出自と経歴
- 范如圭、字は伯逵。建陽(建州)の人。母方の伯父・胡文定(胡安国)に『春秋』を学び、郷試ではすべて首席であった。張公はその廷策(対策文)を読んで選首とすべきとしたが、同列の者が難癖をつけたため乙科に落とされた。
- 武安推官、江東帥機を歴任し、館職の試験に召された。正字に除せられ、校書郎・史館校勘を兼ねたが、あることで秦檜の意に逆らい、辞して帰郷した。
- 崇道宮の管理役を経て邵州の倅(副知事)、荆南府の倅となり、朝廷に召されて秘閣に入り対策した。江西倉、利州路提点刑獄を歴任し、祠禄を請うて帰郷。のちに泉州知事に起用された。
- 紹興庚辰(1160年)6月18日に没した。享年59。
湘中の艱難と評判
- 金軍が長沙を陥落させ湘中が大乱に陥った際、范如圭は艱難のなか各地を転々としながらも学業と志を修め続けた。世務に的確な議論をし、胡文定もしばしばこれを称賛した。
秦檜の和議に抗す
- 秦檜が金との和議を強く推し進め、金の使者が来朝した際、朝廷は創設間もなく使者を迎える館舎が無く、秘書省を宛てて対応しようとした。范如圭は趙鼎に「秘書省は謨訓(先帝の教え)を蔵する所で、平時でも館とすることすら憚られるのに、まして今日の仇敵たる金使を入れてよいものか」と説き、趙鼎は聴き入れて改めて館を設けさせた。
- 金の使者が来ると、その態度は横柄で朝廷の議に多く従わず、朝野は憤った。范如圭は同僚十余人と連署して抗議の上疏を用意したが、草稿ができた段階で驚いて退く者が多かった。范如圭は独り自ら筆を執り秦檜に書を送り、学を曲げ師(自らを取り立てた恩義)に背き、仇を忘れ国を辱める罪を責め、「公は狂気で心を失ったのでないなら、なぜ一旦こうしたことをするのか。改めなければ必ず後世に恥を残すことになろう」と述べた。秦檜はこれに激怒した。
河南帰還を巡る建言
- 金が河南の地を宋に返還した際、秦檜はこれを自らの功績とした。范如圭は「これもいつまで続くか分からない。ただ今日の道義としてなすべきことがある」とし、輪対(順番の奏対)の機会に、両京(開封・洛陽)の版図が戻った以上、九廟・八陵(宋室の宗廟・陵墓)を目前にしながら未だ修めていないのは神霊に対して恥ずかしいと説いた。皇帝は感銘を受け、直ちに使者派遣を命じた。秦檜は事前に相談されなかったことを不満に思い、一層怒りを募らせた。
秦檜死後の建言
- 秦檜の死後、皇帝に召見され、久しく労いの言葉を受けたのち、范如圭は「政治は人を知ることを第一とし、人を知るには清心寡欲を根本とすべきです」と述べた。
儲位問題への上疏
- 宗室の諸王が並び立ち、皇太子の位が定まらぬ時期、世に不穏な噂が流れた。范如圭は遠方にありながらこれを深く憂い、至和・嘉祐年間(仁宗朝)の名臣の奏章36篇を選んでまとめ、封じて献上した。「陛下には多くの意見を深く考究し、先例に則り、公道をもって疑いなく決断されるよう願います」と述べた。越権であると危ぶむ者もいたが、范如圭は意に介さなかった。皇帝はその言葉に感銘し、輔臣に「如圭は君を愛する者と言うべきだ」と語り、陳鵬(陳公)を留めて大計を定めさせた。
晩年と臨終
- 居所は簡素で、士大夫はますますその人格を敬い、遠近の学者が経書・諸子の疑義を質問に訪れた。范如圭は朝夕怠らず応対した。病の床で政府へ手紙を送り、旧友に別れを告げる際も私事には触れず、ただ中原がいまだ回復せず、民力が疲弊し、賢者が用いられていないことを子孫への戒めとし、学問に励むこと、仏式の葬儀を用いぬことを命じた。
死後の評価
- 今上(孝宗)が皇太子の身分から皇位を継いだ経緯に范如圭の上疏が関わっていたことは、当時は世に知られていなかった。近年になって士大夫が紹興の日暦や陳鵬の手記を見て、初めてその忠誠が並外れたものであったと知った。
- 范如圭の人柄は篤厚で飾らず、忠孝誠実は天性のものであった。学問は経術に根ざし、無用の文章を作らず、書簡・議論の文からなる文集を残した。
史論
- 真德秀(西山真文忠公)は范如圭の文集に跋を寄せ、諸葛亮の文才は華美でないが出師の二表は今も学者に愛誦され、六朝・隋唐の華麗な文章が多く伝わらないのに対し、文は多く美しいことが要ではないと述べた。范如圭の学は舅・胡文定に得たもので、立朝の姿勢も似通い、議論では『春秋』を尊び王安石の新説を排し、夷夏の別を明らかにし和議に反対し権臣を非難した。集中の思陵(高宗)への諫言封事、秦檜を責めた書の二篇は特に光明卓絶であり、他に文章がなくともこの二篇だけで千古に名を残すに足ると評した。