宋名臣言行錄別集下卷五十五 劉錡

出自と生い立ち

  • 劉錡、字は信叔、武穆公と諡される。秦州成紀の人。父仲武の功により大観年間に三班借職を補せられた。政和六年秦鳳経司機宜、宣和二年熙河に改まり、徽宗即位後閤門祗候を授かった。靖康初、閤舍として洮州知事兼洮東安撫となり、建炎二年西寧州知事兼沿邊安撫、隴右都護張浚に功を奏され熙河都監に陞った。
  • 紹興以降、涇原経略安撫兼知渭州、成都兵鈐、綿威茂州沿邊安撫司参議、江東總管、督府咨議軍事、淮西制副使、密院都統制などを歴任し、十年に順昌の戦功で鼎州觀察使、後に樞密院都承旨・武泰軍節度使を授かった。秦檜に憎まれ荆南湖北帥に左遷され、のち鎮江都統制・京東河東招討使を経て、疾により萬壽觀使に任じられ致仕を許されるも都亭驛で薨じた。享年六十五。開府儀同三司を贈られた。

順昌の攻防戦

  • 紹興十年、錡は東京副留守として赴任する途中、金軍が東京を陥落させたと知り、守臣陳規と共に順昌城に籠城を決意した。舟を沈めて退路を絶ち、城壁を修めて防戦準備を整えた。金の遊騎を破り千戸を捕らえ、烏珠(兀術)の大軍が接近する中、城中軍民の反対を退けて自ら守りきる決意を固めた。
  • 烏珠が親率十余万で城を囲む中、錡は間者を用いて偽情報を流し油断させ、暑さを利用して敵の疲弊を待ち、夜襲で敵の「鉄浮屠」「拐子馬」を大破した。烏珠は敗れて汴京へ退き、以後再び出兵しなかったという。
  • 秦檜は錡に利を見て班師するよう命じたが、錡は動かず籠城を続け、王徳の援軍が到着する前に敵は既に遁走していた。

拓臯・藕塘の戦い

  • 淮西侵攻の烏珠に対し、廬州の守り難きを見て東闗の要害に拠り金軍を牽制した。張俊・楊沂中と合流して拓臯で兀術の鉄騎を大破した。しかし論功では張俊が錡の功を抑え、その後の濠州失陥をめぐっても意見が対立し、両者の軋轢は深まった。
  • 上は「劉錡は循分守節、危疑の中でも自立して動じない、これが最も取るべきところ」と評した。

荆南への転任と皂角林の戦い

  • 張俊の讒により兵権を解かれ荆南府知事・湖北路安撫使に左遷された。処士孫元濟は「錡には威名があり諸将に服され、緩急の際は旁郡の兵も調発できる」とこの人事を高く評価した。
  • 浙西制置使として揚州に進屯し、金の万戸髙景山の軍を清河で破り皂角林で伏兵をもって大敗させ景山を斬った。上は金五百・銀七万両を将士に頒賜した。

晩節と威名

  • 病をおして防戦を続け、亮(金の完顔亮)の南侵に備えたが病篤く、金の使者やその厩卒までもが「劉四廂」の名を畏れたという逸話が伝わる。