宋名臣言行錄別集上卷三十九 綦崇禮

綦崇禮、号は北海先生。字は叔厚。高密の人(?–1142年、享年六十)。翰林学士として高宗朝の詔令の多くを起草し、江淮防衛策や進討・固守の利害を論じた。秦檜の辞任詔書でその矛盾を批判し、深く恨まれたが、死後に秦檜の報復から家族を守るため恩沢を辞退させられた。

年表(5件)

出自と経歴

綦崇禮、号は北海先生。字は叔厚。代々高密の人で、後に淮の北海に移った。政和八年(1118年)、上舎試に登第。淄州淄県の主簿に任じられ、任期満了で学正に改まり、博士を除せられ正字に改まり、母の喪に服して帰った。建炎戊申年(1128年)、邵州の知事に任じられたが、邵陽・道州の副知事にはいずれも赴任せず、尚書工部員外郎を除せられ、まもなく起居郎となり給事中を摂した。政事堂で試されたとき、頃刻のうちに制誥三篇を作り、その詞翰の優れたことに皇帝は大いにその能を嘆じ、中書舎人を拝した。建炎四年(1130年)、翰林学士院を権知することを兼ね、吏部侍郎を除せられ便郡(近郊の郡)を求め、徽猷閣学士として漳州・明州の知事となった。紹興二年(1132年)、再び吏部侍郎となり、他局を求めて兵部侍郎に移り、まもなく翰林学士院を除せられ、俄かに翰林学士を除せられ侍読を兼ね史館修撰を兼ねた。病により在告を求めたが許されず、寶文閣学士に換わって紹興府の知事・浙東帥を兼ね、一年で辞去を求め許された。三たび太平観の祠職を任じ、紹興十二年(1142年)、上章して致仕を告げ、八月、享年六十で卒し、高密侯の爵を進められ朝議大夫を贈られた。

幼少期の才気

幼くして穎邁で遊びを好まず、読書と学文は月に開け日に益し、同輩は誰も及ばなかった。十歳にして銘を作り邑人の墓誌とすることができ、その文の措辞・比事・音節はすべて律呂に適っていた。父はこれを見て大いに驚き、母に「我が家は高祖以来、身を勤め善を積んできた。その報いがここに現れたのだろうか」と語った。

鄒浩追復の詔勅と李正民との逸話

車駕が平江に幸した際、鄒浩の追復(龍図閣待制の贈官)についての詔があり、綦崇禮がその詞を担当した。皇帝が遺賢を褒め憐れむ意を述べる中、「心を処すに欺かず気を養うに至大にして言に期して意を寤し、かつて雷霆を犯すことをものともせず、身を惜しまずして国を去った。再び嶺徼に遷ることは、具臣(普通の臣)にも動色させ志士に心を傾けさせる」と述べ、また「英爽は忘れず生気の猶在るを想い、姦諛は既に死してその朽骨のなお寒きを知る」と述べた。同僚の李正民はこれを見て「近ごろ吏房の詞頭はいずれも平凡な除目ばかりで詞を尽くすに足らなかったが、今君が鄒浩のために起草した制はまことに喜ばしい」と述べた。ところが録黄(正式文書)を担当する際、綦崇禮が仮を取ったところ、李正民が独自に自分の名で発行してしまった。綦崇禮はこれを戯れに「君はもとより鄒浩公の制に名を掛けたかったのだろう。ただ潤色の巧みさがないことがかえって名の累となりはしないか」と述べると、李正民は笑って「人はこれが君の手によるものと知っているが、私だけが功を掠め得たのは幸いだ」と答えた。その文章はこのように同僚に重んじられた。

江淮防衛策の建言

かつて「車駕が臨安に駐まった以上、浙西を根本とすべきです。そのうえで江淮の守りを固めてこそ恢復を図れます。西蜀は万里の外にありますが、その士大夫を召し用いて遠人の心を慰めるべきです。台諫の令が簡忽(軽率)に流れる過ちを正し、諸将の功による遷補の濫を革め、冗兵を汰し浮費を撙る(減らす)べきです。これらはすべて今、言いにくいことです」と上言した。

進討・固守についての進言

御筆で処分され都堂に召され進討・固守の利害を条陳せよと命じられた際、「金人は靖康以来、無歳無兵で、乗輿(皇帝)が南渡した己酉の冬にも江淛(浙)に侵冦しました。その帰師の齟齬をもって休戦になったかと思えば、また関陝を侵し、我が富平の敗に乗じて巴蜀を窺いました。幸い呉玠が一勝を得てその鋭鋒をやや挫いたものの、その我を図る心はいまだ忘れていないのでしょう。今、偵諜の報はすべて金人が兵を併せて川陝に向かおうとしていると伝えます。これでその情が分かります。以前は江表での用兵が敵の形勢に有利でなかったため、二三年来力を蜀に窺うことに尽くしています。前回の敗の報復のみならず、蜀が守られなければ江淛も自ら動揺すると考えているため、必ずこれを図るのをやめません。今日の利害は蜀兵の勝敗にあります。我が兵が勝てば金は蜀に近づけず、必ず気は落ち衆は離れるでしょう。もし敗に乗じて西へ、襄漢から東へ、淮海から進兵して討伐すれば、我らは必ず大いに志を得て中原は定まるでしょう」と奏上した。

議論と規模についての進言

「天下を治める者は議論と規模の存するところによります。規模は国家が拠って立つものであり、議論は規模が拠って定まるものです。議論が定まれば規模は立ち、国家の勢いは成ります。議論が定まらなければ規模は立たず、国家の勢いは危うくなります。規模議論は天下多事の際にこそ急務です。議論が定まれば成り、定まらなければ敗れます。規模が立てば存し、立たなければ亡びます。これが成敗存亡の機であります。私が思うに、今日の議論・規模は次の三つを出ません。中原を恢復し再造の功を成すのが上策、有する地に因ってこれを疆理するのが中策、目前の安を貪り何もしないのが下策です。その上を語れば今は力が及ばず、その下を守れば我らの勢いはもはや立てられません。時を量り力を測ってその中を取るべきです。中策が成ればその上策も次第に成し遂げられますが、下策に止まれば中策を志す志すら失われましょう。願わくは陛下は聖志を発揚し、言の高さのみで実害を及ぼさぬよう、また安逸に流されて歳月を空費しないようにされ、議論はその可用を審らかにし、規模はその適中を定め、これをもって政事を立て、これをもって人材を任じ、これをもって功効を責めれば、期月の間に治功が成らないことはないでしょう」と述べた。

防秋の備えについての進言

「今、防秋の時期は既に過ぎ、遠近の通使の情報から見て事は緩やかに進みそうですが、宜しく沿江の将帥に遠く斥堠(見張り)を明らかにし、阨要を防ぎ、士卒を選抜し訓練させ、日々敵に遇うつもりで先んじて備えさせるべきです。後悔なきよう。もし和議が成就しても備えを弛めるべきではありません、まして今日はなおさらです」と述べた。

翰林学士としての功績

綦崇禮は再び翰林に入って五年、撰した詔命は数百篇に及び、文は簡にして意は明らかで、私に美を語らず私怨を寄せもせず、まさに代言の体を得ながら、慷慨として事を論じ回避するところがなく、ただの侍従・帷幄の臣ではなかった。

秦檜の辞任詔書における批判

秦檜が上章して辞位を求めたとき、皇帝は綦崇禮を召し出し、秦檜が献じた二策の大略「河北の人を金人に返し、中原の人を劉豫に返す」を示し、また皇帝は「秦檜は南人は南に帰し北人は北に帰すべしと言うが、朕は北人だ、どこに帰せというのか」また「秦檜は自分が相となって数か月で天下を驚動させられると言ったが、今その効果は聞かない」と述べた。これを受け綦崇禮は制詞に「自ら権を得たと詭り、事を挙げれば四方を聳動させると謀っていたが、居位してから二策を建てるに至り、その理を照らせず、殊に平生の言葉と乖離している」と記した。

呉玠への制詞

川陝宣撫副使の呉玠が功により検校少師・両鎮節度使に進んだ際、綦崇禮は制詞に「陸海の神皋(豊かな地)は既に秦川の利を失ったが、銅梁・剣閣についてはあえて蜀道の難を言うまでもない」と記した。これを見た者は、秦は既に淪陥したが蜀はいまだ失われていないとの意と解したが、皇帝はこれが正しくないと知った。綦崇禮はなお唐の故事を援用して自らの失職を主張し、力めて辞去を求め、紹興府の知事に任じられた。

浙東帥としての防衛

逆雛(金の別動隊)が隣国を導いて侵冦し揚州・楚州が震動した際、皇帝は自ら戎衣を纏って呉会に次した。綦崇禮は近臣として一方の任を寧じ、浙東の一道は行都の肘腋の地であるとして、備えを厳にすべく密疏を朝廷に上げ便宜行事の権を得た。城郭を繕い甲兵を励まし銭帛を輸して王師の犒給に供し、舟艦を簡んで海道の衝突の患いを防ぎ、夙夜心を痛め寝食を廃するほどであった。春に大駕が凱旋すると、七州数十県の民は安堵し戦場の緊急事態を知らずに済んだのは、綦崇禮の力によるものであった。

人柄と学問

綦崇禮は日頃、際立った崖岸嶄絶な行いをとらず、廉潔で欲少なく、学問文章にはひたすら思いを覃し、白首になっても倦むことがなかった。強記黙識で、唐虞三代から本朝の隆盛まで君臣の事跡を先後を問わず数千年にわたり手のひらを指すように語り、唐の常楊(常衮・楊炎)をもってしても及ばぬと見なされた。皇帝は常に「綦公の文には体があり、真の学士だ」と述べた。

秦檜との確執とその後

秦檜が政を罷免された際、綦崇禮は制詞の頭書にその悪をあらわに記し隠さなかったため秦檜は深く恨んだ。太師となり権勢を張ったとき必ず怨みに報いようとしたが、その時既に綦崇禮は没していた。しかし没後もその家に与えられた恩沢を家族は畏れて陳べず、士大夫も保任する者がなかった。十年を経て、なお詔により台州に赴き壬子八月に賜わった御筆を取り上げるよう命じられ、世論はこれに驚愕した。秦檜が死に朋憸(悪しき徒党)が悉く逐われると、識者は綦崇禮がこれを見ずに没したことを嘆いた。

趙思誠による祭文

趙思誠は祭文で次のように述べた。公は妙齢より秀発聡敏、人に過ぎ、辞章の妙は古の作者を追い、詩書六芸の文を博く習い、諸子百家の編、伝記小説に至るまで通じないものはなく、奕棋・音律もことごとく洞暁し、酒酣に議論風発し長歌慷慨、傍らに人なきがごとし、まことに一時の英であった。中年には頓挫し久しく処士であったが晩年ようやく及第し、たちまち華要(重職)に出仕した。官にあって意気を敢言し人に忌避せぬ者少なく、始終文翰の際遇によったが、朝廷に大議論があれば皇帝は必ず彼に諮り、内外はこれを台諫のように憚った。当初、掖垣を拝すとともに内職を兼ね、後に二度天官(吏部)を領してもまた同様であった。玉堂に前後五年あり、皇帝はしばしば大用しようとしたが権臣に阻まれ果たせなかった。建炎の間、駐蹕が定まらぬ中、詔令の多くが時に間に合わなかったが、綦崇禮の受命は立ちどころに成り、皇帝は常に嘉奬し「綦某の詞は体を知り、言葉の軽重を得て、点検すべきところがない」と述べた。当時の議論では、中興の功はただ将士の力のみならず、詔令もまた助けをなしたとされた。

樓鑰による文集序

樓鑰は綦崇禮の文集に序して「南渡の行にあたり、公は帝の側にあり実に王言を代作し、詔旨の至るところ読者は感動し諸将は命を奉じて走り、あたかも陸宣公が奉天にあったときのようであった。まもなく翰苑に入り、羽檄が旁午(交錯)し書詔が填委する会にあたって播告の修(文章)を尽くし、その旨を失わなかった。呂忠穆が首相として督府を開いたとき、その訓辞は特に宏偉で『長江表裏の封をすべて経畧に帰し、宿将侯王の貴をことごとく指呼に聴かせる』とあった。その威霊を布宣し国体を張大する様はこの類であった。これは公が篤く経術に意を用い、博覧強記して道をもって自任し、才高くして気は剛、平時の文は崖異な言を用いずとも気格は渾然として天成であったためであり、一旦書詔の任に当たれば明白洞達、武夫遠人にも上意の在るところをはっきりと知らしめ、規規として青を取り白を嫓(並)べるような小工夫を旨とする者とは比べ物にならない」と述べた。

楊萬里による評

楊萬里は次のように序した。記覧はその博きを極め、辞章はその麗しきを極め、しかも正君定国・扶世立教は自然に根ざしていた。その進言は「天を畏れよ」「民を愛せよ」「祖宗に法れ」「学に務めよ」「諫に従え」「賢を進め不肖を退けよ」と説き、経を説くには聖賢の本旨を探り訓詁の是非を弁別し、正を取って奇を尚ばず通に取って鑿(こじつけ)を悪み、今をもって古に凖じ旧に拠り新を鑑みた。皆、正心修身斉家治国平天下の要であり、何と多くのことを取り上げたことか。鴻筆麗藻は一時に冠絶し、中興に功があり独り上意に当たること威鳳祥麟のようで、これもまた偉なることである。しかも自ら泉石に放ち仙城の回縈の中に深く入り、万鍾千駟をもってしてもこれに換えず、一觴一詠、事外に興を寄せ、多く賦さずとも、その閑雅澹泊さは彫琢せずして工み、造作して悲しみを鳴らす者の及ぶところではない。

附 呂本中

出自と経歴

呂本中、初名は大中、字は居仁。先祖は東莱の人で、京師に家を構えた。正献公(呂公著)の恩により承務郎を仮に補せられた。紹聖年間の党禍で追貶され、正献公もまた官を奪われたが、元符年間に官を復した。政和五年(1115年)、興仁府済陰県の主簿に任じられ、続いて泰州士曹となり、母の喪に服し、喪明けて大名路撫幹となった。宣和六年(1124年)、枢密院編修を除せられ、靖康初年、職方員外郎に遷り、嫌を避けて祕閣修撰・明道宮主管に改まった。紹興初年、召されて言事を務め祠部員外郎となり、まもなく祕閣修撰・崇道観主管に改まり、紹興六年(1136年)、召されて進士出身を賜り起居舎人に抜擢されたがたびたび辞退したが許されず、中書舎人を権知することを兼ねた。紹興七年(1137年)四月、龍図閣直学士として台州の知事となり、まもなく崇道観に改まり、冬に太常少卿を除せられ、紹興八年(1138年)、中書舎人を拝し侍講を兼ね、翰林学士院・史館修撰を権知した。後に秦檜に忤い罷免され、太平観の提挙となり、紹興十五年(1145年)六月、卒去した。上饒に遷り享年六十二。隆興二年(1164年)、敷文閣待制を追復された。

学問と師承

若い頃より学を講じ、父祖の至論を聞き、また諸君子と朝夕接して薫陶を受けた。常に「徳に常師なし、善を主として師とする」と語り、この論を最も重んじた。また「学ぶ者はまず孝経・論語・中庸・大学を熟読すべきで、その後に諸書を遍く求めれば必ず得るものがある」と述べた。楊時(游酢の同門か)に従学して微旨を叩き、劉安世・陳瓘の門に復び学び益を請うた。呂本中の学問の端緒は深遠であり、このようなものであった。

恢復の根本地についての進言

六飛(皇帝の車駕)が呉郡に幸し建康に進もうとした際、呂本中は「古来、創業・中興の者は必ず四方を制する根本の地を持ち、四方を制する根本の兵を持つ。今、根本の地として頼りにできるのは両浙・江東・福建のみですが、諸路は凋残し民力は既に困窮しています。根本の兵として頼りにできるのは禁衛ですが単弱で用いられません。願わくは大臣に命じて広く才略を選び、まずこの二つの要を求めて力を尽くして行わせるべきです」と論じた。

苗亘への黥刑への諫言

苗亘が階州の倉庫での贓罪により黥刑(入れ墨刑)を科されようとした際、呂本中は「近年、官吏の贓罪は多く黥刑に処されていますが、士人たる者は法を行う際に避けるべきことがあります。まして遠方の地では枉げられた冤罪があるかもしれず、どうしてすべてを知り得ましょうか。もし急にこの刑を施し、後にその無実を知っても深く悔いても及びません。またこの刑がひとたび用いられれば、後世に不幸にも姦臣が権をもてあそぶ際にこれを借りて無罪の者にまで及ぼすことを恐れます。国家がこの刑を絶やさなければ、紹聖以来の憸人が権柄を盗んだように縉紳がこの禍に遭い遺類なきに至るでしょう。願わくは常罰を酌量し陛下の仁厚の意にかなうようにされますように」と疏を再び上げ、これに従われた。

恢復事業の準備についての進言

駕が建康に幸した際、呂本中は「今日の計はまず恢復の事業を先にすべきであり、それでこそ機を観て動けます。もし志があるのみで業がなければ、他の患いを益すことになります。今、江南二浙の科須(賦課要求)は実に頻繁で、閭里は疲弊しています。もし水旱の乏絶の虞があれば、何をもって対処するのか、審らかにされていません」と疏言した。

九江・鄂渚・荊南の防衛策についての進言

「九江・鄂渚・荊南の諸処に多くの兵旅を宿営させ重臣を臨ませるべきです。孫氏以来の名将たちは皆、西陵・建平を国の藩表(境界)と称してきました。今、この二つの地はちょうど荊峡の間にあります。人を精選して守臣とし権柄を与えて緩急に備えれば、江南の自守の計はやや備わるでしょう」と再び請うた。

人材登用の正邪弁別についての進言

「人を任ずるには邪正を弁別すべきです。近来、建言や事に用いられる臣は各々少しずつ私見に偏り、正しい説を主としません。元祐・紹聖の党争を混同して一途にしていますが、その意図には所在があるはずです。早くこれを察しないと必ず政体を害するでしょう」と論じた。

秦檜との確執

靖康の間、呂本中は秦檜と共に郎官であり意気投合していた。秦檜はまた呂本中の父が推薦した御史であった。趙鼎は呂本中の名を耳にして深く敬慕していた。呂本中が中書舎人(西掖)を真に拝すると、趙鼎・秦檜がちょうど左右の丞相を務めており、議論の多くが合わなかった。秦檜には専権の意図があり自分に附かぬ者を排除しようとした。呂本中は「陳同人于野」(易の卦にある、野において人と協力すること)の意義を陳べ、まさに大同至公をもって艱難の克服を図るべきと論じ、秦檜はこれに同意しなかった。さらに親党を汲用することの不可を力めて勧めると、まもなく除目が下され、呂本中はこれを即座に奏上して返した。秦檜はこれを喩し行うよう命じたが、ついに聞き入れなかった。秦檜は初めて呂本中を怨むようになった。哲宗実録が成ると、趙鼎に特進が除せられ、呂本中がその制を起草するに際し「晋・楚の成(和議)を合わせるより、王を尊び伯を賤しむに若かず」と記した。秦檜はこれを見て和議を破るものだと指摘し不快に思った。呂本中は制勅を繰り返し封還すること甚だ多く、僥倖を抑え是非を明らかにし、決して迎合しなかった。趙鼎はよくこれを容れ多く従ったが、秦檜は皆これを罪とみなし、ついに呂本中が首相(趙鼎)に阿附していると誣告した。趙鼎が去ると言事する者が呂本中を朋比とみなし罷免を求め、呂本中は去ることとなり、秦檜の勢いはますます張った。

晩年

呂本中は切直な言をもって権臣に忤い、一度斥けられて再び用いられることはなかった。貧しさが甚だしく人々は皆彼を憐れんだが、呂本中自身は摧抑擯棄(挫折と排斥)を士の常と見なし、少しも意に介さなかった。

人柄

呂本中の器量は閎厚で行いは純篤、誠意は充積し表裏に間がなく、人と交わるに忠信で楽易であり、これに接すれば藹然としてその喜怒を見せることはなかった。日頃の学問は窮理尽性を本とし、卓然として高逺、及びがたいものであった。