宋名臣言行錄別集上卷四十二 周葵

出自と経歴

周葵、諡は簡惠公。字は立義。常州宜興県の人。郷校から京師に籍を移し、宣和六年(1124年)、進士甲科に登第。廣徳軍の刑曹に任じられ、徽州の推官に改まり、臨安府の教官を経て館職の試験を受け、対を求めた際に直接監察御史に任じられた。紹興五年(1135年)のことである。司農少卿に転じ辞去を求めたが許されず、祕閣修撰として信州の知事、江東憲司を歴任した。紹興九年(1139年)、太常少卿を除せられ、再び殿中侍御史となり起居郎に改まり、玉隆宮を主管した。十年(1140年)、再び秘閣修撰、十二年(1142年)、湖州の知事、十三年(1143年)、平江に移り、十四年(1144年)、職を落とされ崇道観を主管した。二十五年(1155年)、紹興の知事、二十六年(1156年)、権尚書礼部侍郎を除せられ、まもなく国子祭酒を兼ね、また給事中を権知し、外任として信州の知事となったが数か月で罷免された。二十八年(1158年)、撫州の知事、病を理由に興国宮の提挙となり、十月、龍図閣直学士として太平州の知事となった。三十年(1160年)、集英殿修撰に進み婺州に移り、敷文閣制置を加えられた。三十二年(1162年)、兵部侍郎を除せられ侍講を兼ねた。隆興初年(1163年)、戸部侍郎を権知することを兼ね、まもなく参知政事、まもなく枢密院を知り、祠職を請い資政殿学士・洞霄宮提挙を授かった。乾道三年(1167年)、泉州の知事、六年(1170年)、老いを告げ、章を五たび上げて大学士を加えられ致仕した。淳煕初年、薨去、享年七十七。

戦・守・和についての進言

和議が既に定まった後、周葵は再び召され「国のためを図るには道が要ります。戦えば勝ち、守れば固く、和すれば久しくなくてはなりません。そうでなければ、この三つは人にあって我にあるのではありません」と論じた。

大臣の責任についての進言

侍御史として「自ら国を治めてこそ功を成すことができ、虚文を事として実禍を残してはなりません」と述べ、時政を条陳して宰相が責任を負っていないことを指摘すると、皇帝は色を変えて「趙鼎・張浚は肯えて任事している以上、権を仮すべきであって、なぜ小事にこだわり形跡を問うのか」と述べた。周葵は徐に「陛下に過ちがあれば大臣は忠を尽くすべきだと望むはずです。今、臣が一たび大臣に及べばすぐに形跡と見なされるのでは、彼らに過ちがあっても改まらず、罪戻は日々深まり、これは彼らを保全する所以ではありません」と奏上すると、皇帝は容を改めて「この論は卓見だ」と述べた。

御史台での弾劾

最後に周葵は連ねて章を上げ趙子淔(趙不参という説あり)の言葉が趙公(趙鼎)を侵していることを極言し、また張公(張浚)の大挙北伐が国の存亡に係わることを論じたが、これにより言路から退けられた。秦檜が独相となった機に、周葵の言葉が趙鼎を憾ませたと見て周葵を再び台官に抜擢すると、周葵は人に語って「元鎮(趙鼎の別名か)は既に貶されているのに、私はもとよりその言を守っている。門下の客ですら私に及ばないだろう」と述べた。ある日、内降で四人の除授があり、周葵は「願わくは陛下は仁祖(仁宗)を法とし、大臣は杜衍を法とされますように」と述べると、秦檜は初めて不快に思った。

孝宗即位後の姿勢

孝宗が即位すると、当時、張浚が師を督して恢復を図っていたが、周葵は軽々に開戦することを是としなかった。周葵は夏官(兵部)の佐官に任じられた。その後、湯思退と張浚が並んで宰相となり、和・戦が交々議されて多くが皇帝の決断に委ねられたが、賓客の議論には偏りがあった。周葵は始終自ら治める誠を守り、是は是とし非は非とし、迎合せず不平を言わず、表裏洞達で一毫の偽りもなかった。

財政の些末事についての諫言

皇帝がしばしば銭穀の出入りを問い質した際、周葵は「陛下が庶務に心を労し日々咨詢されるのは人の意表に出て観聴を聳動させるに足りますが、これはすべて小人が隙に乗じて忠を献じ、その私を売ろうとしているものであり、審察されないわけにはいきません」と奏上した。まさに龍某(龍大淵)を指しており、皇帝は色を動かした。

和議に対する進言

元顔(元裔とも)が主張する和議に対して台諫が交々議論を交わし、周葵は陳俊卿・湯思退の両宰相に侍従・台諫に集議させることを乞うたが、衆論はますます沸騰し、諸公は待罪して罷免を求めたが許されなかった。周葵は独り留まって固く請い、皇帝が「なぜそのように強く請うのか」と問うと、周葵は「臣は陛下のために紀綱を正したいと思いますが、今それができません。政が一つに出れば紀綱は正すことができます。今、朝廷の督府の左右前後の臣がすべてその意見を通そうとしています。これが私が去りたいと思う理由の一つです。私はいつも宰相と論事する折に、然りと思っても従う者に得已ぬながら強いて従う者があり、絶対に従わない者もあります。榻前に至ると陛下がまたそれを否とされることもあります。おおよそ十のうち従わないもの七、八にもなります。これで心に恥じないでいられましょうか。これが私が去りたい理由の二つです」と答えた。皇帝は周葵の誠意を察しこれを罪とはしなかったが、辞去は許さなかった。

金陵行幸についての諫言

議者の多くが金陵への行幸を請うたが、周葵は「車駕が一たび動けば、徳寿宮(高宗)が浙東・閩中へ行幸しないと保証できましょうか」と述べた。後日、皇帝が先に詔を下そうとした際、周葵は「陛下が数事を行うことができれば天下を驚動させられるでしょう」と述べた。皇帝がその条目を問うと、周葵は「臣は最初の対面から太上皇(高宗)を大内に迎え還すこと、内帑をすべて有司に付し近習に政を干渉させないこと、溢額(過剰)の内侍を汰すこと、毬鞠と飲宴の節を罷めること、内治を修めてから初めて夷狄を攘えることを乞うています」と述べ、皇帝はこれを善しとした。

用兵の慎重論

周葵は用兵を軽々に一擲賭乾坤(乾坤を賭ける一擲)にすべきでないことを論じた。皇帝が「今、戦は不足でも守るには余裕がある」と述べると、周葵は「措置がいまだ善からず政事がいまだ修まっていなければ、たとえ守るとしても難しいでしょう」と述べた。同列の者は皆その言葉に不快を示し、皇帝が耐え難く感じたようであった。翌日、周葵は留身し謝すると、皇帝はさらにその忠を奬した。

学問についての論

かつて『大学』の「物格而後知至」を論じ「人においてはこれを智の至と言い、物においてはこれを道の至と言う。私の智をもって物の道を極めれば、両物が相抵触するようなものであり、これを『格』と言う。そもそも物は万態あって同じでないが、道は一つに過ぎない。まさに物を格せんとするとき、物と我は二であるが、物が格するに至れば、自ら無我を視ることになり、物に何があろうか。これを『知至』と言う」と論じた。