宋名臣言行錄別集上卷三十三 張守

張守、字は全真、一字は子固。晋陵の人。監察御史から身を起こし、南宋初期に参知政事にまで昇った重臣。兵制の弊や淮防・渡江の策、賞罰の当否など軍政の建言を重ね、建康を都とすべしと主張したことでも知られる。

年表(8件)

出自と経歴

張守、字は全真、一字は子固。晋陵の人。進士第に及第し、久しく外任を歴任した後に監察御史となった。父母の喪に服し、建炎初年、監察御史に任じられた。二年(1128年)侍御史に任じられ、三年起居郎に遷り、中書舎人に転じ、御史中丞に遷った。六月、礼部侍郎に任じられ、翰林に入って学士となり、端明殿大学士同僉書枢密院事に任じられた。建炎四年、参知政事に任じられ、紹興初年、資政殿学士に任じられ洞霄宮を提挙した。紹興六年(1136年)、資政殿大学士参知政事兼枢密院事に任じられ、紹興八年、再び洞霄宮を領した。

兵制の弊についての建言

公は「本朝の兵は高俅・童貫からこれを壊し、勧奨・抑制の法が廃れ、驕り怠る風潮が生まれた。ひとたび出戍すれば逃亡し、敵に遭えば潰走する。小さくは武器を持って掠奪して溜飲を下げ、大きくは将を殺して城に立てこもって叛く。天下に用いるべき兵はほとんどいない」と論じた。

淮防・渡江の六事と四路防衛論

公は淮を防ぎ江を渡る六事を上奏し、おおむね遠く斥候を出して情報を探ることを第一とした。別に金が淮甸を犯す道が四つあると論じた。「一つは中路。西京から東京へ趣き汴河に沿って天長に至る、これは大軍が通る道であり、一千七百八十里、控え扼守すべきは南京・宿・泗・天長である。一つは東路。滄・濱から京東を経て淮陽軍に至り淮を絶って楚州に至る、北から南への大路であり、一千九百里、控え扼守すべきは青・沂・淮陽・楚である。一つは西路。西京から潁昌・蔡州・順昌府・廬・滁・真州に至る、西北から東南への路であり、一千八百十五里、控え扼守すべきは順昌・廬・滁・真である。一つは上流。西京・潁昌・唐州から襄陽に至る、一千十里、襄江を渡って荆南に至れば一千二百九十五里、西京・潁昌・蔡・光州から黄州に至れば一千三百六十里、いずれも江に沿って下ることができる。控え扼守すべきは襄陽・荊南・蘄・黄で、江北には漢陽・蘄・和・黄・滁・真州、江南には岳・鄂・興国・江・池・太平州がある。四路の中にも要害があり、中路は泗州が淮に拠り天長が険に拠って防ぐことができる。東路は青州が木陵岡に拠り楚州が淮陰に拠って防ぐことができる。西路は廬・寿で防ぐことができる。上流は襄陽・荊南・蘄・黄で防ぐことができる。もし流れに沿って下るならば、沿江の諸州が各々地の利をもって臨み、共に守れば防ぎうるであろう。」願わくは大臣に詔し、四路の守倅・帥臣を選び、能否を判じて緡銭を賜り、戦士を募らせ芻粟を蓄え、甲兵を修め、斥候を明らかにして、賞罰を明確にし、進めば互いに援け退けば互いに保ち、日夜力を尽くして敵を防がせるべきとし、また詔して大臣にただ将を選び兵を治めることを急務とさせ、細事は都司に任せるべきと再度上疏した。汪伯彦・黄潜善はこれを喜ばず、公を京城への慰撫使として派遣させようとした。公は即日出発した。

遷都反対論

呂頤浩が中原の民を東南に移すことを建議した際、公と滕康はいずれも不可と主張した。公は「東南は今日の根本である」と言い、滕康は公に「我らは死をもってこれを争うべきである」と語った。

賞罰の当否についての建言

「賞が功に相応しなければ功なき者が進み、功があっても賞を得られなければ功ある者が沮喪する。近年、兵は命令に従わず風を望んで逃げ去るのは、皆賞罰が当を得ないことに起因する。朝廷はただ上申された功状の等差に頼って爵位の軽重を定めているが、ひとたび失当があれば怨みは朝廷に帰し、部下は心を離す。臣は出軍の際、主将に軍籍を別に立てさせ、大将から属官・偏裨・隊伍に至るまで各々姓名を列し、空白の紙を留めて功績を記させ、その総数を朝廷が印を押して主将に給付し、何月何日に何級を獲得し、何月何日に何人を捕虜にしたなどとその都度籍に記し、勲を定める際に保奏の状とともに朝廷に上申させ、朝廷はその実を参考にして行うべきです。そうすれば濫りに冒す弊害の十のうち六七は去るでしょう。」

諫言を聞く難しさについての論

「言を聞く難しさは古来の患いである。伊尹は太甲に語って『心に逆らう言葉は必ず道に照らして求め、志に順う言葉は必ず道でないものとして求めるべし』と言った。逆心の言葉は必ずしも道に合致するわけではないが、人主の向かうところに逆らって言い、志が諫争にあるならば、多くは逆らうものとなろう。まさに道をもってこれを求めるべきである。遜志の言葉は必ずしも道に違うわけではないが、人主の向かうところを窺って言い、志が容悦にあるならば、多くは順うものとなろう。まさに非道をもってこれを求めるべきである。従うか違うかによって禍福成敗は手のひらを返すように変わる。大抵、人心は順を喜び逆を悪む。遜志の言葉は入りやすく、逆心の言葉は行われにくい。人主が常情の悪むところにおいて是を求め、常情の喜ぶところにおいて非を求めることができれば、その知恵は衆人の上に出て、群言に惑わされることはなくなる。君子と小人の情状は、皆この吾が心の逆順の間において知ることができる。なんと簡単で容易なことか。まして逆心の言葉は多くとも勝てないことが多く、遜志の一言はなおさら見過ごしにできない。」

修徳の疏

公はかつて修徳の説を上疏すること二度に及んだ。「願わくは陛下、宮室の安らぎに処するときは二帝(徽宗・欽宗)・母后の穹廬毳幕の住まいを思い、膳羞の奉仕を受けるときは二帝・母后の羶肉酪漿の味を思い、細やかで暖かな衣を着るときは二帝・母后の窮辺絶塞の苦しみを思い、予奪の権を握るときは二帝・母后が人に制せられている語言動作を思い、嬪御の楽しみを享けるときは二帝・母后を誰が使令するのかを思い、臣下の朝に対するときは二帝・母后を誰が尊礼するのかを思われますように。」

福州知事としての善政

公が福州知事となった際、天子は「福建は盗賊の後、まさに疲弊した民を慰撫すべきであり、公の任用がふさわしい」と述べた。もとより偽閩(閩の僭王朝)は八州の産を三等に分け、膏腴の地は僧寺・道観に給し、中下の地は土着者・流寓の者に給する制度をとっていたが、劉夔が福州を守ってから貿易によって資を取るようになった。公は士大夫と謀って実封の制を立て、上等の四十余の刹を高僧のために留め、その他はすべて実封として銭多き者に与えることとした。年収は七、八千緡を下らず、軍の衣食を助け、百姓の雑税を寛やかにした。当時、これを人々は便利とした。

措置軍旅・措置糧食の議

「陛下の詔された四事のうち、急務は措置に劣らぬものはございません。臣が措置の大略を申し上げましょう。一に軍旅の措置、二に糧食の措置であります。軍旅の措置とはどういうことでしょうか。神武中軍は専ら行在を衛るべきであり、その他の軍を三路に分けて戍らせるべきです。一軍を淮東に、一軍を淮西に、一軍を鄂岳あるいは荊南のいずれかに、要害の地を選んで駐屯させれば、北は関輔に、西は川陝に及ぶまで血脈が通じ号令が届き、唇歯輔車の勢いを持てば、江の南は枕を高くして眠ることができましょう。しかし今の大将は皆重兵を握り、貴極まり富溢れ、進んでも禄利の望みなく退いても誅罰の憂いがないため、朝廷の勢いは日々削られ、将兵の権は日々増しております。もし大将のいずれかが病を称して罷免を求めたり、あるいは急死したりすれば、統率していた兵はどうなるのでしょうか。臣は麾下の将を抜擢して統制とし、各将は五千人を超えぬようにし、四路に碁盤のごとく配置し、朝廷の号令が直接その軍に届くようにし、分合の使令はすべて朝廷の権によって行われるようにすべきと考えます。そうしてこそ有為の政治ができましょう。糧食の措置とはどういうことでしょうか。諸軍がすでに諸路に分屯すれば、患うところは銭穀であります。しかしその費用の多寡は彼処であれ此処であれ同じであり、患うのは輸送であります。祖宗以来、毎年上供する六百余万斛はすべて東南から出ておりますが、輸送は困難であったことはございませんでした。今、両浙の粟を専ら行在に供し、江東の粟を淮東に餉し、江西の粟を淮西に餉し、荊湖の粟を鄂岳・荊南に餉し、量に応じて必要な分は漕臣に運送させ、余りを行在に帰させるべきです。銭帛もまた同様にすれば、不足の憂いには至らないでしょう。銭糧が乏しくならなければ、諸将に州県の民を侵し擾すことのないよう戒め、復業した民の戸口の多寡を諸将の殿最(成績評価)とし、毎年官を派遣してその実を調べさせ昇黜すれば、民は郷里に戻ることができ、田野は日々開かれ人口は日々増え、江北の州県には興復の兆しが見えるようになりましょう。このように措置を定め、防秋に至って再び大臣を統督のために派遣すれば、諸路の兵は首尾相応じ、綏懐(外を安撫する)の略もここにあります。」

さらに述べた。「今日の先務が六つあり、夷狄はその中に含まれません。そもそも夷狄が服従していないのは、まず自らを治めることが先だからです。一に国を立てること、二に言葉を察すること、三に賢を任じること、四に能を使うこと、五に僥倖を抑えること、六に朋党を破ることであります。」

秦檜への警戒の言

公が参知政事となった張浚と、ある盛夏の日、東閣に座していると公が突然入り込み、その手を執って「私はかつて秦檜には旧い徳があると申しましたが、今、同列としてその人物をよくよく考えると、以前とは異なるようです。晩節を守れず、失うことを恐れる心があります。これは天下の深い憂いとなるでしょう」と言った。これは枢密使であった秦檜を指していた。張浚もこれをもっともだと考えた。

建康を都とすべしとの主張

天子が臨安に戻ろうとした際、公は「建康は六朝以来帝王の都であり、江流は険阻で気象は雄偉であり、しかも要地に拠って中原を経略し、険阻に拠って強敵を防ぐことができる。別都とすべきであり、恢復を図ることができる」と、天子と対面するたびに述べた。天子が東への行幸を詔しようとした際、公は趙鼎と都省で議論したが合わず、さらに朝廷で議論しようとした。天子が公を顧みて「どうか」と問うと、公は「昨日、都省ですでに趙鼎と話し合いました。陛下が建康にお着きになってからまだ座が暖まる間もないのに、また巡幸するとなれば、百司六軍は勤労の苦しみを受け、民力・国用は煩費の憂いを負うことになります。願わくは少しの間ここに安んじて、中原の民心をつなぎ止めていただきたい」と述べた。趙鼎はなお不可としたため、公は病を理由に辞去を求め、婺州知事として出た。