宋名臣言行錄別集上卷四十二 王庭珪

王庭珪、号は盧溪先生、字は民瞻。吉州安福県の人。進士に登第するも仕官を好まず憂世の心を持ち続けた詩人官僚。左遷される胡銓を送る詩を作ったために宰相の怒りを買い、辰州に流された。孝宗即位後に召し出され、九十三歳で卒去した。

年表(5件)

出自と経歴

王庭珪、号は盧溪先生。字は民瞻。吉州安福県の人。崇寧癸未年(1103年)、一たび舎法(太学の試法)を受け諸生に列し、翌年、辟雍に貢挙された。大観年間、張根が八行(孝弟睦婣任恤忠和の八徳)をもって推薦したが応じなかった。政和八年(1118年)、進士に登第し、茶陵の丞に任じられた。後に胡銓を送る詩を作ったことにより辰州に流された。太上皇(高宗)の更化(政変)により自便(自由な帰郷)を許され、壽皇(孝宗)の即位により召対を受け国子監簿を除せられたが、老いを理由に辞去を求め、崇道観を主管した。乾道六年(1170年)、再び召され翌年に至り敷文閣直学士を除せられ、翌春、卒去した。享年九十三。

若き隠棲と憂世の心

宣和末年、まだ五十歳にもならぬうちに時事の危うさを知り仕官の意を持たず、道を学び書を著してこのまま生涯を終えようとしていた。邑に盧溪という地があり、そこに草堂を築き、郷人は「盧溪先生」と呼んだ。経書を携えて学びに来る者は戸外にまで溢れた。王庭珪は仕官しないとはいえ常に憂世の心を懐き、事が民のために適切だと思えば必ず当路(要路の者)に告げた。

胡銓を送る詩

胡忠簡(胡銓)が忠言をもって時の宰相に逆らい嶺表に左遷されたとき、親交のある者ですら通問を憚っていたが、王庭珪だけは詩を送って別れを惜しみ「嚢を封じ朝に奏す九重の関、この日、清都に虎豹閒あり。百辟(多くの臣)は容を動かして奏牘を観る。幾人か首を回らして朝班を愧ずるや。名は北斗の星辰の上より高く、身は南州の瘴海の間に堕つ。豈に他年、公議の漢庭より出づるを待たん、賈生(賈誼)を召して還らしむが行われんことを。大厦(国家)元より一本の支うるに非ず、独力をもって傾危を柱えんと欲す。癡兒(愚か者)はこれ公家の事を了せず、男子は天下の奇たるを要す。当日の姦諛は皆膽落し、平生の忠義はただ心にのみ知る。端に能く新州の飯を飽きるまで喫し、在る処、江山は護持するに足る」と詠じた。

胡銓の返詩

忠簡はこれに次のように返した「巖耕(山中の耕作)の名は已に振るうも、京関にて未だ終身袖手の閑を信ぜず。萬巻を移さず顔氏の楽、一生無愧の伯夷の班。君に致すこと自ら唐虞の上を許し、我を待つに誰か能く季孟の間ならん。両社(両省)年来元老を欠く、蒼生は目を拭いて公の還るを望む。士気は従来弱くして支えず、時に逢いて言行倶に危からんと欲す。湖外三年の謫に因らずんば、安んぞ江南一段の奇を得ん。我独り清きに非ず世濁るに縁る、この心誰か識らん、ただ天のみ知る。萬牛回首して須らく公起つべし、大厦将に顛れんとして力持を要す」。

詩獄と流罪

数年後、時の宰相はこの詩を得て嫌悪し、帥臣に命じて謗訕(誹謗)の罪を鞫問させ、王庭珪は罪に問われ辰州に流された。逺人(辰州の人々)はもとより彼を敬い師として尊んだ。太上皇(高宗)の更化により自便を許されたとき、王庭珪はほとんど八十に近かったが、なお読書に励み夜に短檠(灯火)を対して細字を書き、しばしば夜半にようやく寝についた。

孝宗即位後の召見

壽皇(孝宗)が即位すると彼を推薦する者があり、一度見て意気投合し、詔に「粹然たる耆儒、凛として節あり。かつて言語文字により権臣に逆らい流落し、恨みを排すること殆ど二紀(二十四年)に及ぶ。便殿に召対し敷奏は詳華であった」と記され、国子監簿を除せられた。王庭珪は年老いていることを理由に帰郷を求めた。郷閭を道義をもって教化し、貴賤賢愚を問わず誠実に接した。生涯詩を工とし、この頃には格力は雄健、興寄は高逺で、読む者はその齢の高さに気づかぬほどであった。書の筆致も端荘であり、これは天性に貴く、人々はこれを珍重した。

易学と収監の逸話

学問は通じないものなく特に易に深く通じ、晩年には言意の表(言葉を超えたもの)を自得した。朱震・胡安国(父)・向子諲がその解釈を見て皆感嘆し必ず伝わると称賛した。詩獄が興った際、郡守は王庭珪を捕らえて理むこと(取り調べ)を議したが、理掾(獄官)の汪涓が奮然として「王公は剛介にして正義に勇む。一枚の書を送って招けば必ず来られるだろう」と述べたが、他の掾は色を変え自ら投獄を担当することを申し出て、廵尉(巡察の役人)を伴って王庭珪を捕らえに行った。太守はただ「唯々」と言うのみであった。他の掾がついに赴くと直ちに王庭珪の家に突入した。王庭珪は談笑しながら逮捕に応じ、家は四壁が立つのみで貧しく、ただ『易解』を篋に鎖して保管していた。獄卒はこれを財貨と思い、持ち去った。後日、王庭珪は嘆いて「天が私の書を厄する(禁ずる)のか」と述べ、ある人によれば今もその『易解』は獄掾の家に蔵されているという。

再召と益公の推薦

王庭珪が再び召されたとき、周益公(周必大)がちょうど禁中に対しており、皇帝は座を定めて「胡銓は詩人の朱熹・王庭珪を薦めたが、卿はこれを試したことがあるか」と問うと、周益公は「王庭珪の年徳・文章は今日まことに得難く、しかも及第してから五十三年になります」と奏上した。皇帝が「なぜ官位が低いのか」と問うと、周益公は「この人は早くに上官に逆らい、晩年再び流竄され、官簿がそれゆえ進んでいません。陛下がもし窮屈な境遇にある者を哀れみ屈した者を悼まれるなら、篤く品秩を加え章服を賜わり、もって善を勧めるに足ります」と答え、皇帝は「彼が到着すればこれを議しよう」と述べた。

人柄

王庭珪の形骸は土木のように儼然として犯し難く、市井の無頼の子ですら彼を見れば衽(衣の袷)を正した。人の善を聞けば我がことのように喜び、不善をなす者は彼に知られることを畏れ必ず悔い改めた。学問は極めて高明で特に詩に長じ、遷謫が久しいためその語もまた奇となり、書は楷法を持ち自ら一家をなした。生涯、気を治め心を養い、翛然として高く志を持つ趣があった。

楊萬里(誠齋)の文集序

誠齋(楊万里)は文節をもって王庭珪の文集に序して次のように述べた。胡公(胡銓)が言事において時の宰相に逆らい久しく嶺表に貶されたとき、先生は送別の詩を作り「癡兒不了公家事」の句があった。小人が飛語をもってこれを告げると、時の宰相は怒り王庭珪の名を除して夜郎に流した。先生はこのとき七十歳であった。ここに至り先生の詩名は一日にして四海に満ちた。里の士で先生を愛する者は「詩の禍は古来明らかである」と言ったが、先生は戒めることなくむしろ欣然としてこれを犯し、あたかも権臣の威を助け小人の名を成すかのようであった。これが先生の禍であり、また先生の過ちである。ある者は「先生に何の過ちがあろうか。先生の言が忠であるからこそ詩が工みなのだ。言が忠でなければ詩は工まず、世に伝わることもない。世に伝わるものは、明らかに世に媚びなければ幽(暗い場所)に媚びるものである。それゆえ庭草随意の詩、空梁燕泥の詩、飛燕昭陽の詩、不才多病の詩は、言が忠であるためではない。詩が工みで言が忠であればなおさら、小さきものが大ききものに従い死ぬこともあろう。まして先生の詩が工みで言が忠であればなおさらである。先生に何の過ちがあろうか。権臣の威を助けたこともまた彼の悪を稔らせたのであって、先生が小人の名を成したというより、小人が先生の名を成したと言うべきである。先生に何の過ちがあろうか」と述べた。まもなく時の宰相が没すると先生は帰ることができ、まもなく皇帝が即位して初めて召され国子監簿を除せられ、再び召されて敷文閣に至り、九十余歳になっても耳目は聡明で詩を賦し文を作っても老人の摧頽の気を見せなかった。朝廷はその風を伝え聞き、天下はその詩を伝誦した。先生を禍した者が、かえって先生に福をもたらすことになるとは、誰が知り得ようか。ああ、天人の理は乱れることがあっても、あるいはこれに勝ち、定まることがあれば正される。その定まりを見ずしてその乱れを見れば、古の聖賢が小人に厄されたのはすべて過ちだということになろう。先生の過ちだけであろうか。先生は若くして曹子方(曹輔)から詩法を学んだと聞く。その詩は少陵(杜甫)に出で、その文は昌黎(韓愈)に出で、大要は雄渾剛大を主としていたという。

周必大による画像賛

益国の周文忠(周必大)は王庭珪の画像に賛して次のように述べた。万象を嘲弄し天和を彫琢する、詩人がいまだ老いず鬢が皤(白)にならぬのを見ない。先生は九十にしてなお顔は酡(紅潮)としている。窮すれば澤畔(屈原)の吟を追い、達すれば沛中(漢高祖)の歌に和す。人はただその善なるものを見るが、私は独りこれを喩る、井に波なきは風が被って文を成すゆえであり、月が鍜えたり日が哦(吟)じたりするのではない。たとえこれをもって千二百歳を過ごすとしても、あの造物者は先生をどうすることもできまい。