出自と生い立ち
- 張九成、字は子韶、崇國文忠公と諡される。先祖は涿郡范陽の人で、後に開封に徙った。紹興三年、状元及第し宣教郎・鎮東軍簽を授かった。常博・著佐・著作・直徽猷閣・浙東憲を歴任し固辞して休致を願った。八年に宗少(宗正少卿)・権禮部侍郎、後に刑部侍郎を兼ね、祕撰・提舉太平觀となったが讒に遭い邵州に謫され、さらに南安軍に謫居した。二十六年に祕撰・知温州に復したが疾を理由に辞し、間もなく没した。享年六十八。敷文閣待制を追贈され、寶慶乙酉に太師を追贈、封謚を賜った。
神童ぶりと学問
- 幼くして八歳で六経を諳んじ大旨に通じ、客の試問に的確に答え「学は本末の別なく聖言を法とする」と述べて老人たちを驚嘆させた。十歳で文名を馳せ、十四歳で郡庠に学び、寒暑を厭わず終日閉閣して学び、同窓に一目置かれた。
集英殿対策
- 集英殿の射策で「禍乱は天が聖人を開くゆえん、剛大の心を持ち驚憂に沮まれるな」「金には必ず亡ぶ勢いがあり、中国には必ず興る理がある」「両宮(徽宗・欽宗)の北狩の苦しみを思い、驕らず政を修めよ」など切々と諫言し、宦官・女子による離間を戒めた。上はこれを一位に抜擢し、楊時も廷対の剛大の気を称賛した。
偽齊への牽制
- 対策文が偽齊の劉豫を怒らせ刺客を送られるほどであったが、九成は「天を欺き人を罔く者は自ら滅びる」と平然としていた。上はその不屈を評価し、制詞に「逆賊聞風而悚懼」の語を加えた。
講学と経筵
- 海昌に帰り門弟が雲集した際、「太学平天下の道は格物より入る」など、格物・志学・経綸の教えを説いた。
- 経筵で『春秋』を講じ、日食の変を悪気・悪念の萌しに喩え、上を戒めた。
- 王道について「一牛を憐れむ心が王道の端緒」と孟子の説を上に説き、上帝を尊ぶことは賢俊を招き非心を未萌に断つことと述べた。上は「朕、九成より得るところ甚だ多し」と語った。
秦檜との対立
- 敵情の詐りを説き、和議に警戒すべきと上に進言。秦檜は九成が趙鼎の党であることを憎み、九成自身も趙鼎との親密さを自認して求去を申し出た。祕撰・奉祠に落とされた。
- 詹大方の弾劾により、浮言(趙鼎派の異論)の首謀者、また徑山僧宗杲との交流を理由に南安軍に編置された。宗杲との親交は檜の忌むところとなり謗訕の讒に遭った。
天子との対話
- 高閌との対話で、九成が春秋の記述の詳略について問うたことを上が思い出し、九成の消息を尋ねた。檜は「九成は郡を得ても陛下に用いられる意なし」と答えたが、上は「九成は清貧、禄を絶やしてはならぬ」と述べた。
南安軍での謫居
- 謫居中、前歩帥解潜の病を見舞い、忠義を貫き和議に反対して斥けられた潜を励まし、潜は安んじて没した。
- 士大夫の意気消沈を問われ、「人材は上の者の作成による、抑圧されれば志気も萎える」と答え、秦檜の排斥が却って人の言を反激させると予見した。
- 謫居十四年、経を談じて自ら楽しみ、目を病みながらも書を離さず、自ら「横浦居士」と号した。