宋名臣言行錄續集卷三十二 吕祉
呂祉、字は安老。建州建陽の人(?–1137年)。地方官・言官を経て南宋の重臣となり、建康知事・淮南宣撫参謀として長江防衛の戦略を主導した。兵部尚書に任じられたが、酈瓊の叛乱に際し節を守って従わず殺害された。
出自と経歴
呂祉、字は安老。建州建陽の人。宣和三年(1121年)上舎の試に合格し、信陽県主簿となったが赴任前に学官に転じ、鄧州の教官に改まった。建炎初年、審察の職に召され、詳定一司删定敕令司に任ぜられ、翌年勅令の書が成って賞を受け官秩を進めた。鼓院の監督となり、右正言に任じられて明州の副知事に転じ、祠禄を求めて辞した。紹興初年、湖南憲となり、まもなく秘閣直学士に任じられ、淮南宣撫参謀に召された。直徽猷閣を授けられたが辞して赴かず、直龍図閣に改めて建康知事に任じられた。督府参謀に任ぜられ、紹興五年(1135年)検正に召され、八月に兵部侍郎権知・戸部侍郎権知を兼ね、十一月に給事中兼刑部侍郎督府参謀に任じられた。紹興六年七月、吏部侍郎に遷り、紹興七年、兵部尚書に任じられ参議を兼ねたが、酈瓊の叛乱の際に節を守って従わず、殺害された。享年四十六。慶元年間、廟額を賜った。
高宗への上奏(創業と乱の平定)
上奏して言った。「いにしえより乱を撥むのは創業と同じであります。創業の君である漢の高祖・唐の太宗がその例です。漢の高祖は蕭何に会計簿と兵糧を任せ、張良に幕中で謀を巡らせ、韓信には兵を握らせて外に置きました。唐の太宗の頃は房玄齢が謀り杜如晦が決断し、王珪・魏徴が議論をなし、李靖・李勣が兵に長けて各々その力を尽くしました。願わくは陛下、高祖の大度を広め、太宗の英断に則り、執政の大臣にその長ずるところを問い任用し、漢唐の諸臣のように心を一つにして力を合わせ、艱難を乗り越えられますように。」
また言った。「いにしえより天下を得るのは人心が一致するによるものであり、天下を失うのは人心が離れるによるものです。王黼・蔡京が権を用いてから、異同の論が起こり、士大夫は雷同して従い、声に随って是非を唱え、朋党の風が盛んとなり、廉恥の道が失われました。願わくは詔を下して徳意を宣べ、士気を鼓舞し、正しい道を開いて私門を塞げば、中興の業は成し遂げられましょう。」
大臣人事に関する諫言
御史中丞の張守が張浚を西へ遣わすべきでないと論じ、呂頤浩は専断で任じるのが難しいと言われ、礼部侍郎に転じさせられた。侍御史の王庭秀もまた頤浩の人事が不公平であると論じて職を罷免され地方に出された。公は上奏して言った。「陛下は大臣を信任して治を図るために、あれこれと配慮なさっているのは善いことです。しかし今日、大臣を論ずる一言のために言官を左遷し、明日また大臣を論ずる一言のために言官を罷めれば、後日、大臣の行いに失当があっても、誰があえて言うでしょうか。願わくは聖慮を加え、両全を図って公議に合わせられますように。」
治世の要諦
致治の要は聡明を根本とするものであると論じ、「これを善く養えば聡明は日々に益し天下はその福を被る。善く養わなければ聡明は日々に損なわれ天下はその禍を受ける。養う道は、聡明に益あるものはこれを行い、損なうものはこれを去るにある」と述べた。
淮南宣撫参謀としての建言
公は淮南宣撫参謀に任じられ、赴任前に上言した。「今、淮甸に兵を屯しても、表裏一体であるべきなのに上下がつながっていない。まるで人の四肢が備わっていないようなものです。今日、荊楚の地には兵を宿して上流の勢を固めねばなりません。」上はその言を納れ、折しも江東の帥を求めていたため、公が任じられた。建康は南渡以来、前執政や侍従の者が帥となるのが常であり、この時初めて公にこの任が与えられた。公は着任すると内殿での対面において、まず治道の要として、まず自らを治めてから人を治めること、兵家の法として、まず勝てぬ体制を築いてから敵の勝てる隙を待つべきことを論じた。十事を条書きにした。一に形勢、二に軍政、三に守将、四に屯田、五に通貨、六に省費、七に謹賞、八に民兵、九に斥堠、十に間諜である。
防衛の要害地についての建言
「金がもし洛陽・孟津から黄河を渡って陳・蔡に入れば寿春が要害である。もし京東から淮陽に入れば宿・泗・濠が要害である。もし武関から襄・鄧を経て流れに沿って下れば武昌・九江が要害である。武昌・九江には水軍・戦艦の措置を沿江に別途備えるべき他、諸道の要害には固く守りを備えるべきである。金は多く詐謀奇計を用いる。去年、范瓊・世忠が一路のみを進んだところ、すでに敵の予測通りとなり、彼らは我が軍の近くに虚寨を設けて疑兵を置き、輕騎を間道で日に数百里進ませて我らの目を眩まし、風を望んで潰走させた後に大軍で襲うのが常道である。これを監視し予め備えるべきであり、軽騎を撃ってその鋭気を挫けば敵は自ずと退くであろう。」
「西北は山河を険とするゆえ山河の表裏に留意すべきであり、東南は長江を険とするゆえ長江の表裏に留意すべきである。建炎已酉の年以来、長江の表裏は敵騎に蹂躙されるか賊馬に焼き払われるかであった。年々各地に軍馬があるとはいえ、上下がつながらず往来が不定であり、東南の統一を保つ道ではない。」
「臣は考えます。関中は天下の上流であり、江左は下流であります。上下の勢いはあたかも首と尾のようであり、その中間の気脈は必ずつながっていなければなりません。今どうして一処だけを断絶させてよいでしょうか。もし関陝の回復を図るならば、必ず四川・襄陽・荊南・武昌・九江・池陽・太平・建康・鎮江を固めねばなりません。これらは皆沿江の地であります。将を命じて兵を分けて戍守させ、互いに支え合うようにすれば、共に王室を助け、磐石の固さを得られましょう。」
建康での防衛体制構築
公は建康を治めるにあたり、まず威をもって鎮圧し、次に恵政をもって民を慰撫した。軍民は畏敬し慕った。幕僚の文士とともに古今の防守事跡を研究し、東南利害総論・江流上下論・江淮表裏論・建康根本論の四篇を著し、図を添えて朝廷に献上した。これは内外の状況を尽くさず余さず陳述し、規模と形勢を具体的に述べたものである。
この年冬、淮上に警報があり江左が戒厳となったが、韓世忠だけが精鋭を高郵に置いていた。虜は漣水を陥落させ、続いて山陽を破り、さらに旴〓を破って成州を犯した。公は上言して世忠への援軍を派遣すべきと言ったが、援軍は至らず世忠は退いて鎮江を保った。公は再び上言し、「江北を度外に置くのは、朝廷が帥を任じ両淮を宣撫した本意ではない」とし、さらに守禦の利害を極言した。「たとえ緊急に諸将を派遣するとしても、願わくは天子自ら六軍を率いて出御されるべきであり、そうすれば上下が心を合わせ、戦わずして勝てるでしょう。」ここに親征の詔が下り、天子は平江に幸したが、金軍はすでに逃げ去っていた。すべて公の策の通りとなり、人々はこれを心服した。
水軍の重要性についての建言
「北人が南方で志を得られず、南方が国を保てるのは、ひとえに水軍・戦艦に頼るからです。多くは江南の白丁を用い、我らの長ずるところをもって彼らの短ずるところを攻めるのです。水戦には舟を用い、陸戦には騎兵を用います。舟は舟師であり南人の長ずるところ、騎は騎士であり北人の長ずるところです。水戦に舟なく、陸戦に騎なきに等しく、舟師に北人を用い騎士に南人を用いるのは、いずれもその長ずるところではありません。云々。今、中原は失われ、天子は呉会に駐蹕し、諸将の重兵は江北に屯せず江南に屯するのは、ただ長江の一水の隔てを恃むばかりで、江の要害の地で奇策をもって勝ちを制することを考えず、ただ敵が岸に上がるのを待って撃とうとするだけです。それでは敵がすでに険を得れば必死の志を抱くことを知りません。これは杜充の軍が戦わずして潰えたゆえんです。今、沿江上下の要害の地にも自ずと数があり、もし各々自ら治めて遠く斥候を明らかにすれば、胡馬は再び南に向かうことはないでしょう。」
戸部侍郎としての財政論
時論は公を疏通練達と評し、戸部侍郎を兼権するよう命じられた。公は言った。「財は国家の先務であります。今、一年の収入は一年の支出を賄うに足りません。臣が憂えるところですが、方策は三つあります。一に節、二に為(財源を興すこと)、三に得人であります。今日の支出は多岐にわたり、節すべからざるものもあれば節すべきものもあります。今日の利源は廃れ壊れたもので為すべからざるものもあれば為すべきものもあります。朝廷から地方に至るまで官吏は甚だ多いですが、ただ人材を得てこそ政が挙がり、姦は容れられず、利は公上に帰します。ゆえに節すべきを節し、為すべきを為せば、財の不足を憂える必要はありません。」
さらに上奏した。「国家は東南数路の税のみを頼りに兵を養っています。限りある財をもって際限なき費用に供せねばなりません。まさに利害を講求すべきですが、今日の財用はすべて民力から出ており、県令こそ民に最も近い官であります。県令に人を得れば一県が足り、太守に人を得れば一郡が足り、漕運の官に人を得れば一路が足り、諸路が足りれば朝廷は足ります。」
学術(道学)をめぐる建言
当時、大臣は程氏(程頤)の学を喜んだが、真偽を見分けられず勢利を尚ぶ者が多かったため、群小はこぞって趨り、風俗はいよいよ乱れた。臣僚がその弊害を論じ、詔して学者を戒めることとなった。公は上奏した。「程頤の学は中庸に基づき、徳に入る要とし、君子の中庸にして時に中るを重んじます。靖康以来、その学はやや広まりましたが、その徒である楊時が急に要職に近づくと、小人はこれを羨み慕い、巾服を変えて互いに引き立て合い『これぞ伊川の学だ』と自称します。正しい道を憎み妨げる者を排斥しようとするときは『あれは王氏(王安石)の学であり我らの徒ではない』と言います。しかしいわゆる伊川の学を為すと自称する輩は、多くが節操ある士ではなく、その行いを調べれば市井の者もしないようなことをする者もあります。これはまさに小人の中庸、忌憚なき者であります。臣僚が論じたことは道理に切実であり、内外がこもごも喜び、聖なる訓えありと称えられました。今後、学者が向かうべき道に迷わなければ、道術は裂けたところから再び合わさるでしょう。」
江淮の軍事と諸将の督戦
天子は公の謀慮が精密であると知り、韓世忠・張浚・劉光世に楚・泗・廬州に屯せしめ、公の計を用いて建康への行幸を計画したが、天子が平江に至ったとき、劉麟・劉猊が数十万の兵を率いて二路に分かれて侵入し、その凶焔は甚だ盛んであった。劉光世は退いて当塗を保ち、韓世忠は淮北を過ぎて久しくして山陽に退いた。ここに執政大臣は皆、天子に臨安への帰還を請い、諸将に江を守り海を防ぐことを求めた。公独り異議を唱え、士気を振るえば賊の鋒は挫けると榻前で再三力争した。天子の意はついに翻り、公の策を用いることとなったが、執政はなお進言を続け、「もし誤って国を損なうことがあれば、たとえ晁錯を斬って天下に謝しても及ばぬであろう」と言った。天子の判断は揺るがず、まもなく公を派遣して江上で軍を視察させ、劉光世の軍中に馳せ入りその進戦を督励させた。光世はなお躊躇して直ちに動かなかったが、公は再びその利害を説き、その将佐たちにも意を明らかにさせたので、ようやく皆江を渡って賊を撃つ計に従った。この時、天子は呉門に駐蹕しており、都督府は光世に頼りきれないと考えて殿前の楊沂中を泗州に遣わし張浚と合流させた。光世は王徳に進軍させ劉麟の兵に遭遇してこれを破り、翌日また破った。王徳は再び勝利を得て士気は振るい、皆奮って敵に向かった。張浚は楊沂中・張宗顔らを進めさせ、劉猊・劉麟は敗走した。中興以来、賊を破る功でこれほど盛んなものはなかった。
江防の三段構えの論
「長江の険は固く守るべきであり、守江の策には三段階があります。江の北に出る諸江河口が一つ、江中の諸洲渚が二つ目、江の南の諸口岸が三つ目です。近年、守江は皆江の南の諸口岸のみに兵を屯していますが、江の北に出る諸江河口を守らなければ、賊船は江に出てしまいます。江中の諸洲渚を守らなければ、賊船は岸に近づいてしまいます。已酉の建康の禍は、まさにこれが原因です。臣が考えますに、江の北に出る諸江河口には城堡あるいは水寨を築き、鋭兵と強弩を配し、戦艦を備えて賊船が江に出られぬようにすべきです。江中の諸洲渚には多く戦艦を伏せて、賊船が江に出ても岸に近づけぬようにすべきです。江の南には兵を戍守させ多く舟楫を備え、利があれば進み、なければ堅く守るべきです。」
京東・淮西・関中を結ぶ全体戦略
「京東は全盛の地で財賦の出るところであり、劉豫が頼りとし金が必ず援助する地です。今、韓世忠・張浚・楊沂中の三軍は淮東に列戍してこれと対峙し、あたかも物の首のようなものです。大梁は宋の京師であり、劉豫がここに拠って根本としています。劉光世は淮西に屯し、岳飛は京西に屯してこれと対峙し、あたかも物の左右の翼のようなものです。関中は形勢の国で軍馬の集まる地で、劉益が僭称して留府とし、薩里罕貝勒(撒離喝)の兵が駐屯するところです。呉玠がこれと対峙し、あたかも物の尾のようなものです。物は首が動けば左右の翼がこれに随い、その後で尾が応じます。用兵の巧者はこれと変わりません。臣が考えるに、今日の計は諸将をして各々出兵の声勢を張らせ、備えを一つにさせず、その討伐にあたっては世忠・浚・沂中がまず力を併せて京東を取るべきであり、三軍の進撃には順序があります。世忠がまず淮を渡り、水軍で清河を遡って水陸並進し、沂中がこれに続き、両軍相継いで淮陽・彭城に向かい、二三十里の内で有利な地を選んで連珠の堅陣を築き、必ずしも城を攻めずに援軍が至れば互いに出兵して撃つべきです。我らが数度勝ち彼らが数度挫かれれば、両城は攻めずして自ずと下るでしょう。その後で兵を引いてこれを襲えばよいのです。張浚は一軍を自ら宿州から進め、世忠・沂中と沂・密・済・鄆等の郡で連衡すれば山東は平定されましょう。山東が平定されれば大梁は必ず震え恐れ、劉光世・岳飛の軍が進めるようになります。光世は陳・潁から進み、岳飛は襄・鄧から進み、世忠・浚・沂中と京師で合流すれば京畿は定まります。京畿が動けば関中は必ず揺らぎ、呉玠の兵を出すことができます。山東が定まり京畿が定まれば、黄河一帯に分兵して列し精鋭数路を並進させて呉玠を援ければ、五路は回復できましょう。このようにして両河の外の忠臣義士は腕を奮って呼応し、西北の諸国も風を聞いて呼応するでしょう。小さな女真の烏合の衆は心腹の患を起こし肘腋に変を生じ、必ず倒戈して攻め、門を開いて降る者が出るでしょう。我が軍は黄河を渡るまでもなく天下は定まるでしょう。」
酈瓊の乱と殉節
公は合肥へ赴き諸将を護るよう命じられ、朝廷に帰って事を奏したが、その言葉は懇切であったにもかかわらず皆聞き入れられなかった。行朝に留まること二十日余り、天子は執政に命じて暫くとどまるよう諭させ、続いて処分を下すこととした。さらに中使を遣わして鞍馬・犀帯・象笏を賜った。公は拝賜して退き、家人に「君命がこのようであっては義において辞退できない。一死は固より惜しむに足らぬが、ただ国に益がないのではないかと恐れる」と語った。妻子は泣き交わし、まるで永訣のようであったが、事にはすでに芽生えがあり、行けば再び帰れぬかもしれぬと覚悟していた。七月、王徳が都統制に任じられると、酈瓊の軍はすべて盗賊まがいであり、光世の軍紀は緩んで恣意を極め、皆が畏れるのはただ徳だけであったが、徳とは元々同格の間柄であったため、その節制を受けることを恥じ、状を連ねて都督府へ訴え、その過失を訟えてこれを避けようとした。府は徳の言を正しいとして訴えを退けた。瓊らはさらに御史台へ訴えようとしたが、ある者が「あなた方がこのようなことをするのは宰相を訟えることに等しく、身が非常に危うい」と諫めた。瓊らは怖れ動揺し、公に「朝廷を怒らせてしまい、今日どこで死ぬことになるか分からない。尚書どの、我らをお救いください」と訴えた。公はこれを慰めて言った。「もし君たちが正しいなら、大いに張丞相を誑かしたことになる。丞相はもとより人が前へ進むことを喜ぶ性分で、もし功を立てられれば大きな過ちがあってもこれを寛大に扱うだろう。まして小さな嫌疑ならばなおさらである。私が君たちのために弁じよう。心配は無用である。」皆は感激して庭で拝礼し、「まことに尚書どのの仰る通りです。死をもって報いる覚悟です」と誓った。公は密かに廟堂にその利害を伝え、まもなく王徳ら諸将を召す旨の詔が下った。徳の出向には必ず処分があるだろうと考えられたため、公はまず呉錫の一軍を廬州に屯させて緊急に備え、さらに運判の韓璡を建康に遣わして「諸将の反側はすでに定まったであろう。もし他に議論があれば、いよいよ乖離するので、賢明な運判どの、丞相にお伝えいただきたい」と伝えさせた。ちょうど都督府の機宜(機密文書取扱の官)が推測するに、別の一事のために合肥を過ぎ、璡は公に「幕府に伺うにあたり一言申し上げるべきでしょうか」と尋ねたところ、公は「すでに彼に言い含めてある。ただ十分に伝わらなかったのではないかと恐れる。さらに開き陳べていただきたい。事情から察するに果たして十分に語れなかったのだろう」と述べた。璡は行く道すがら和州に至って病を発し滞在してしまった。それから諸将は徳が都督府に留まって都統制となり、しかも厚い賞を与えられたことを聞き、瓊らは望みを絶たれて「初め我らが彼の罪を訴えたのに、今彼が賞を受け、我らが必ず罰を受けるならば、身の安全は保てぬ」と言い、ここに叛意を萌した。公と趙康直を脅して北へ連行しようとしたが、公はなお馬上から瓊らを諭し、国家の恩を忘れず忠孝の道を失わぬよう説いた。三塔に至り、淮からわずか三十里の地点で、公は馬を下り、棗林の下に立って言った。「劉豫は逆臣である。私がどうしてこの目で見られようか。ここが私の死地である。もう行かぬ。」瓊は人に命じて公を縛り馬上に乗せようとしたが、公はさらに身をひるがえして地に落ち、大いに罵って言った。「私はお前たちのような国を裏切る賊とは比べものにならない。天地はお前を覆い載せることはない。私は行かない。」さらにその部下に「お前たちの軍中に一人も英雄はいないのか。劉豫は逆臣であり、随ってはならない。酈瓊に従うのは良いことではない」と語った。皆は感傷して涙を流し、「呂尚書の言われる通りだ」と言う者もあった。千余人が周囲に立って動かなかった。瓊は人心が動揺し変が生じることを恐れ、急ぎ馬に策打って先に淮を渡り、王師晟・尚世元に急いで公を殺害させた。
経緯の詳細
当初、王徳と酈瓊は互いに憎み合っていた。徳は劉光世が愛した将であったため、その軍を統率するよう命じられた。瓊らは大いに騒ぎ、状を連ねて都督府へ訴え、徳もまた反訴した。ついに徳を召して本軍に戻し都督府の統制に任じ、公は都督府参謀としてこれを統括させることとなった。公は簡素で謙虚な態度で臨んだが、将士の実情は十分に伝わらなかった。淮西転運使の韓璡はもと光世の幕中にあったが、光世は璡を礼をもって遇さなかった。この頃、諸校の中に罪を得て去る者が現れた。公は瓊らの反側を聞いて密かに殿前司呉錫の一軍を廬州に屯させて緊急に備えるよう奏し、璡を建康に遣わしてこれを促し、あわせて瓊と靳賽の軍権を罷免するよう求めた。書吏がこれを瓊に漏らし、瓊は人に命じて郵便の伝達を遮断させ、公が言った軍官の罪をすべて知ってしまった。翌朝、諸将は朝、公に拝謁した。公が座に着くと、瓊は袖から文書を取り出して統制の張景に示し「諸兵官にどんな罪があるというのか。張統制どの、これほどのことを朝廷に報告されたのですか」と言った。公はこれを見て大いに驚いた。瓊は公を捕らえて云々し、統領の尚世元に命じて公を殺させようとした。世元は刃で公を刺そうとし、統領の王師晟を顧みたが、師晟は同調しなかった。公は瓊を罵り続け、ついに頭を砕かれ歯を折られて死んだ。
妻の殉死
当時、公が髪を結った帛を手に入れて呉中に持ち帰った者がいた。その妻の呉氏はこれを手にして自ら命を絶ち、殉じた。聞く者はこれを哀しんだ。
史論
公は自らの身の保全に努めず、その節を尽くすことに努めた。ゆえに死後、瓊ら叛将だけでなく辺境を侵すことのできぬ僭逆の臣も、討たずして自ら滅んだ。天子の睿智な謀略があったとはいえ、公が敵の勢いを挫き外侮を防いだ功績は、決して無益なものではなかった。
人柄
公の人柄は質実で明晰、賢を好み悪を憎み、忠言至論には常に服した。学問においてはただ実用を求め、文においては空言を尚ばなかった。兵部侍郎に任じられた際、自ら謝表を起草し、「志士として身を殺して仁を成すことを願い、あえて得ることを得た後に失うことを恐れる鄙夫に倣うことをしない」との句があった。その修養のほどが窺える。