宋名臣言行錄別集上卷三十三 權邦彥
出自と経歴
權邦彥、字は朝美。河間の人。崇寧四年(1105年)上舎及第を賜り、青州の教官を授けられた。睦親宅・西宅を歴任し、太学博士となり、司業に改まった。契丹への使者となって帰国後、集撰に任じられ易州知事となった。欽宗即位後、左司に召され、靖康初年、宗正少卿に改まり、直徽猷閣に任じられて冀州知事となった。まもなく天章閣待制に任じられ東平知事に改まった。建炎三年(1129年)、宝文閣学士として江州知事となり、翌年建康知事に改まり、さらに淮南江浙荊湖等路制置発運使に改まった。紹興初年、朝廷に入り兵部尚書兼侍読となり、翌年僉枢密院事に任じられ、まもなく参知政事を権知した。紹興三年(1133年)、在職のまま薨去した。享年五十四。正議大夫を贈られた。
学問への志
公の家は儒学を三代にわたって伝え、幼少より嶷然として成人のようであった。七歳で毛詩の講義を聞き、退いてその大義を家人に説明できるほどであった。これより力を尽くして学び、寝食寒暑を忘れるほどであった。十三歳で郡学に入ると頭角を現し、公の父の友人である禄公が公を見て「まことに名家の駒である。真に一日千里を行く才だ」と称賛した。
契丹への使者としての気概
太学博士であった頃、徽宗が学校に行幸し、幄を堂上に設けて諸生を引見した。公に「下武」の詩を講じるよう命じ、天理を明快に語ると天顔は大いに喜び、恩賜を賜った。ここに天子は公を用いる意向を抱いたが、王黼は公が異議を唱えていたことを恨み、これに報いようと契丹への国主への使者として派遣し、責めて双跪の礼を強いさせようとした。公は「これは南朝の礼ではない」と言い、行人の身であってもあえてこの命を承らなかった。契丹は結局公の志を奪うことができなかった。
冀州知事への赴任
冀州知事に任じられ辞行に赴いた際、欽宗は公を励まして「兵は北方より起こり、士大夫は皆南への転任を望むが、卿だけは北への転任を望んだ。まことに国を体する者である」と述べた。道中、大名から帰る士大夫と出会い、北の異民族が兵を起こしているので行くべきでないと言われた。公は「私はこれこそ死に場所を得たのだ」と言い、直ちに馬車を進めた。
江州知事としての防衛策
江州知事であった頃、兵旅を訓練し舟を集め粟を積んで敵の侵入に備え、朝廷に武昌・襄陽に分けて兵を置くよう請い、そうすれば表裏の形勢が整い、賊は我らの隙を窺えないであろうと述べた。
発運使としての功績
発運使に任じられた際、六路の物資輸送を統括し、夕方に命を受ければ朝には道を発つほど機敏に処理した。江東・江西では怠慢な者を監督し隠匿を検め、逋れを督責し滞りを追及し、五千里余りの水陸を巡って財用を集め、行在に億万の財を集めた。詔をもって嘉奨された。
枢密院での建言
枢密院にあっては知ることをすべて言い、言うことをすべて尽くした。乗ずべき機会が三つあると論じた。「祖宗の徳沢は人心に根付いており、人心は忘れていない。王師が一たび興れば諸路が響応するであろう。これが一つ。次に、内には淮海の賊騎はすべて西北へ向かってその南方の守りを空にしており、外には林牙(契丹の官職名)らが大きな脅威となり、その北方を牽制している。これが二つ。近頃の斥候の報告によれば、虜兵は浚河の役に疲弊し、淮を守る兵は皆棒を持つだけの農夫であるという。これが三つ。譬えば囲碁において先手を争って安穏に応じ解くばかりでは、人を制することなく人に制されるようなものです。しかし淮の辺境を整理して下邳と連ね、荆漢に藩屏を築いて上流と通じ、隴蜀を見据えて建瓴の勢(高所から水を注ぐような優勢)を作って東下することも次善の策であります。」朝廷はこの次善の策を用いるにとどまった。
中興十議
中興十議を建策した。一に天下を度とし洪業を進め図り、土宇を恢復して東南に安住しないこと。二に諸将を威と爵をもって統御すること。三に講読の臣に累朝の訓典と三代・漢唐の中興故事を日々進講させ聖学を助けること。四に善を傷つけ賢を妨げる讒言、茍合する佞、恩を売り威を立てる姦、上を欺く偽りを察し、その言葉を聞きその事を察すれば忠邪は判然とすること。五に民を愛するにはまずその力を愛し、民を寛やかにするにはまずその費用を節すること。また宰執が自ら俸禄を削り国用を助けることは宰執から始めるべきこと。また閫外の大事は偏裨の任に堪えられるものではなく、必ず賢大将を得るべきこと。また制置一官は省くべきであり、沿江の州県をそれぞれ境内の防備に当たらせ、漕運と帥司がこれを総括すべきこと。荆・鄂・江・池から采石・荊口に至るまで方策を講じ、その任に足る人を得て委ねることが防秋の上策であること。また宗室の中に傑出した人望のある者がいれば、艱難を乗り越え宿衛に留めるべきこと、その人物を求めて左右に置くべきこと。また人事を尽くせば天は禍を悔い改める、そうでなければ天はまだ治世を望んでいないということであり、これをすべて天数に帰してはならないこと。
天子との問答
天子はかつて春秋三伝の異同について語った際、公は「孔子が春秋を作ったとき、子游・子夏でさえ一辞も加えることができなかった」と述べた。天子がまた「至誠をもって力行する者は、その善悪は隠しようがない」と言うと、公は「ただ天下の至誠のみが能く人を化すことができる。至誠でなければ人を動かすことはできない」と答えた。天子がまた「堯舜は道をもって天下を治めたが、それは無心にすぎない」と言うと、公は「堯舜の治道の要は九官を任命し、四凶を退けることにあった」と答え、さらに「願わくは陛下、済水を渡った時のこと、済州にあった時のことをお忘れなきように」と述べた。
人柄
公の風骨は奇偉で、胸中の度量は広く、学術と才気は人並外れていた。多くの著作は、初めは静かに何の準備もないように見えて、突然筆を揮うことが飛ぶがごとくで、文章は淀みなく、草書にも優れていた。士大夫でその門に游んだ者には、周葵・樓炤・潘良貴・呂広問・梁揚祖らがあり、皆一時の名臣となった。