出自と経歴
- 張子盖、字は德高。その祖先は鳳翔の人で、のち秦州に移った。はじめ韓世忠に従い苗傅を捕らえ承信郎に補せられ、また叔父の張俊に従い武功郎に転じた。紹興6年(1136年)劉猊を破り武功大夫・閤門賛舎人に任じられた。翌年、御械(武器管理)に除せられ昌州刺史・江東路馬歩軍都総管を授けられた。10年(1140年)登州防禦使兼宣司衙兵副統制を授けられ、翌年功により興寧軍承宣使に除せられた。和議が成ると建康駐劄御前諸軍統制に除せられ、13年(1143年)神龍衛四廂都指揮使・両浙西路馬歩軍都総管を授けられた。高宗が張俊の邸を訪れた折には安徳軍節度使を授けられた。32年(1162年)鎮江都統となり海州を授けられたが、まもなく病により鎮江に戻り、検校少保・淮東招撫使を授けられたが赴任前に没した。享年51。太尉を追贈された。
拓皋・和州の戦
- 紹興7年(1137年)、完顔宗弼(烏珠)が廬州を陥落させ含山県を侵し、次第に歴陽に迫った。張俊の諸軍はすでに出陣の準備をしていたが未発であったところ、張俊は使者を渡江させ諸将に「先に和州に到着した者を勝ちとする」と告げた。張子盖は王徳と共に鼓譟して進み、和州城下に馳せ着き騎兵を先登させて和州に入った。金軍は昭関に退屯した。折しも劉錡が東関から兵を率いて出て清渓で金軍を迎撃した。張俊は張子盖に劉錡と合流させ、拓皋で大戦しこれを破った。軍勢は大いに盛んになった。完顔宗弼が再び濠州を犯すと、張子盖はさらにこれを周梁橋で破った。
張浚との謀議
- 張子盖は鎮江から張浚を訪ね、張浚は彼と語ってその智識が並外れていることを知り、山東を攻略する計を共に図った。張浚は「彼は才勇があり性格は剛直である。優遇されるよう願う。あわせて精鋭を増員し財用を与え、淮上に駐屯させて招撫の策を講じさせたい」と上奏した。
海州救援戦
- 金軍が海州を急襲すると、張子盖は詔により救援に赴いた。鎮江に至って軍を整え長江を渡り楚州に至った。金軍は張子盖の到着を知って退く気配を見せ、城外で大声を上げる者が「お前たちの大軍が来ることは知っている」と叫んだ。まもなく張子盖は騎兵を率いて至ったが、歩兵はまだ後方にあった。魏勝が城外に出て張子盖と作戦を協議した。
- 張子盖が先に楚州に至った際、淮東の漕運使・龔濤は「金は10倍の兵力であり支えきれない、虚勢を張って淮陽を攻めるふりをすれば、金は必ず救援に向かい海州の包囲は解けるだろう」と述べたが、張子盖は「もし彼らが淮陽を救わなかったらどうするのか」と述べ、直ちに漣水に赴き便道を選んで進軍した。金軍は張子盖の到着を知り大軍を収めて陣形を整えたまま行軍した。張子盖は精鋭騎兵を率いて先行したが、諸軍は道が絶たれるのを恐れ「敵が近い、進むべきでない」と請うた。張子盖は従わず、賊は張子盖の旗を望んで二つの橋を断って逃げた。張子盖は夜のうちに橋を架けて進軍した。
- 翌日、石湫堰に至ると賊の騎兵1万が河の東に陣していた。張子盖は弓射を交えて日暮れまで対峙し、鞍を外し馬を休めて河の西に憩んだ。賊は動けなかった。真夜中に大軍が到着すると即座に橋を架けて渡り、明け方には軍勢を率いてこれを20里追撃した。
- 賊は再び海州の西北で陣を布いたが、諸軍は賊が多勢なのを見て前進を躊躇した。張子盖は「彼が多く我が少ない場合は速戦が有利で、敵に我の実情を知られてはならない」と述べ、急ぎ統制の張圯らを遣って敵を掠めさせたが、張圯は流れ矢に当たった。張子盖は諸将に「事は急である。国家の安危はこの一戦にかかっている」と告げ、腕を奮って大声を上げ陣中に馳せ入り、諸将もこれに続いて死戦した。賊は大敗し河に押し込まれて溺死する者が半数に及んだ。金軍は再び軍を整えて戦いを挑んだが、張子盖は再び精鋭を率いて撃ち、車馬・鎧・武具など数万を得た。日暮れに新橋の西に至ると金軍は再び陣を布き「大将は誰か」と問うたので「張循王(張俊)の甥である」と答えると、金軍は「小鉄山だ」と感嘆した。張子盖はさらに軍を率いて追撃し、夕方には賊は殲滅され、残った騎兵は逃げ去った。張子盖が海州を平定して戻ると、民はみな出迎え額に手を当てて喜び、のちにその肖像を描いて祀った。