宋名臣言行錄續集卷三十一 楊邦乂

楊邦乂、字は希稷。吉州吉水の人。政和乙未(五年、1115年)上舎試に合格し、地方の教官・県令を歴任、溧陽では叛乱を鎮圧して善政を敷いた。建炎三年(1129年)建康の副知事に任じられ、金軍が建康を陥落させた際、杜充・陳邦光らが逃亡・降伏する中、独り降伏を拒んで血書で忠節を示し、屈することなく殺害された。享年四十四。

年表(5件)

出自と経歴

楊邦乂、字は希稷。吉州吉水の人。政和乙未(五年、1115年)の上舎試に合格し、歙州婺源県の尉に任じられた。蘄州の教官に改まり、任期満了後は廬州の教官を授けられた。南京の宗正博士に任じられ、まもなく省官に改まり建康の教官となった。溧陽の県令代理を兼ね、建炎三年(1129年)、詔により文武両道に長けた人材を挙げるよう命があった際に当路の者から推挙され、建康の副知事兼提領沿江措置使司事に任じられた。兵が建康を陥落させたとき降らず、殺害された。享年四十四。翌年直秘閣を贈られ、建康に廟を立てられた。紹興二年(1132年)三月、朝奉大夫を追贈され、諡を賜り廟号を褒忠とした。紹興七年(1137年)四月、天子が建康に行幸した際、さらに徽猷閣待制を追贈された。

溧陽県での叛乱鎮圧

二聖(徽宗・欽宗)が北へ連行され、群盗が蜂起した折、公は溧陽の県令代理として民を訓練して兵とし、五里ごとに見張りを置いて号令の期会を明らかにし、厳正であった。鼓が一度鳴れば遠近の者が皆集まった。まもなく府兵が叛乱し、関を閉ざして官吏を殺し、四境の者が変事を恐れた。公は民兵を検分し軍備を整え、号令を発して日を定めて府へ向かい叛賊を討った。賊は公の威声を畏れ、慌てて刺史に告げた。招諭発運使は諸郡の兵を城下に集めたが、公は民兵を率いて真っ先に集まり、士は整然として奮い立ち、見る者は皆これを偉とした。まもなく凶徒は首を差し出して降伏し、邑の人々は公を留めるよう太守に願い出て、まもなく正式に真の県令に任じられた。

私販者の趙明を用いた賊討伐

乱の起こる前、溧陽の旧県鎮の射士数十百人が羽檄によって他所へ出兵し、隙に乗じて本隊を離れて帰り、巡検を脅して首魁と仰ぎ、溧陽に向かって民を屠ろうとしていた。邑の人々は大いに恐れ、防ぐ術がないと憂えた。折しも山中で密かに物品を販売していた趙明という者が県獄に囚われていたが、公はこれを引き出して庭に呼び、誅殺しようとして言った。「お前はかねて簡記に多くの徒党を記していたと聞く。里中の豪傑たちをすべて知っているであろう。もしお前の徒党を集めて邑の人々のために賊を誅すれば、罪を赦すだけでなく、功を上申してお前を官に任じよう。」明はすぐに仲間を連れて行くことを願い出た。公は酒を飲ませ、自由にさせて放免した。人々は皆これを危ぶんだが、公は「ただ私が賊を殲滅するのを待て、恐れることはない」と言った。翌日、明は果たして仲間を集め、公に賊を討つべき場所を報告し、欺いてこれを捕らえた。そこで公は富民に財を出させて、賊を捕らえた者に賞を与えると約束した。賊は捕らえられ、公はことごとくこれを市で斬り、その首二つを府に上申して刑部の議定に委ねた。刺史は公の功を上奏しようとしたが、公はことごとく僚佐に功を譲り、「人を殺して自らの利とすることは私の志ではない」と言った。邑の人々は公の徳を慕い、肖像を作って祀った。

建康陥落と殉節

建炎三年閏八月、李成が江北を略奪し、杜充は六万の兵を擁して建康を守った。十一月、杜充は李成の師が疲弊していると考え、戦艦を進めて撃たせたが、折悪しく金軍が大挙して到来し、金軍と李成軍が合流し、我が軍は敗北した。賊は我が舟を奪って渡り、馬家渡を奪った。杜充は出兵して再戦したが利あらず、潰走して城内に逃げ込み、軍紀は失われた。数日後、金軍は杜充に戦意が無いことを知り、南門外の鉄仏寺に軍営を進めた。杜充は官吏・兵民に城を死守するよう命令を下し、公はその言葉を信じていた。ところが翌日、杜充は全軍を率いて水門から出て舟に乗り逃亡してしまった。金陵は空しくなって守る兵が無く、知府の陳邦光は驚き恐れ、なす術を知らぬまま、その日のうちに父老を率いて城を出て降伏を迎えた。金の将帥は公にも同行を強いた。公は街橋に至って大声で「私は降虜になるような者ではない」と叫び、水に身を投げようとしたが父老に救われた。金の陣営に至ると、邦光以下は皆拝伏して降伏を願ったが、公だけは倒れ伏したまま起きなかった。邦光は「この通判はもとより瞑(目眩の)病を持っております」と取り繕った。金の将帥である四太子は、人に命じて公を掖から連れ出させて治療させ、降伏した官属を遣わして公を説得させたが、公は口を閉ざして答えなかった。翌日、さらに親しい者を遣わして説得させた。「あなたは元々貧しく、老いた兄君がおり、扶養は寡婦の嫂上と孤児の甥に頼っている。彼らは遠方から来て仕えている。五人の子はまだ幼く、一人の娘はまだ嫁いでいない。今、故郷から数千里離れたこの地で、誰に寄る辺を求めるつもりか。国家の事勢がここに至ってはあなたが降らねば誰が降るというのか。」公は言った。「それは人の常の情である。私だけがその情を持たぬはずがあろうか。だが家と国の事は両立しない。私の心はすでに決まっている。もう言葉を尽くさぬでもらいたい。」翌日、四太子は酒宴を開き、偽の知府事と称する張太師という者と邦光に公を招いて議事させようとした。公は拒んで応じなかったが、衆人に引かれて庭に至った。すでに二人はその席に着いており、一つの席が公のために空けられていた。公は階段に至ると頭を柱の礎に打ちつけて激しく叫んだ。「私が犬や豚のように飼われて生きようか。」血が顔を覆い、しばらく意識を失った。左右の者に助けられて連れ出された。金の将帥は他室に拘束するよう命じた。翌日、邦光は再び公を出して説得させようとし、公を釈放した。庭に至ると邦光は階を降りて「事はどうしようもない。少し心を改めてほしい。無駄に死ぬのは益がない」と語りかけた。公は目を怒らせて言った。「あなたは天子の侍従として一方を守りながら、危難に臨んで死ねず、甘んじて他人に膝を屈するとは。人々を効わせてよいのか。朝廷はあなたに何を頼めばよいのか。」その場に劉団練という従官がいて、紙を一葉取り出し「死」と「活」の二字を書いて示し、「多言は無用だ。趙氏に忠なら死の字の下に、我らに帰するなら活の字の下に書け」と言った。公は傍らに立っていた筆を持つ吏を見て、その筆を取り「死」と書いた。金の将帥は怒って再び公を拘束した。これより先、公はすでに自らの血で襟に「寧ろ趙氏の鬼となるとも、他邦の臣とはならぬ」と書いていたが、金の将帥は当初これを知らなかった。翌日、再び公を南門の砦に連れ出し、意向を問うと、公は「ただ虜に降ることができぬだけだ」と答えた。四太子は激怒した。公はさらに大声で罵った。「私は趙氏の禄を食んできた。終生国を裏切らぬ。お前たち女真がどうして真の天子であろうか。私にお前の国に従わせようとするとは、国家がお前に何の負い目があるというのか。それなのにこの凶残を働くとは。私はお前の首を斬れなかったことが恨めしい。私が死を怖れると思うか。」ついに頭巾を裂き衣を脱いで速やかな死を求めた。襟に書かれた文字を見て屈しないと知り、公を殺害し、腹を割いてその心臓を取り出した。聞く者はみな哀しみ、その壮烈さを称えた。

家族への配慮

杜充が逃げたとき、ある者が公に去るよう勧めたが、公は「私は通判である。もし私が城を去れば誰が守るというのか。私も命が惜しくないわけではない」と言った。とはいえ、公の兄には一人子しかいなかったため、その甥の孺文にその母を伴わせて溧陽へ逃れさせ、自らの子を託した。その翌日、城は陥落した。

従者たちの殉節

公が害された際、公に仕えていた斗子の陳大伯という者は公が囚われても傍を離れず、四太子を罵り、瓦礫を投げつけようとして命中しなかったため、公とともに殺害された。また武勇に優れ賈山砦と称された主山砦の賈三郎という者も捕らえられた。賈は子に里人と結ばせ薪を売る者を装わせ、武器を薪の中に隠して城門を通ろうとしたが、門番に発見され、金は父子を市で磔にした。

人柄

公は神色明るく秀でて、長身で山のように立ち、見る者は皆畏敬し愛した。事無き平時は温良で人と和し、事に臨めば勇断果決で、万夫もこれを動かすことができなかった。その徳行は家に修まり郷にたたえられ、友に信ぜられ、身をもって国に殉じ天下万世の臣節の模範を打ち立てたことは、一時の偶然ではなかった。

諸家の顕彰と評言

金の首領が長江を犯し建康が動揺した際、人々は皆公の廟に祈った。楚の巫が占い、「吉なり、狄主はまさに滅び、狄の軍旅はまさに逃れる。この大邦はまさに安寧を得るだろう」と言った。老人が夢で公の告げを聞いたという話もある。

直秘閣の贈号の告詞には、おおよそ次のようにあった。「臆病者は生を偸んで世を去っても名を称えられず、烈士は節を砥ぎ、死して泰山より重い。汝は剛方の資質を稟け、艱難の時に当たっては、甲冑の士でさえ風を望んで逃げ去り、城郭を守る臣でさえ恥をこらえて生を求めた中で、汝はよく君に仕える義を明らかにし、死節への忠を貫き、決して異民族の酋長に屈することなく、自ら進んで刃に伏した。口は罵ることをやめず、その言葉は聞くに忍びなかった。まことに張御史(張巡)の風格があり、顔常山(顔杲卿)の節義に恥じるところがない。」

紹興七年、天子が建康に行幸した際、「顔真卿は異代の忠臣であるが、朕はなおその後裔を官に任じている。楊邦乂は朕のために死節を尽くした。厚く褒賞を加えてしかるべきではないか」と述べた。徽制の告詞には次のようにあった。「故忠襄公は、戎馬が長江を絶とうとした際、副車の任にありながら敵を防ぎ、守将がすでに膝を屈して衆士とともに降ろうとする中、汝独り身を挺して孤城を守り抜き、いっそう志を励まし、虎狼のごとき衆に抗い、鋒鏑の間で奮い立ち、罵り続けて息絶えるまで止まなかった。朕はまさに土宇の回復を図り、江辺に進み幸し、万里の山川を望み、歴代の人物を考えるとき、生を捨てて義を取った者は汝のほかに幾人いようか。古老たちは悲しみを興し、嘆息して語り、英雄の気風は臆病者をも奮起させる。廟の姿は今も残り、その凛たる精神はなお生けるがごとくである。すでに贈恤は加えたとはいえ、まだ栄誉が及んでいないことを思い、ここに次対の官職を進めて仁者の勇を彰らかにする。九原より甦らせることができれば、士会(魏絳)が国に帰るように、千載を経てなお生けるがごとくであり、相如の名が滅びぬことを歎ずるであろう。」

葉夢得は褒忠廟碑を撰し、詩に「茫々たる華夏は四極をもって限りとする。虔まざる者あればすなわち上国を蝕む。すでに我が民を滅ぼした者は、逆天の悪みちて誅せられん。天はどうして彼を捨て置こうか。かつて粛慎は矢を献じたが、あえて我が紀を犯すことがなかった。梗々たる楊侯はその喉牙を塞ぎ、万夫一躯にして我を凌ぐ者はいない。誰が汝の狂を許すというのか、我を憑み我を抑える。誰が汝の残を許すというのか、我を唾し我を斥ける。天子曰く、ああ、朕にこの臣がある。どうしてこれを贖わずにいられよう、人百でその身に代えても。屹々たる崇岡に侯は域を安んじ、桷梴の旅楹に侯は廟にて食を受ける。皇上帝の命により侯は帰り来て、山川を顧み瞻て我が王威を申べる。侯は食して安んじ、旗纛は翻り、百霊は斉しく発して侯に従い北を指す。侯の車は轟々として我が故疆に至り、その巣穴を覆せば虎狼も何をなしえよう。天帝は功を聞いて笑い喜び、四方は平らかとなる。侯の祀りは百世に続き、忠にあらずして何を慕おうか、死を畏れずして何を畏れよう。帝の心に簡ばれ、ただ忠のみが畏れを知らぬ。明々たる天子は帝と心を一にし、これを播き、これを崇め、これを顕す。今より流れは滔々として南邦を貫く。我が詩は孔だ昭らかに、この大江に配する。」また改葬の祭文を撰し、「ああ、子糾に死ななかったからといって孔子は管仲の仁を病まなかったが、首陽山で餓死した者を人は伯夷・叔斉と称える。『その志を下げず、その身を辱めず』と言う。天下の人は死ぬことを難とはせず、その死に方を得ることを難とする。ああ、君の節義は壮んなるかな。金の毒がこの邦に及んだとき、十万の衆をもって屈した者は聞くが、一身の微をもってこれに抗い得た者は聞いたことがない。云々。君は自らの生を棄てて家を顧みず、家を棄てて身を顧みなかった。それならばこの既に朽ちた骸に何が残ろうか。ただ天子が天下に大義を正し、これを掲げて『朕にこのような臣がある』と示せば、後の世の人は君の風を聞いて畏れ、『これぞわが大夫楊君の墓所』と言うであろう。そうなれば天子の寵と君の節義は、この山とともに永く滅びぬであろう。」と述べた。

吉州の知事李彌遜は公の祠を郡学に立て、杉溪の劉才叩が奉安祭文を撰した。「陰虹が瘴気を吐いて円い月をしばし翳らせ、北斗は星々の中で孤高に輝く。洪河は氾濫し滔々と天に達しようとしたが、屹然として流れの中に立つこの砥柱を見よ。時多難に遭い、遠く困難を経た。乾坤の軸は揺らぎ傾いた。彼のうごめく貪生の輩は、賊兵を望んで風になびいたが、堂々たる忠襄公は鉄石の肝腸を持ち、矯々として人中の龍のごとく、どうして節を屈して降伏を生きながらえようか。九たび死ぬとも悔いず、どうして凶悪な刃先を憚ろうか。ついに憤りを抱いて玉のごとく砕け、その激しい烈しさは遠く彰らかとなった。云々。建炎己酉の年、敵騎が長江を渡り、主将は夜のうちに逃げ、守将はたちまち膝を屈した。虜は公を脅そうと百計を尽くし、紙に死活の字を書いて示したが、公は筆を振るい死に就くことをためらわず、敵は公の心が決して回らぬことを知り、ついに残虐を極めた。梁は壊れ山は崩れ、勁気は遍く広がり、地は裂け天は開いた。万身をもってしても贖えない、ああ哀しいかな。かの泰山・華山を見るように独り出て、烈日秋霜のごとく万物を粛然とさせる。ただ公の節義は山を冠り日を跨ぎ、奸賊の頭は生死ともに恥じ入る。忠の胸、義の胆は、この風を聞いて争って奮い立つ。ただ公の功績は興運を啓発する。云々。」

游九言は金陵の吏となった際、公の墓道に再拝して辞を作り、「山雲起こりて陰々たり、木は風に嘯いて蕭森たり、荒れた叢に頽れた隧道、野鳥は怨んで清らかな音を発す。ああ丙午の年、燕居して安らかとし、士大夫は多く盤桓し、苞桑(危うい枝)に繋がれることを戒めず、旧好を渝して辺境を開き、戦の縁を生じて外敵を招いた。大地は塵に蒙られ、粲たる承平は百年続いたが、廟宮は荒れ果てた。我は邠を越えて梁山に至り、蛇は江辺で食を貪り、貔貅(猛獣のような兵)を擁して先を争って逃げ惑い、拝礼するも先を争う。公独り立って慨然と述べ、自らを正して身を安んじ、鬼となろうとも趙氏に仕えることを願い、北庭に穢れることを拒んだ。ご馳走を勧められても茍且に食すことを知らず、貌は赤らみ、玉麟の印を握って拝跪しても、いささかも自らの倫理を顧みない。誰が余のみが死んだと言うのか、汝は生き延びる恥を負う。英声を階下に振るわせ、気烈は清寧を動かした。名義を凛と保ち、九鼎は重く一羽は軽い。翳々として幽かに葬られ、頽れる陽の光が荒れた山を照らす。髪毛爪歯は一世とともに朽ちるが、廟貌の圭衮は千古の光を放つ。春秋は代謝し、絶えることなく祭りは続く。」と述べた。

東山の楊長孺は公の画像に賛して、「面は厳霜の如く、目は電光の如し。身は長江のごとく、乾坤は翳々として、衣冠は毅然たり。鈇鉞も容易く、棟は撓み鼎は傾いても、虎も貔もなくとも、軾(敬礼)を尽くし泥をも厭わぬ心があった。天を貫き日にかかるは、ただ忠、ただ一。青竹に鴆羽の筆をもってしても、犬羊はいささかも大丈夫の何たるかを知らぬ。これを覆すことができようか。人として誰が死なぬ者があろうか、国のためにこそこの偉業がある。何千億年の後までも祀られるであろう。」と述べた。

松渓先生の李天麟が語ったところによると、公が科挙及第前、郡学にあった頃、足を茶坊や酒肆に踏み入れることがなかった。同室の者たちがその節操を崩そうと、暇な日に公を娼館に誘い、自分の親戚だと偽った。公は素直にこれを信じて疑わなかったが、席に着くと娼妓が艶やかに化粧して現れた。公は驚いて急いで走り帰り、衣冠を脱いですべて焼き捨てた。その後、果たして節を立てること竒偉であった。誠斎(楊萬里)は「まさにこの通りである。おおよそ身を立て行いを修めるには、その根本を確立する初めにおいて確固として揺るがぬことが必要である。後に至って定まった習いを得れば、生死や禍福も決してその心を奪うことができないのである」と評した。