服させられなかった。上は敦復の直言を「鯁峭敢言、祖を辱めぬ者」と評した。