出自と経歴
- 趙宻、字は叔微。太原清源の人。政和4年(1114年)武挙で崇政殿試に登用され、河北の隊将に任じられ、步將として燕京を守備した。大元帥府が開かれると檄により先鋒統制となり京師を援護し、功により閤門祗候に補せられた。建炎年間、武節郎・左軍統領に転じ、武功大夫・統制に進んだ。紹興初年、親衛大夫・康州刺史に昇り涇原の馬歩軍を総管、中衛恊忠大夫・和州団練防禦使に進み、宣州観察使を拝した。12年(1142年)、龍神衛四廂都指揮使として侍衛歩軍の主管を命じられ、定江軍承宣使、崇信軍節度使に進み、管軍としての功10年で太尉に転じた。32年(1162年)開府儀同三司を拝し、翌年殿巌(殿前司の長官職)を兼ね、さらに翌年致仕を願い出て万寿観奉朝請となった。隆興2年(1164年)少保に進んだ。金軍が淮水を犯すと孝宗は趙宻を再び起用し重んじたが、まもなく和議が成ると帰郷を願い、醴泉観使に除せられた。乾道元年(1165年)致仕し、まもなく病没した。享年は80余り。少保を追贈された。
幼少期の逸話
- 趙宻は4歳にして学問を志すことを知っていた。住まいの周囲は木々が生い茂り、ある異人がどこからともなく現れてその下で休み、「ここには貴人が生まれるはずだ」と語った。一族の子弟たちが争って挨拶に出たが誰にも目もくれず、最後に趙宻を見て「この子だ。成長すれば必ず辺境の事で傑立するだろう」と言い、話し終えると酒を求めて一気に飲み干し、二度と姿を現さなかった。
揚州渡河の指揮
- 金軍が揚州を陥落させると、士民は争って皇帝の車駕に従い長江を渡ろうとし、数万人が溺れることを恐れた。趙宻は水辺に立って舟を指揮し、渡河が終わると人々はみな手を拱いて額に当て、彼を「仏子」と称え、以後その軍の旗印とした。
宮中警護での忠勤
- 詔を受けて禁中の警護に入ったとき、折しも多事の時期で警戒を厳しくし、一晩に何度も見回りを行い、夜も眠らぬほどであった。この忠勤により皇帝の厚い信任を得るようになり、趙宻が酉年生まれであることから旗に鶏の刺繍を賜り、斧や日常の巾・履も下賜された。
海賊朱明の討伐
- 海賊の朱明が福建で乱暴を働き、数年間鎮圧されず、官軍を差し向けるほど勢いは増した。この対処を任された趙宻は張守を選んでその方略を任せ、「海路は陸路と異なる。追い詰めれば長期戦になるので得策ではない。要は懐柔して落ち着かせることにある」と戒めた。
軍備の整備
- 南北の和議が成って以来、軍備が緩みがちであったが、趙宻は常に敵に備えるかのように訓練を整え、兵士への褒賞を惜しまず、金庫を空にしても、また自らの衣服にも余分を持たなかった。
金の完顔亮南下への対応
- 完顏亮(虜亮)が南下した際、諸道の防衛にあたる者は功を求め、一級(一人の首級)馬一頭を得ただけでも急使を飛ばして戦果を報告した。趙宻は「彼らは国を挙げてわが地に侵入してきた。どうして久しく耐えられようか。城壁を固く守って敵を疲弊させ、隙をうかがって図るのが万全の策である。あくせくと功を上奏するのに何の意味があろうか」と述べた。果たして完顏亮は自滅した。
人物評価
- 趙宻は天性簡素で誠実、幼くして兵書を好み、武を用いて爵位が顕れても、詩書・礼楽の習いを生涯絶やさなかった。『資治通鑑』を暗誦して口を離さぬほどであった。閑暇には賓客と談笑し和やかで、身の処し方は渾然として指弾されるべき瑕疵がなかった。