宋名臣言行錄別集上卷三十九 汪藻
汪藻、字は彦章。饒州徳興県の人(?–1154年、享年七十六)。博学と大手筆をもって高宗朝の詔令の多くを起草した文章家。梁師成への迎合を拒み、大将統制策や淮南屯田策、日暦編修などを建言したが、王黼との旧怨から永州に貶され配所で没した。
年表(7件)
- 淵聖(欽宗)即位により召されて尚書屯田員外郎となる
- 高宗即位により召されて中書舎人となる
- その二年後端明殿学士を贈られる
- 崇寧二年1103年進士乙科に登第する
- 政和四年1114年著作佐郎・符宝郎に遷るが王黼に退けられ宣州の副知事となる
- 紹興十二年1142年泉州の知事となる
- 紹興二十四年六月1154年貶所で卒去する、享年七十六
出自と経歴
汪藻、字は彦章。饒州徳興県の人。崇寧二年(1103年)、進士乙科に登第。婺州の推官を務め、宣州の教官を経て喪に服し、喪明けて荆南書記に任じられたが赴任せず、江西提学司の幹官に改まった。京に至り九域図志の編修を除せられ、母の喪に服し、喪明けて校書郎に任じられ、著作佐郎・符宝郎に遷った。政和四年(1114年)のことである。王黼に退けられ宣州の副知事となり祠禄を得て太平観の提点となった。淵聖(欽宗)即位により召され尚書屯田員外郎となり、まもなく礼部に改まり、太常少卿に進み起居舎人となった。高宗即位により召されて中書舎人となり、駕が維揚に幸したとき罷免され集英殿修撰として太平観提挙となった。翌年再び召され中書舎人となり給事中に抜擢され、兵部侍郎兼侍講・翰林学士院を経て、まもなく真に翰林学士を拝し、日暦を再び管掌し、龍図閣学士として湖州の知事となり、日暦を管掌しつつ撫州の知事に移り、一年余り後に太平観の提挙となる旨の詔があり、日暦の編修を命ぜられて完成すると中大夫・顕謨閣学士に加えられ徽州の知事となった。紹興十二年(1142年)、泉州の知事となり宣州に移り、まもなく鎮江に改まったが讒言により職を落とされ永州に居住させられた。七、八年後、致仕を乞うたが許されず、貶所で卒去した。紹興二十四年(1154年)六月、享年七十六。その二年後、端明殿学士を贈られた。
幼少期の才気
幼くして卓越し大志を持ち、学業では春秋・左氏・西漢書を読んでこれを好み、これらの書に並ぶ文を著そうと志した。弱冠にして太学に徒歩で赴き、担当官がその文をたびたび諸生の上位に置いた。
徽宗の詩への唱和
徽宗が自ら「君臣慶会閣詩」を製した際、群臣は喜んでこれに和した詩を集めて一つの録とした。汪藻はたまたまこれを見て一章の和詩を作り、朝廷に伝わると諸公はこれを喜んで称賛した。
博学ぶり
博学強記で、六経百家・太史(司馬遷)の書・先儒の箋疏伝注の書・兵家・族譜・方言・地志・星経暦法・仏老の諸説から、万里海外の蛮夷異域の荒怪な伝説の記録に至るまで記憶せぬものがなかった。その文辞は道徳を明らかにし世務に達し、事を指し理を折り、物に託し古今を馳騁し、経伝を貫き、あらゆる文体を備えて数十万言に及び、一家をなした。
詩才の評判
江西・徐州にいたとき、俯師川(洪炎)・洪芻らは詩の名声を誇り自負していたが、ある日洪炎が僧院の壁に汪藻の詩を見て「これは我らの仲間だ」と嘆じ、二洪を連れて訪ねてきたが、汪藻が去った後「詩人墨客が言葉をひねって不平を鳴らすだけのものを、どうして尊ぶに足りようか」と述べた。数年後、汪藻はついに大手筆をもって天下に称された。金華で講義し石室で書典を紬(つむ)ぎ、朝廷の政策に用いられ、楽歌が郊廟に薦められ、鴻文碩学として一世に暴耀した。その名を知り書を有する家は多かったが、詩律の高妙さや興趣の深さも近世の詩人には及ばぬものであった。
梁師成への非迎合
大宦官の梁師成が権勢を振るい、小人が朋党を組んでこれに附き隠相と呼ばれていた。武人の呉可という者は梁師成に詩の能を認められ、その邸に出入りしていた。汪藻が符宝郎を罷免された際、呉可が訪ねてきて梁師成の意を伝えて「お名前は久しく聞いております。幸い私を卑しめずお目にかかりたいと。禁従(宮廷の職)の地位も拱手のうちに得られましょう」と言ったが、汪藻は謝して行かなかった。客が「私たちは隠相の門を天上のように仰ぎ見ているのに、召しに応じないのはなぜですか」と問うと、汪藻は「私を呉可の輩と同列に扱ってよいものか」と答えた。
高麗への詔勅の名文
高麗への答詔を起草すると、皇帝は輔臣を顧みて汪藻が代言の体を得ていると称賛した。しばらくして高麗人の謝表が届くと、皇帝は再び汪藻を称え、御用の白団扇を親書し紫誥(詔勅)を賜り、六経十字ほどの黄麻の書に匹敵する扱いで縉紳を栄えさせた。
大将統制策の献策
大将が重兵・高位・崇秩を擁し、子女・玉帛にも既に富貴の欲を極め、外重の勢いを盤根錯節に築いていることを論じ、これに対処する三事を陳べた。一に法をもって示すこと、二に権をもって運用すること、三に分をもって別つこと。十年後、果たしてその策の通りとなった。
財政・軍権についての進言
「今、国家が有するのは数十州に過ぎません。いわゆる財を生む土地は、この数十州の民です。どうして耐えられましょうか。ただ痛切に軍中の冒請(不正な支給要求)や禁中の泛取(乱費)を削減すべきです。私にはさらに憂慮するところがあります。古来、兵権を人に属せしめて患いが生じなかった例はありません。今、将は驕り制しがたく、その偏裨(副将)の中には必ず一二の英雄がいるはずです。宜しく精選して十余人を選び、それぞれに数千の兵を授け、御前軍として合わせて数万とし、次第に諸将の権を消し去るべきです。これが万世の計です」と述べた。
淮南屯田策の献策
「淮南はたびたび虜冦を経て民は本業を離れ、耕さぬ田が千里に広がっています。国家が淮南を保とうとするなら、屯田が必要です。私が思うに、春の間に劉光世か呂頤浩を遣わして招安した人馬を率い江を越えて寨柵を建てさせ、分地させて耕させれば、行在の藩籬を固めるとともに東西の群盗を清め、これぞ万世一時の好機です」と述べた。
恩賞の是正についての進言
「宣和の諸臣が貴倖と交通し一時の誤った恩により銀青光禄大夫にまで至った者がいます。台諫が極論しまさに削減されようとした矢先に、墨がまだ乾かぬうちに甄復(回復)が詔されるならば、祖宗の法により中大夫までで止めるべきです」と論じ、繰り返し数人を除いた末に国論はこれを是とした。
日暦編修についての進言
また「元符以来、日暦がありません。これは重大な欠典と言うべきです。古来、国あれば必ず史があり、史あれば必ず官があります。漢法では太史公の位は丞相の上にあり、天下の計書はまず太史公に上げてから丞相に上げました。唐から本朝に至るまで宰相が国の重事を総監してきました。願わくは聖心にご留意ください」と述べ、皇帝は喜んで納れた。翌日、輔臣が担当者を選ぼうとすると、皇帝は「汪藻に代えられる者はいない」と述べた。
王黼との旧怨による左遷
かつて太学で王黼と些細な不和があり、後に王黼が宰相になるとこれを恨み用いなかった。ついにこの縁で汪藻は廃斥され、後に言事する者が汪藻を王黼の党であると指摘し、永州に居住させられ、たびたびの赦にも赦されず、ついに窮地で困窮したまま死んだ。
孫覿による評
孫覿は次のように評した。建炎・紹興の間、大盗が中原に拠り群悪が四海に嘯集し盗の巣窟となった。天子は慨然として一剣を持ち兵間に出入りし、禁を除き残を拯い、戎馬蹀血の余に凶を弔い、中興の烈を建てた。この時、汪藻は翰林にあり一時の詔令の多くはその手から出た。皇帝が諸将を指授し戦士を感厲し在位の者を訓飭し、元元(万民)を哀閔する意はすべて誥命の文にあり、赤心を開示すること明白洞達で、戸を出て牖を窺わずして天威は咫尺(間近)に坐して万里を照らした。学士大夫はこれを伝誦し陸宣公(陸贄)に比した。まもなく権臣が党を植え自らに附かぬ者を除いたとき、汪藻もまた罪に問われ永州に貶居すること積年十二年、四たびの赦にも還れなかった。折々に良き日には幅巾葛屨を着け西山に登り鈷鉧潭を巡り愚渓に入り、湘流に沿って古人を弔う文を沈め、山水に自らを解き放った。年を重ねるほど文章はますます奇を発し、詩はますます工となり、柳儀曹(柳宗元)と数百年隔てて相並ぶほどであった。その文章の格力の高さは何と盛んなことか。
孫覿の序文による評
また汪藻の文集に序して「天下に能事はあるが文章を工とするのは難しい。漢から唐まで千余年の間に大手筆と称される作者が文章を閎麗精深にして天下を圧して不朽の名を立てたのは、わずか数人に過ぎない。杜子美の詩の格力は天から与えられたもので百代に跨がり古今詩人の冠であるが、他の文章はうまくない。荀子のいう『芸に至る者は両能ならず』とは真である。道が散じ文が弊れるとともに、作者は増えたが詞句は浅薄になり前代に及ばない。その中で心を競わせ力を尽くし古人の域に一躍到達しようと望んでも、選択が精でなく守りが固くなければ、名を狥い習を媮み鄙陋で、この文には与れない。左太冲は十年の勤めを積んでようやく一賦を成し、劉伯倫は一つの酒徳頌をもって終身とした。一能の善、一語の工でさえ作者の林に列せられ後世に名を遺す。今、汪藻の文はまさに閎麗精深にして天下後世を圧すると言うべきものである。汪藻は生涯これといった好みがなく、ただ古聖賢の書を読み、これを文章に表すことを土炭を啖い昌歜を嗜むように、あたかも一つの病のように、寝ても覚めても千載の心を慕い手ずから追い求め、百家を貫き旧聞を網羅し、天人道徳の旨、古今興壊理乱得失の跡を推し究めた。心の適う所があれば必ずこれに寓し、登高望遠の折、千里を思い巡らし、耳目に触れるものはすべて詠歌に発し必ずこれに寓した。兵乱に崎嶇し深く隠れ潜んだ折の悲歌慷慨、酔いに紛れる無聊さで心を動かされたものもまた必ずこれに寓した。技と道が共に習い、空と会し、文は字に従い体質は渾然として刻画の跡を見せず、千石の鐘、万石の簴(鐘架)のように、叩けば必ず応じ、叩けば叩くほど窮まりがない。何と盛んなことか」と述べた。