宋名臣言行錄別集上卷三十三 李邴
李邴、字は漢老。済州鉅野の人(?–1146年)。北宋末より翰林学士を歴任し、苗劉の変では危難に身を挺して高宗の復位を助けた。参知政事にまで昇り、文才と大節をあわせ持つ人物として朱熹らに評された。
出自と経歴
李邴、字は漢老。済州鉅野の人。崇寧五年(1106年)進士第に登り、徳州平原県の尉となり、任期満了後は濮州鄄城県の丞となった。父の喪が明けて編修国朝会要所の文字検閲官となった。宣和初年、特に校書郎に任じられ、二年(1120年)尚書礼部員外郎に抜擢された。三年夏、起居舎人に進み、冬に中書舎人の試を受けた。五年秋、給事中に遷り、一月あまりで学士院を権直し、翌年秋には翰林学士となった。高麗の入貢に際して館伴を担い、鴻慶宮の提挙となった。宣和七年冬、徽制に任じられ越州知事となったが、職を落とされて崇福宮の主管となった。高宗即位の初年、右文殿修撰に復し、翌年兵部侍郎に召され、再び学士院を直し、建炎三年(1129年)翰林学士に任じられ、まもなく端明殿学士・同僉書枢密院事に任じられ、尚書左丞に遷った。六月、祖宗の旧制により三省の官を合わせるとの制度に従い参知政事に改まり、資政殿学士に進み、行台三省枢密院事を権知した。辞任したがなお本職を留められ洞霄宮の提挙となった。一月足らずで平江知事に起用されたが、視事すること三日で祠職を請い、兄が越州の帥として敗戦した咎により連座して職を落とされた。翌年、端明殿学士に復し、紹興初年、旧職に復した。紹興十六年(1146年)五月、泉州の居第で薨去した。享年六十二。太師を累贈され、淳熙初年に諡を文敏としたが、後に敏を改めて肅とした。
苗劉の変における活躍
天子の車駕が南に波及し杭州に駐蹕した際、苗傅・劉正彦が反乱を起こし刃を宮門に露わにした。天子は楼に登って撫諭したが、公は急いで前に進み二凶を叱責し、その凶焔はやや衰えた。また殿帥の王元に賊を撃つよう諭したが元は唯々諾々とするのみであった。公は宰相の朱勝非に策を問うたが、勝非らはなお反乱軍の間にあった。公が反復して詰問すると、人々は公を危ぶんだが、公は懼れる色を見せなかった。退いて勝非に密かに外の援兵を引き入れて賊を制するよう勧め、また傅の言うことを聞くのは正彦だけであり、正彦は王世修を謀主として頼っているので、宜陽の許世修を侍従に加えて間に立たせるべきだと述べた。〓(欠字あり)事は成らなかった。太后が垂簾政治に及んで十余日、勝非はついに事の変遷を奏し、「従官の中で朝廷を助けられる者は公と鄭瑴のみで、彼らは内で心を合わせ外で言葉を発している」と述べ、ここに公は翰林学士に任じられた。
復位運動での文章起草
張浚らの義軍が起こると、公は権直学士院の張守とともに天子復位を請う表と批答を分担して起草した。天子は朝に臨み、翌日、公に親筆の札を賜って「卿は毅然として正しい言葉で凶醜を叱り、万衆を動かした。臣下として顔向けできぬ思いである」と述べた。公の謝表にも「淮南に留まったことは平素の望みに恥じるところがあるが、笏で朱泚を撃った(段秀実の故事)ような壮んな志を厲まし、凶悪な謀反人を詰責し、禁衛を激励し、復辟を成し得たのは実に密かな謀にあずかったからである。決して孤忠を出て後福を求めたものではない」と記した。当時これは実録と称された。
天子が復位した際、大赦の詔を発した。公が草した赦文には「鼇を断って極を立て、開闢の功が成る。日を取って授かるように、神明が正しく四方を照らす」とあり、人々は皆これを誦した。
学識と人格
公は天資が高明で学問の蓄積深く、若くして清要の職を歴任し文士として名を称えられていた。突如として国難に遭っても大節が凛然として揺るがず、廊廟の器であった。かつて詔を奉じて平江での勤王および奏請の始終を編纂し、礼部に付したが、公はこれを提出すると同時に元の文書を蔵に納めた。後に泉南からその文書を朝廷に納めるに至り、子孫は初めて一時の定計が公の手による草稿であったことを知った。公と朱丞相(朱勝非)の手によるもので、他の執政は名前を著し押印しただけであった。参政を罷めてから十七年、当時の宰相を避けて再び出仕せず、読書と作文を病中でも怠らなかった。後進を招き入れ教え導くことに倦まず、人の善を称え、その欠点を覆い隠した。もし親旧の行いが至らぬところがあれば、繰り返し質問して正道に戻した。奉養は質素にし、宗族を援助した。家を治めることは厳しくも寛容であった。常に徐孺子・申屠子龍・陶淵明の人柄を愛した。晩年は世俗を離れ、道を深く極めた。孔子の言う「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」とはまさに公のことである。
周益公の評
周益公(周必大)は言った。「済水は兖州と徐州を貫き、いにしえの九州の二つに位置する。四瀆の中で天地の質信寛徐の気を得ており、その沢は十藪の首と称される。麗しく照り輝く才は今この公に見出せる。初めは淵源の学と重厚な文をもって王度を飾り、中頃は剛大の気をもって危難を扶け、晩年は超卓の見識をもって安を保った。まさに『間生の賢』と呼ぶべき人物である。」
朱文公の序
朱文公(朱熹)は公の文集の序で言った。「士君子がこの世に立つのは、名を得ることが難しいのではなく実を得ることが難しく、小事において難しいのではなく大事において難しい。ゆえに私は常に公の文に深く感ずるところがあり、世が公を知ることのあまりに浅いことを憂えてきた。宋が興ってから百有余年、代々の聖君が引き継ぎ、専ら文治を重んじ、その盛んなることは崇寧・大観・政和・宣和の間に極まった。当時の学士大夫は筆を執って文字の巧みさを競い合い、太平を歌い治具を飾り立て、金石が互いに奏で音律を交わすように様々な作品が並び出て、その優劣をつけがたいほどであった。公はその中で傑出した才をもって悠然と居り、大詔令を発し大牋奏を草し、豊かで力強く、精緻優美な文はいよいよ湧き出て尽きることなく、まさに衆俊の口を塞ぎその気勢を奪うほどであった。これだけでもすでに希有なことである。しかし、もし公が拠って立つのがこの文才のみで実がなければ、あるいは小さな謹厳さのみを規規として世俗の耳目に投じても、その大なるところに称賛すべきものがなければ、一世に名を成し無窮に伝えるに足りなかったであろう。ところが公は天子の車駕に従って臨安に扈従し、たまたま己酉三月五日の変(苗劉の変)に遭った。この時、突如として意表を突く事件が起こり、諸公は驚き呆れて何をなすべきか分からなかった中、公独り身を挺して危難に赴き、毅然として凶悪な首謀者の言葉を折り、大義をもって諭した。退いては密かに宰府を助け、逆党を離間させ、正しい天子の復位を計る策をことごとく尽くした。それゆえ賊を平らげた功は外の力による部分もあったとはいえ、太上皇(高宗)は公の忠を察し、まず尚書左丞に抜擢し、さらに手札を賜って『万衆動色具臣靦顔』の語を記した。ああ、天地の間、理義の実として君臣の際より大なるものはない。しかし公はこの時、股肱の力を尽くして成功を成し遂げた。その拠って立つところは、単に文をもってのみではなかったのである。それでいて功成りて驕らず、退いて江海のほとりで老い、門を閉ざして終日、以前のことを一切語らなかった。その子弟に語る言葉すら常に控えめで、なお足らざるところがあるかのようであった。ゆえに世の君子はこれを知る者が少なかった。考証し確実に知り得るのは、ただ聖なる謨と天子の直筆によってであり、日月のように輝いている。ゆえに天下の公論は久しくして初めて定まったのである。これから見れば、世に文字のみで公を知る者は、なんと浅薄なことか。」