宋名臣言行錄別集上卷三十六 程瑀

程瑀、字は伯㝢。浮梁の人(?–紹興二十二年、享年六十六)。靖康年間に自ら望んで河東への危険な使者に赴き、金軍陣営を経て生還した。紹興年間には給事中・兵部尚書などを歴任し、和議成立後も志を緩めぬよう諫めた。論語研究の著書が秦檜の忌避を受けたことでも知られる。

年表(10件)

出自と経歴

程瑀、字は伯㝢。祖先は新安に守り宅地を賜り、後に歙県に移り、さらに浮梁に移った。王父(祖父)は末の娘を同邑の臧氏に嫁がせたが、長らく子がなかった。公が生まれると臧氏の姑の嗣として臧氏の家を継いだ。初め臧氏として上舎から第一に及第した。政和六年(1116年)釈褐し太学博士を授かり、京兆学事を提挙するよう命じられたが赴かず、校書郎に任じられた。政和四年(原文ママ)、臧氏の憂(喪)に服し、七年、兵部員外郎に召され、宋高麗使を送るのに従い、秋には本宗に法により復し、給事中を代行し、河東への使者を仮に命じられ、戸部侍郎の河東幹当使を経て帰還後、左正言に任じられたが外任を乞うも許されず、聖旨に忤って屯田郎官に任じられ、さらに漳州税務の監督を加えられた。高宗即位に伴い司封員外郎に任じられ、光禄少卿に遷った。進士の試験に及第し司業に改まり、外任と祠職を乞い明道宮を主管した。紹興初年、召されて行在に赴き、対面したが大臣の議論と合わず、力めて外任を求めて直秘閣・江東提刑に任じられた。翌年、常少(太常少卿)に召され朝廷に入り、給事中兼侍講を拝した。権邦彦を三度論じたが受け入れられず、罷免を乞い兵部侍郎に任じられたが拝命せず、龍図閣制置使として信州知事となった。台官はこれを留めるよう疏し、給事中に復して久しく前の願いを申し立てたが、天子の御批をもって郡に留まり信州知事のまま給事中・中書舎人が疏して留めることとなった。しばらくして席益を論じたことで数日後、言者に論じられて罷免され、明道宮の提挙に任じられた。紹興四年、徽制に任じられ撫州知事となったが親の老齢を理由に祠職を乞い興国宮を提挙した。紹興六年、続けて父母の喪に服し、喪明けて厳州知事となったが赴任前に宣州知事に改まり祠職に留まった。紹興十二年(1142年)召されて兵部侍郎を拝し侍読・翊善を兼ねた。まもなく兵部尚書を加えられたが宰相と意見が合わず祠職を乞い、龍図閣学士として信州知事となった。上饒で大水害があり奏上したが、時の宰相はこれを憎み、病と称して祠職を請い太平観を提挙した。紹興十九年、広平郡開国侯に進封された。翌年、陸陞之が李光の野史を棘寺(大理寺)にあると訴え、書問を通じたのは不適切だと言われて朝議大夫に降格された。紹興二十二年正月、享年六十六で薨去した。

河東への使者としての危険な任務

金人が燕山を陥落させ、さらに太原を陥落させた際、脅迫の書が朝廷に届いた。朝廷は使者を遣わして和議を議したが、皆首を縮めて誰もあえて赴こうとしなかった。公独り疏を上げて奮然と赴くことを請い、遂に河東への使者となった。ある者はこれを咎めたが、公は厳しい顔つきで「朝廷が危急に瀕したこの時、国家のためになるならば身を捨てても計に入れない」と言った。出発しようとしたところ、欽宗が即位すると、金はこれを聞いて驚き互いに顔を見合わせ、はじめて和議の意向を持った。金軍が河上に迫ると、王師は橋を焼いて戦わず北へ退いた。京城は大いに震撼し、南へ逃れることが密議された。右丞の李綱は堅守の説を持し、人心はやや安定した。金使が来て大臣に議事を求め、詔して李棁・鄭之望を遣わした。すでに議事が進み金繒の数と三鎮の地の割譲を許すことになったが、天子は公と秦檜を河中に遣わした。公らは入奏して「臣らはただ和議の使命を果たすことを願っただけで、割地を請うようなことは一度もしておりません。それは主導的に議した者の責任です」と述べたが受け入れられなかった。すぐに呉敏に会って前の説を主張したが、敏は強くこれを拒んだ。公は結局赴くことになった。夜、金の陣営に至るが係属先がなく、枢密院の路允迪が坐氈を分けて公に地に敷いて座らせ寝させた。夜明けに馬に乗って北へ進み、暮れになると幕を張り草を敷いて野宿した。数日後には糧食が尽き、わずかに一椀の粥を分け合った。中山にまさに至ろうとするとき、金は一軍を公とともに城下に向かわせた。守備の兵はすでに朝廷から密かに城を割かないよう堅く守るようにとの諭を受けていた。金使の王汭が至り城下から遥かに語りかけたが、城を降伏させることはできなかった。ついに公とともに燕山に至って帰った。時に靖康元年(1126年)四月のことであった。本朝の諸公は公の帰還を聞き、笏を合わせて喜び祝った。

帰朝後の対面と防備策

崇政殿で欽宗に対面した際、欽宗は「国事は艱難であり、卿が身を顧みず奮闘したことをよく知っている。慰労の意を尽くしたい」と述べた。公は塘濼を修め土兵を飭し莫州の戍兵を増やすことを奏し、さらに「金が頼りとするのは馬です。今、武備を修め険阻を作り、彼らに自由に馳突させないようにしてこそ、勝負を争うことができます」と述べた。天子は「卿は金がこの冬に来ると見るか」と問うと、公は「臣は必ず来ると考えます。朝廷は臣が誇張していると思うでしょうが、臣はあえてその来ないことを保証しません。陛下はまず力めて戦守の計を立ててください」と述べた。

紹興初年の十事論

紹興初年、朝廷に入り対面して疏して言った。「金人が乱を起こしてから今に至るまで七年になります。陛下は南都から遷り維揚に至り、維揚から遷り会稽に至りました。ただ奔走し畏れ避けるばかりです。これはどうして金が真に敵し難いからでしょうか。ただ我らがあえて敵しようとしないだけです。」十事を挙げて「志気を励まし、躬ら倹約し、賢才を訪ね、将帥を求め、紀律を申べ、財賦を治め、募兵を広め、舟師を治め、命令を謹み、事実を責める」ことを述べた。さらに「陛下は朝夕孜々として兵戎未息を憂えぬことはございませんが、積弊の極まりは、文移が煩多に困り、士俗は奔競に淪み、職業は因循に曠しく、財用は浮靡に蝕まれています。姦を縦すことを長厚とし、事を厭うことを簡靖とし、毀誉は真を失い、偏私は正を害しています。願わくは大臣に詔し、庶政を一新すれば、あるいは衰えを興し乱を撥むことができましょう」と述べた。

学問と修養に関する論

「天下を治める道は必ず学より始まる。しかし人君の学は章句にとどまらず、治乱の跡と賢否の弁を考えるべきであり、その要はさらに正心誠意にある」と述べた。

天子の親征論への諫言

漢の光武帝が自ら戦陣に臨んだ話に言及した際、天子は「朕はまさに江上の軍将を措置し定め、たとえ単騎であっても自ら赴いて視察し慰労し士気を高めようと思う」と言った。公は「近年、金人が侵入するたびに皆風を望んで逃げ避けてきました。陛下が万乗の位を屈して自ら赴かれれば、士気は自ずと振るいましょう」と述べた。

権邦彦弾劾

瑣闥(給事中)の職にあるとき、公は平生自ら平奏を任とし、忌憚なく論を抗した。権邦彦が枢密院を僉書に任じられようとしたとき、公はその五つの罪を論じ、三度上疏したが受け入れられず、御史を経て次官の書を読むよう委ねられると、公は罷免を乞い改めて給事中に任じられた。

内蔵についての建言

「内蔵の建立は、小さくは有司の経費を助け、大きくは戎虜への対処に備えるためであり、まことに仁遠慮のためです。緊急時に取り計らうことができるようにするためであり、民から横索する必要をなくすためです。南渡以来、内蔵はかつての蓄積を復していないため、毎年、左蔵の銭を割いて充てなければなりません。今なお借用や利子付き貸出が行われているのはどうしてこれほど費用がかかるのか理解しがたいものです。願わくは陛下、時事の艱難を憂え、祖宗の志慮を仰ぎ観て、節倹の言葉を実践し、供輸の困窮を思いやってください。」

学術についての進言

天子が経学に精を励んでいた頃、公と天子は左氏春秋について論じ、その帰結を窮め尽くした。天子は「胡安国の最近の政論は極めて良い」と言うと、公は「安国は経学・行いともに素より高く、治体にも達しています。朱震もまたこの学に深く通じています」と答えた。天子はこれを召して問い、さらに公に人材を訪ねると、公は徐俯・曽開・程俱・范冲を推薦した。皆当時の名流であった。

和議成立時の建言

紹興十二年(1142年)和議が成った際、公は入見して「陛下は太母(母后)を上に念じ、生民のことを俯憂し、甘んじて身を屈し力めて和議を主張され、ついに強悍な敵の心を革めさせ聖なる望みに従わせました。願わくは陛下、今日をもって以前よりよくなったと考えて休息すべきとせず、なお聖心を加えていただきたい」と述べた。さらに「今日、祖宗の故地はまだ復せず、父兄の深讐はまだ雪がれていません。どうして急に休兵偃武の計を立ててよいでしょうか。願わくは陛下、志を厲まし続けていただきたい」と述べた。

土木の費用についての諫言

景霊宮での朝献の後、公は「土木の工事は人を労し財を費やし、営造の過ちは禍敗をもたらします。近日の景霊宮と外殿の工事は誠にやめるべきです。臣はこの他一切禁止することを願います」と述べた。

論語研究とその影響

公は論語を酷く好み、精思をこらして見解を疏き二冊にまとめた。練唐の洪先興祖は早くからこの書を研究し、疑問を解いていた二十年間、公の説を得るとすぐにこれに序を寄せその編首に置いた。その序に「孝弟の本原を養い、忠恕が一つでないことを明らかにし、孔子の一貫(一以貫之)の教えに感発し、周公の四つの言葉に涙を流す」とあり、この類のことは古今の学者もなかなか到達できないものであった。公はこの書を忘れず、ますます行き渡らせようとした。尚書郎の魏安行が京西路を漕運する際にこれを板木に刻んで流伝させた。ある者がこれを秦檜に示すと、檜は怒って「伯㝢の著書は暗に私を謗るものであり、後世はその言葉を是として、私を何者だと議するだろうか。洪先・魏安行はどうしてこれに序を寄せ板木に刻んだりできようか」と言い、言者に洪先・魏安行の官を剥奪するよう論じさせた。南台の符(御史台の命令書)は京西路に下り、書を捜索させ板木を焼かせた。