宋名臣言行錄別集上卷三十八 王縉

出自と経歴

王縉、字は子雲。厳州分水県の人。崇寧五年(1106年)、進士に登第。歙州の法官に任じられ、池州石埭県の令に移り、婺州蒲江県の知事となり、杭州塩倉・臨安県市易務の職に招かれ、温州永嘉監、池州永豊監を歴任した。父母の喪に相次いで遭い、喪明けて吏部郎官を権知したが時の宰相に忤い英州の知事として出された。任期を終えて対を求め、虔州の知事に任じられ、金部員外郎の号を得た。まもなく温州の知事に選ばれ直秘閣を加えられ、辞陛の日に留められて監察御史を拝し、侍御史に抜擢され、右司諫を求めて外任となり、再び直秘閣として温州の知事となったが職を落とされ祠禄を得た。再び常州の知事となり、崇道観を主管し、二十年後致仕を告げた。紹興二十九年(1159年)、卒去、享年八十七。

綱紀・法守・賞罰・軍政についての進言

王縉は綱紀を正し法守を厳しくし賞罰を明らかにし軍政を立て風俗を厚くし儲蓄を広くすることを陳べ、長久の計とすることを求め、古事を援用して諷諭した。

江湖の大旱への対策についての上奏

東南の大旱で江湖が特に甚だしかったとき、王縉は賑恤の策を考えた。冤罪を伸ばし係累(連座)を緩め、税の徴収を緩め、逋負(滞納)を免じ、穀の販売を通じさせ、餓死者を埋葬することなど、その論は詳細であった。また常平の法が名は存するも実は廃れており、借兌の未返済や支移の未回収が積み重なって、これが凶荒を座視するに至った原因だと論じ、その根本を推し「大臣に詔して陰陽を燮理する事に思いを致し清らかに身を修めるよう」求め、その論は非常に切実であった。

直言についての進言

また「艱難の時に忠言を聴くことは易しく、平定の後に直言を受け入れることは難しい。まして仇敵がいまだ滅びていない今、目前に無事だからといって芻蕘(草刈り木こり、庶民)の言を軽んじてはならない」と述べた。

臨安地震についての上奏

臨安で地震があったとき、王縉は「地震が駐蹕の地に起こったのは、天心の仁愛が陰盛の戒めを著したものではないでしょうか。女子・小人・兵戈・賊盗はみな陰の類です。これを遠ざけ備えて天に応じることは、先哲王が中興を成した所以です」と述べ、また「陛下が即位して十年、軍政はいまだ立たず国用はいまだ節約されておりません。大臣に詔して祖宗の旧制と歳の出入りの数とを参照し均節させるべきです」と述べた。

内庭からの浮費についての進言

「かつて金翠の禁は内庭から始まり、近ごろ庫蔵が瑇瑁・坑冶の采を供するのは必ずしも器玩の飾りのためではないでしょうが、天下がみだりに好尚を寄せこれに類する行いに及ぶことを恐れます」と述べ、皇帝は容を改めて納れた。

淮上の軍への激励についての進言

諸軍が淮上に屯していたとき、賊が驕り猛威を振るう中、王師で期日に赴かない者がいたため、王縉は周の世宗と我が太祖の英断に倣い、これを励ますよう請うた。

大臣の同心についての進言

「今、二三の大臣が、あるいは外に出て軍を統べ、あるいは内に入って要職を執っております。願わくは同心同徳とし、猜疑の萌しを絶たれるように」と述べた。

淮上軍の統制についての進言

呂祉が淮上の諸将を護っていたとき、王縉は督府の属官の中から兵を知る者を選んでこれを助け、謀議し軍中に留まって兵を撫循訓練し将士の情を通じさせるよう請うた。まもなく酈瓊が叛き呂祉は死んだ。張浚(張忠獻)が当時宰相であり、台諫は選将の不善を理由にこれを咎めようとしたが、王縉は「言責のある者だけがその咎を負うべきではないでしょうか。またこれをもって大臣を進退させるのは、大体を知る者のすることではありません」と述べた。まもなく弾劾の章が交々奏上される中、王縉はひとり「劉光世が淮西に屯した際、士卒数万のうち王徳の一軍のみが忠勇果敢に戦い、他は皆驕惰放縦で用いられません。一旦、王徳を光世の後任とすると、酈瓊らはその威厳を憚り朝廷に訴え、朝廷はこれを改命し瓊らを行在に召したところ、彼らは疑いを抱き相率いて北へ去りました。密かにこの謀があったのは既に日にちを経ていました」と論じ、張浚は咎を引いて罷免を求めた。防秋の際にあたり二大将がまた入奏し朝廷に宰相がいないのはよくないのではないかと再び章を上げたが応答がなかった。

台諫弾劾をめぐる正論

初め日食により直言を求める詔があったとき、同僚が王縉に「上は我らを言路として任用しているのに外に直言を求めるのは、この議を建てた者が必ず奸心を懐いているからだ」と述べたが、王縉は「日食に際して直言を求めるのは故事である。台諫だからといって廃されるべきではない」と答えた。この時また、かつて趙丞相(趙鼎)が去った際に自分たち二人が弾劾しなかったため昇進しなかった、今、台諫が右相の勢いを揺るがそうとしているから共に論じれば共に昇進できると誘われたが、王縉は正色して拒んだ。後に反対にこの者から観望していたと弾劾され後図を狙っていると言われたが、王縉はこれを聞いて笑い「私は老いた。目前の利を願わないのに、どうして後図など考えようか、それは逆であろう」と述べた。

言路での姿勢

言路にあって知る限り言わないことはなかったが、常に「人材は実に得難い。多事の際には朝廷のために愛惜すべきである」と言い、専ら弾劾に走らず、安危利害の大計と君心を啓発する所以を論じることを重んじた。皇帝はかつて王縉の中正で阿らぬことを称え、後に言事する者に称賛しがたい者があると、皇帝は「王縉の論事は考える価値がある」と述べ、常州の知事に任じた。

降金経歴者への対応

かつて金国から帰ってきた元従官がおり、かつて偽庭(劉豫の偽斉政権)に仕え京邑を占拠して守っていた者が、郡を通過した際、王縉はこれを憎み礼をなさなかった。力めてこの者に面と向かって詰責し恥じさせたところ、この者と親厚であった宰相秦檜のもとに帰って泣訴した。秦檜は怒り、王縉を崇道観の主管に任じた。