宋名臣言行錄別集上卷三十八 張闡

張闡、諡は忠簡公。字は大猷。温州永嘉県の人(?–1163年、享年七十四)。秦檜の懐柔を拒み、江防・淮上防衛・対金交渉方針など数多くの建言を行った実直な官僚。台諫の頻繁な交代を諫め、和議・帰正の人の送還にも最後まで反対した。

年表(8件)

出自と経歴

張闡、諡は忠簡公。字は大猷。温州永嘉県の人。舎選により京師に貢挙され、宣和六年(1124年)、進士に登第。厳州兵曹に任じられ、紹興初年、虔州の教官李回に幕僚として招かれた。紹興四年(1134年)、席益に幕僚として招かれ吏部の改秩を阻まれ、岳観を監督して帰り、鄂州・台州の教官を歴任し、対を賜わり正字に任じられた。十二年(1142年)、校書郎に遷り益王府の教官を兼ね、翌年、国史院検討を兼ねた。さらに翌年、皇帝の行幸により遷官の例で免官となり、一年余り後、崇道観を主管し満期で泉州の副知事となったが赴任前に罷免された。二十五年(1155年)、両浙市舶を務め、二年後に台属となり郎官に昇進し、五府に入った。三十一年(1161年)、将作監に遷り、翌年宗正少卿に進んだ。孝宗即位により工部侍郎を権知し侍講を兼ね、随龍恩により金紫の服を賜り七官を進んだ。隆興初年(1163年)、工部尚書を権知し侍読を兼ね、しばしば閑職を求めたが許されず、顯謨閣直学士として興国宮の提挙となり、帰宅後一月余りで病を得て、龍図閣学士・左通奉大夫として致仕、七月二十六日に薨去した。享年七十四。端明殿学士を贈られた。

恢復への進言

皇帝がひたすら恢復に意を注ぐ一方、朝廷の議論は一致しなかった。張闡は常に正心誠意・修政攘夷の説を陳べ、皇帝も虚心に聴き入れ、常に諮詢した。

秦檜への態度

秦檜が国政を執って久しく、台諫を任ずるたびに必ず自分の耳目とした。張闡は久しく郎官の地位にあり議論を好んだので、ある日秦檜がほのめかして台諫に入るべきだと述べると、張闡は「丞相がもし私を評価してくださるなら、秘書省で老いても本望です」と答え、秦檜は黙った。張闡はかつて席益に幕僚として招かれたことがあり、秦檜が初めて宰相を罷免された際に席益に力があったため、秦檜は深くこれを恨んでいた。台臣の汪勃がついに張闡を弾劾して罷免した。

江防についての進言

金の騎兵が長江に臨んだとき、張闡は対言の機会に沿江の守備兵を増やし諸郡の防備を大いに整えることを請い、京西・淮東に軍を出して金軍を牽制させた。

使者の再派遣に関する十事の建議

金主が死に新主が再び和議を求めたとき、朝廷は使者を再び遣わすことを議し、詔には「敵は旧礼を求めているが、従えば忍びず、従わなければ辺患がやまない。中原からの帰正の人を納めれば東南の力が支えきれず、そうしなければ帰化の心を絶つことになる。宰執・侍従・台諫は詳しく議して上奏せよ」とあった。張闡は「将を選び兵を練れば名分は正すことができ、江淮に田を授ければ遺民を招くことができます」と数百言を述べ、冬に十事を上奏した。一に国勢を強めること、二に茍且を革めること、三に台諫を重んじること、四に賞罰を明らかにすること、五に号令を信とすること、六に奔競を抑えること、七に軍政を厳しくすること、八に貪吏を戢めること、九に財用を節すること、十に科斂を禁じること。張闡は実事を指摘し権貴の非を斥け憚るところなかったため、皇帝は大いに嘉賞した。

淮上防衛策の献策

張闡は上奏し「私は昨冬、両淮を守ることを乞い、陛下は立春に行うと仰せられ、夏秋には終えるべきと定められました。今がまさにその時です」と述べ、面談して三策を陳べた。督府を維揚に移すこと、淮上の城壘を増修すること、山水寨の民兵と死事の家を優恤して来る者を励ますことである。皇帝は「今、江淮の事はすべて張浚に付し、朕はこれを長城として頼りにしている」と述べた。督府が蕭琦の降を受けたとき、皇帝が張闡に召問しようとしたが張闡は病で参内できず、その降を受けるよう奏請した。まもなく王師が霊璧県を回復したとの報が入った。張闡は大将李顯忠・邵宏淵が深入りして援がないことを憂え、殿後の兵を増やすよう奏請したが、まもなく軍が敗れた。世論は戦の責任を追及したが、張闡は「出師して降を受けたのは正しかった。諸将が節度に違い援もないまま敗れたのだから、前の失策を正すべきであっても、どうして鋭気を急に挫いてよいものか」と奏上し、皇帝は御前の器甲を諸軍に出し親書で張浚の軍を労うことを命じ、軍の士気は再び振るった。

台諫の頻繁な交代への諫言

たびたび台諫が交代させられることを張闡は力めて論じた。太白(金星)が昼に現れたことに詔して近臣に闕政を条陳させると、張闡は「近年、災異がしばしば見られます。去春、温州・台州の颶風は廬舎を万を数えるほど壊し、両浙では蝗が野を蔽いました。今年は夏秋の雨が淫らに降り水が溢れ米価は高騰し、太陽の薄蝕・星緯の異変も相次いでおります。これに応ずるには実をもってすべきで、文をもってすべきではありません。近ごろ言路は軽々しく開かれ号令は謹まれず、君子は進まず小人は退かず、弊政を条陳する札子はあっても改革はなく、監司・守令の臧否も上奏されても昇黜がありません。このように文書ばかりで実がなければ変異が起こるのも当然です。荊襄・江淮の守禦は近くから見ても不十分で、蜀道では連年出師し疲弊が甚だしいのに、陛下は毬馬に興じ狼子野心の者を禁籞に置いておられます。天象がしばしば警告を発するのも当然でしょう」と述べた。

金への対応方針についての進言

金が再び講和を求めたとき、皇帝が張闡に議ると、張闡は「彼が和を欲するのは我を畏れてか、それとも我を愛してか。ただ我を欺いているだけです」と答え、六つの弊害を力説して許すべきでないと述べた。皇帝は「朕の意もそうだ。しばらく状況に応じて対応させよう」と述べた。

対金交渉方針についての進言

宰執が「金国の赫舍哩志寧が書をもって通好を論じ、朝廷は使者盧仲賢を遣わしてこれに報じたが、論じられた三大事のうち国書と歳幣の額は定まったものの、唐・鄧・海・泗の四州の帰属だけは未決であり、王之望・龍大淵を遣わして通問しようとしたが議論が紛紜としている」ため侍従・台諫に集議させることとなり、尚書以下皆意見が異なった。張闡は独り「四州を割譲しなければ通和はできない。議論を先に定めてから使者を遣わすべきだ。今、彼が客であり我が主である。彼は残酷をもって我が民を虐げ、我は仁義をもって天下を撫している。敵の勢いは既に衰えているのが見えるのに、なぜあえて弱みを見せるのか」と論じ、朝論はこれを是とした。

辞去に際しての進言

祠禄によって暇乞いする際、皇帝が言いたいことを問うと、張闡は「和議を許せば祖宗の讐を忘れ四郡を棄て中原の心を失い、帰正の人々を送り返せば忠義の気を傷つけます。陛下はどうか老臣の平生の言を忘れないでください」と、時事について実に切々と述べた。皇帝は「卿はしばらく郷里に還れ。秋涼になればまた召そう」と述べた。張闡は退いて詩を賦し「八たび天顔を犯して今朝漢闕を出づ。渾て倦みて飛ぶ鳥の如く、日暮れて巣に傍いて還る」と詠じた。

人柄と学問

張闡は荘重な資質を天性に持ち、誠信を学力によって磨いた。王邸で『資治通鑑』を読む際には、修身治国について繰り返し述べ論じ、孝宗(夀皇)は常にこれを嘉納した。

朱熹「戊午讜議」序による評価

朱熹はその「戊午讜議」の序に次のように述べている。靖康の禍で二帝が北狩したとき、臣子は痛憤し万世かけても必ずその讐を報いようとした。太上皇帝(高宗)が中興の命を受け、父兄の辱を雪ぐことを誓い、紹興初年には賢才が並び用いられ紀綱が再び張られ、諸将がしばしば勝利し恢復の勢いは既に八九割成っていた。ところが金は和親の議を持ち出して我が計を挫こうとし、宰相秦檜が北の朝廷から帰ってこれを強く主張した。当時の人心はなお正しく人倫はなお明らかで、天下は賢愚貴賤を問わず口をそろえて不可とした。ただ士大夫の中で頑鈍利を貪り恥を知らぬ数輩がこれに和したが、清議はこれを許さず唾棄し、その肉を食らいその皮に寝そべりたいとまで言われた。しかし秦檜はひとり梓宮(皇帝の柩、徽宗の遺骸)・長樂(韋太后)を口実に衆議を退け、聴を惑わし、和議を確定させ動かせぬものとした。それ以来二十余年、国家は讐敵たる金を忘れ安逸の楽を貪り、秦檜はこれを利用して外権を藉り寵利を専らにし、主柄を盗んで姦謀を遂げた。清議に逆らって迎合した者は皆栄達を得た。士大夫は積年の衰俗に慣れ、国家が無事で秦檜とその徒が成功を享受し後患なきを見て、忘讐忍辱を当然のこととした。主和論者は秦檜に倣い、その徒に倣う者が続出したが、その和議に反対したのは張浚(張公)と胡銓(胡公)のみであった。他に不可という者があっても利害の間から出た議論に過ぎず、平時に賢士大夫と称された者ですら、六千里を仇の役に服す嘆きを一旦立場が変われば忘れ、酔ったように呆けて昔の言葉を忘れた。ある者に問われれば「あれは処士の大言に過ぎない」と答えた。ああ、秦檜の罪は天に通じ万死しても償えないもので、初めに邪謀を唱えて国を誤らせ、中頃には金の勢威を挟んで君を要(脅)し、人心を正さず人倫を明らかにせず、末流の弊が君を後にし親を後にする事態にまで至らせたことにある。三綱が立たなければ人心は統一されず、上に立つ者も安心の頼りを失う。これは有識の士が長く憂慮し寒心とするところであり、しかし議論する者はなお「衆論の従違をもって事理の可否を占うべきだ」と言い、今日和議に賛成する士大夫の多さが以前反対した者の多さに劣らないとして、以前の不可をもって今日の可を否定できるかと問う。しかし、これは以前の人倫の明らかさと今の不明らかさ、以前の人心の正しさと今の不正を知らぬものである。人の多寡をもって勝負を論ずるなら、和議賛成の士大夫の多さと六軍万姓の多さとどちらが多いか。今、六軍万姓の言はすなわち張浚・胡銓二公の言に他ならない。君臣父子の大倫は天の経・地の義であり、いわゆる民彞(人の常道)は世に明晦あり人に存亡なしといえども、頽壊廃弛の中で邪議が四起し忌憚がなくとも、これを断ち消し去ることはできない。今この明らかな道理を聞かず、かえって以前のいわゆる頑鈍利を貪り恥を知らぬ者の余謀に得失を決しようとしている。これでは既に墜ちた三綱がいまだ復振できず、既に隳(こわ)れた万事がいまだ復理できず、上に立つ者も終に安強の勢いを頼みとすることができないのである。