宋名臣言行錄別集上卷三十六 王大寶

出自と経歴

王大寶、字は元龜。先祖は温陵の人で、のち潮州に移り住んだ。舎選により礼部の試験を受け、建炎戊申年(1128年)の龍飛榜(進士)第二名で登第。南雄の教官に任じられたが病により百日で辞任。紹興初年、樞密院計議に任じられ、五年(1135年)には諸王宮教に任じられたが赴任前に辞めた。八年(1138年)、登聞院を監督し、のち崇道観の祠禄を得て閑居すること八年。連州の知事、袁州の知事を歴任し、司業兼崇政説書に任じられ、召されて敷文閣直学士として温州の知事となった。三十年(1160年)、福建憲司の職を経て祠禄を得て家居すること数年、広東憲司を経て礼部侍郎に任じられ、十日余りで右諫議大夫を試み、一月余りで侍講を兼ね、兵部侍郎を試みたが外任を強く求め、敷文閣直学士として興国宮の提挙となった。乾道改元(1165年)、召されて致仕を取り消され礼部尚書を試みたが二か月足らずで罷免され、祠禄を求めたが弾劾する者があり職を落とすよう求められたが許されなかった。乾道六年(1170年)四月、薨去。享年七十七。

趙鼎との交わり

丞相趙鼎が温陵の知事から潮州に左遷された際、王大寶はこれに従って学び、日々論語を講じ論じた。趙鼎は喜んで「元龜よ、かつて鼓院を監督していて祠禄を求めたのは、望むところがあったのではないか」と言うと、王大寶は謝して「あえてそのようなことはありません」と答えた。趙鼎は「お前を讒言する者がいたためにこの命があった。お前の文章・学識・実直さは廷臣に並ぶ者がない。なぜこのような誣告を受けねばならないのか。しかも私がここに来てから、平時に推薦した人々で訪ねてくる者はいなかったのに、お前だけが来てくれた。賢者でなければこうできようか。私が間違っていた」と述べ、さらに讒言した者の名を知りたいかと問うたが、王大寶は「知りたくありません」と答えた。趙鼎はますます感嘆した。

連州にて張浚の子を教える

連州の知事となったとき、張魏公(張浚)は左遷されてこの州にいたが、その子の張栻を王大寶のもとに学ばせた。紹興戊午年(1138年)、党議が盛んになり、張浚・趙鼎の門客が絶え間なく貶斥される中、人々は息をひそめていたが、王大寶だけは泰然としていた。州の財政が窮乏し張浚の俸給が滞ったとき、王大寶は経制銭でこれを支給した。張浚が驚いて「私のためにお前に迷惑をかけては」と言うと、王大寶は「得るも失うも天命です」と答え、張浚は嘆息した。

袁州にて沈清臣を厚遇

袁州の知事のとき、宗丞の沈清臣が和議を非難して時の宰相の怒りを買い沅州へ左遷される道中、袁州を通った。王大寶は「私と同年の進士だ」と言って数日引き留めた。役人が「丞相の怒りに触れることを恐れます」と告げたが、王大寶は笑って答えなかった。

周易證義の進呈

かつて著した『周易證義』六巻を改めてまとめ、朝廷に表を添えて進呈した。皇帝は宰相の王某に対し、進呈された書は経義の趣旨を深く得ていると評した。

孝宗がまだ皇太子であった頃の進言

孝宗がまだ皇太子であった頃、王大寶は講筵で「陛下はまだ壮年でいらっしゃり、儲君(皇太子)を立てる事は軽々しく議論できませんが、皇族の近親で徳を積んでいる方が藩に久しくおられます。願わくは英断をもって王に立てるべき者を選び、王爵を授けて内外の人望を繋ぎとめられますように」と奏上した。読み終えると天子の言葉は温かく穏やかで、王大寶は「陛下が直言をお受け入れになったことは、古来にも稀なことです」と喜んだ。

孝宗即位翌年の進言

孝宗が即位した翌年、王大寶は「漢の高祖が基を開き、孝文帝が節倹をもって身を処したことで天下は淳厚に帰しました。唐の高祖が基業を創め、太宗が仁義を行ったことで天下は富庶に帰しました。願わくは大臣に詔して質朴を尊ばせ、無用の費えを省かせれば、淳厚・富庶の風俗が今の世に再現されるでしょう」と奏上した。

恢復と国是についての進言

また「艱難このかた、和戦の議論が根拠なく浮動しております。陛下が即位されてより四方は恢復を待ち望んでおりますが、国是がいまだ定まっておりません。願わくは国是を断固として定められれば、内外の力が一致して事は成るでしょう」と述べた。

即位当初の心得についての進言

「即位の当初にあたっては、祖宗が積み重ねた基を念じ、河朔の民が陥溺している苦しみを痛み、奸臣・蠹吏の積弊を革め、緝熙光明の聖学に篤く努め、内外を戒め節倹を崇び、盗賊を厳しく取り締まって国の根本を固めるべきです」と述べた。まもなく侍講に任じられ、皇帝は「太上皇が卿は易学に深く通じていると言われたので、この任命がある」と述べた。

張浚の北伐に際しての進言

張浚が都督として出師した際、王大寶は力を尽くしてその議を支持し、国力を強め用を足す策を十のうち六七を上奏したが、まもなく軍は潰えて帰還し、世論は騒然となった。王大寶はますます強く持論を主張し、「近ごろ宿州から退いて守りを固めたことについて、議論が紛紜として危疑の情が交錯し虚実も分かりません。もし果断と重厚さがなければ、どうして人心を鎮め横議を止められましょうか」と進言した。

官途と最期

在官の間は心力を尽くし、知る限り言わないことはなかった。仕官してから四十三年、実際に官にあったのはわずか七年、閑居していた間、権要の者で自分を知る者にも一切連絡を取らなかった。病篤くなったとき、ふと嘆いて「大恩に未だ報いていない。中原の民はいまも宋を戴きながら、その情を忘れてはいない。歳月をいたずらに過ごせば、恢復の期は日月をもって望めまいと恐れる」と言い、言い終えて息を引き取った。