出自と経歴
- 王德、字は子華。通遠軍の人。劉光世に従って勤王し前軍統制となったが、韓世忠の部将を斬ったことで江州に編管(流罪)となった。劉光世が御営副使となると再び起用されて統制となり、功を重ねて中亮大夫・同州観察使に加えられ、さらに清遠軍節度使に加えられた。張俊が枢密院に入ると推薦されて建康駐劄御前諸軍都統制となったが、秦檜がその英勇を忌んで浙東副総管に降格され紹興に駐劄した。のち再び湖北総管となり荆南に駐劄し、紹興24年(1154年)に没した。
池州・和州での武勇
- 謀略に長け胆勇があった。張遇が池州に拠っていたとき、劉光世が討伐に赴き百余騎で進んだが張遇に敗れた。王徳は兵を率いて救援しこれを逃れさせ、江州まで追撃して敗った。その雄勇無敵ぶりから軍中で「王夜叉」と呼ばれた。
- 金軍が揚州を犯し劉光世軍が潰えると、王徳は兵400を率いて和州城外に至った。折しも張育が5万の兵を集めて和州に拠り、王徳に節制に従うよう文書を送ったが、王徳は従わなかった。張育が自ら3千の兵を率いて攻めてきたが、王徳は伏兵を深い林と草むらに潜ませ、張育が来ても見えなかった。張育が馬で草むらを捜索していたところ、王徳は弟の王青、王世忠と共に槍を構えて躍り出て張育を刺し殺し落馬させた。その後、城中に文書を送って張育の諸将に節制に従うよう招くと、諸将は皆降った。王徳は入城して張育の一家を親戚のように遇し、諸将も旧知のように扱ったため人心は帰服した。
- まもなく張和尚率いる別の群盗5万が来襲し、王徳に「かつて張育が我が骨肉を殺した故、今その仇を討ちに来た」と書を送った。王徳が書を送ってなだめても聞き入れず、張育の遺族の引き渡しを求めてきた。王徳は張育の一家をすべて斬り、その首を送って撤兵を勧めたが、張和尚は「これは張育の一家だけだ。必ずその軍全体の老若を斬らなければ撤兵しない」と言った。王徳は諸将を集めて宴を開きこの事を告げると皆が死戦を願い出て、鋭鋒に乗じて一撃を加え敵を潰滅させた。張和尚は逃走したが郷兵に殺され、その衆はことごとく降った。王徳は10万の兵を率いて長江を渡り劉光世に謁見すると、劉光世は喜んで六軍に編成し、軍威は大いに振るった。
淮南・拓皋での戦功
- 金軍が淮南に侵入すると、王徳はこれと滁州桑根で戦い敗り、再び和州で戦い再び敗った。まもなく偽斉(劉豫)が再び兵を送って侵入すると、王徳は命を受けて滁州渦口で戦い敗り、さらに安豊県で戦い敗って3千級を斬った。劉麟もまた兵を率いて廬州を犯したが、劉猊が先に楊沂中に敗れたと聞き風を望んで逃走したため、王徳らはこれを撃って数千の兵を降した。劉光世が宮祠を願い出て兵権を退くと、王徳は都総管となり、呂祉がその軍の節制に赴いたが、酈瓊・王世忠らはこれに服さず朝廷に訴え出た。王徳は「諸将は驕慢で暴虐である」と上奏し、自らの本軍を御営に帰属させるよう命じられると、酈瓊らは果たして叛乱を起こした。
- 拓皋の戦いで、金の将・邢王・韓常らは10万余の鉄騎を左右に分けて道を挟んで陣した。王徳は「金の右翼はすべて精鋭騎兵だ、まずこれを破ろう」と述べ、田師中と共に兵を率いてその右翼に迫った。金陣が動揺すると王徳は勢いに乗って大声を上げ馳せて撃ち、諸軍はこれに呼応して鼓譟し金軍は大敗した。劉錡は王徳に「かねてより公の威略は神のごとしと聞いていたが、今日それを目の当たりにした。兄の礼をもって公にお仕えしたい」と述べた。
完顔宗弼(烏珠)との戦い
- 完顔宗弼(烏珠)が淮西に侵入すると、王徳は命を受けて昭関で戦いこれを破り、さらに仙宗鎮で戦いこれを破った。楊沂中が拓皋で完顔宗弼と戦った際、宗弼は30万の兵を陣し、沂中は軽率に進んで敵に包囲され部下の多くが戦死した。王徳は騎兵で横撃し大破し金兵1万余を殺した。沂中は辛くも難を逃れ、廬州を回復した。
亳州での協力
- 張俊の大軍が亳州城外に至ったとき、王徳はすでに宿州を陥落させており、勝ちに乗じて亳州に赴き張俊と合流した。酈瓊はこれを聞き葛王(完顔褒)に「王夜叉が来た。その鋒鋭には容易に当たれない」と述べて避け、逃げ去った。この時、張俊の軍は非常に盛んであったが、智謀と勇敢さでは王徳に頼るところが多く、王徳は常に計を先にして戦を後にしたため、一度も敗れることがなかった。
濠州救援
- 完顔宗弼が再び濠州を包囲した際、王徳は張俊・楊沂中に急ぎ討伐に行くよう勧めたが、張俊は糧食不足を理由に共に退いて黄連鎮に駐屯した。濠州が陥落すると、張俊は密かに沂中に回復を命じたが、金軍は数十万の伏兵を起こし沂中は包囲され、殿前司の兵はほぼ全滅しかけた。王徳は田師中らと共に救援に赴き、力戦の末に濠州で沂中を救い出すと、完顔宗弼は撤兵した。これにより節度使の命が下った。