宋名臣言行錄續集卷三十 張叔夜

  • 張叔夜、忠文公。

出自と経歴

  • 字は稽仲。張耆の曽孫。信州永豊の人。蔭により蘭州の録事に任じられ、襄城・陳留二県の知県となり、潁州の通判となり、舒州・海州・泰州の三州の知州を歴任した。召されて対面し、庫部員外郎・開封少尹に除せられ、右司員外郎に遷ったが蔡京の意に逆らい西安州倉草場に左遷された。久しくして秘書少監に召され、中書舎人・給事中に抜擢され、礼部侍郎に遷り、徽猷閣待制として海州の知州に出た。徽猷閣直学士を拝命して宣州の知州となり、また済南府の知州となって龍図閣直学士を加えられ、青州の知州となり、鄧州の知州に移った。四道に帥を置くにあたり南道都総管とされ、延康殿学士に進み資政殿学士を加えられて南道の兵を提挙し、城上で守禦にあたった末、僉書枢密院事に抜擢された。虜(金)と既に和議が議されると京城の弾圧を命じられ、二聖(徽宗・欽宗)が北へ拉致される際、これに従って北へ赴き、卒した。享年六十三。訃報が届くと高宗は遥拝し観文殿学士・醴泉観使を追贈した。

天都攻略の建言

  • 公は用兵の議論を好んだ。蘭州はもと先零(西羌)の故地で最も寒く、ただ黄河の険を頼りとするのみで、氷が張るたびに厳重に守備を固め、兵卒は甲冑を着けたまま幾月も休むことができなかった。公は「これはその要害を求めて守るべきだ」と考え、広く山川を考察して利害を講じ、上書して力めて天都を取る策を陳べた。「天都は五路の間にあり、西人(西夏)が糾合する要地である。彼らが兵を挙げて諸路を侵そうとすれば、必ずそこに集結してからその向かう先を議す。ゆえに一度そこに兵が集まれば、五路は枕を高くして眠ることができない。これこそ今、最も優先すべきことである」と述べ、書を再び枢密院に上げてこの策を実行させ、果たしてその地を得て西安州を建てた。

「空黄」の弊害の指摘

  • 政和の間、官吏が怠惰で誠実さを欠き、門下から出る命令には予めその末尾に署名を書き入れておき、まず名を置いてから後でゆっくりと事目を埋めて実施することが行われ、これを「空黄」と称した。公はその弊害を極論し、これを禁ずる法が初めて立てられた。

宋江討伐の献策

  • 劇賊の宋江が略奪しながら海州に至り、海岸に向かって巨艦十数艘を奪おうとした。公は夜、死士千人を募り、十数里離れた所に大いに旗を張って賊を誘い戦わせ、密かに壮士を海の傍らに伏せさせ、兵が交わればただちにその船を焼くよう約した。船が焼かれると賊は大いに恐れて闘志を失い、伏兵がこれに乗じて攻めると、宋江はついに降伏した。

山東の群盗鎮圧と京城防衛への献策

  • 山東で群盗が競って蜂起した際、公は精鋭の兵を発してこれを撃ち、盗賊は鎮まり一方は安穏となった。靖康の初め、金の兵が黄河を渡った際、公は「もし和解を許せば金人は必ず要求を重ねるだろう。彼らを逃せば後に必ず再び来て、中国を軽んじる心を抱くだろう」と述べ、精鋭の騎兵を遣わして迎撃するよう乞い、河北の辺鎮に兵を出させてその退路を断つ計画を立て、自らの騎兵を諸将と併せて追撃したいと願ったが、返答がなかった。

京師防衛の激戦と欽宗への進言

  • 公は軍を率いて京師の救援に赴いた。ある者がゆっくり進むよう勧めたが、公は「国家がこれほどの危難にあるのに、どうして身を顧みられようか」と言った。尉氏に至って賊の遊撃騎兵に遭い、転戦しながら進み、十一月晦日に京師に到着した。公は入見し、唐の玄宗が安禄山の乱を避けて出幸した故事を詳しく述べ、「今、賊の勢いは甚だ鋭い。願わくは襄陽に駐驆(一時滞在)して雍への行幸を図られたい」と述べた。欽宗はこれを是とし、公に兵を提げて城を守らせた。四日にわたる激戦の末、金の環貴将二人を斬った。城が破られると公は傷を負いながらもなお父子で力戦し、士卒は皆死を賭して戦い、死傷者はほぼ互角であったが、諸将は誰一人として救援に至らなかった。金が和議を議し、欽宗が再び郊外に出ようとした際、公は太学の前で馬を叩いて諫止したが翻意させることができず、号泣して再拝すると、周りの者も皆泣いた。欽宗は振り返って公に「嵇仲(公の字)、努力せよ」と呼びかけた。金が異姓(張邦昌)の擁立を詔すると、公は皇太子を立てて君とし民望に応えるよう乞うたが、金の二人の酋長は怒って公を軍中へ召還した。至ると公は当初と変わらず抗論し、少しも屈しなかった。そのまま北へ拉致される行列に加わることとなった。道中、公はただ湯を飲むのみで穀物を口にせず、白溝に至ると御者が「河を渡りました」と告げると、公ははっと目を見開いて起き上がり天を仰いで大いに叫び、そのまま以後語ることなく、翌日卒した。

李綱の評

  • 李忠定(李綱)は「人材は事に応じて奮い、節義は難に臨んで顕れる。蕩陰の役に御衣が血に染まった際、ただ一人の嵇紹があった。安史の乱に義兵を最初に唱えたのは、ただ一人の顔真卿があった。朱泚の変に三館の士を叱咤して賊に従わせなかったのは、ただ一人の何蕃があった。これらは容易に得られるものではない。靖康の末、四道に総管を分けて王室を衛らせたが、金人が再び闕を犯した際、ある者は兵を擁して座視し、ある者は軍を棄てて自らを保全した。ひとり公だけは西道の師を統率して転戦し都城に到達したが、その謀は聞き入れられず、城が陥落し捕えられてもなお懇ろに章を抗して趙氏を立てようとした。その国家への忠は、これほどの大節をなした。たとえ古人であってもこれに勝ることができようか。私(綱)はかつて公から家族への手紙を見て、忠義を勧める言葉に既に感服していたが、その後、公が国事に死んだと聞いて涙を流した。ああ、士には必ず一死があるが、死ぬこと自体が難しいのではなく、死に処することが難しいのだ。公のような死は、その死に場所を得たと言えよう。義を忘れて生を偸む者たちは、いくらか恥じるところがないだろうか」と評した。
  • また「士が名節を立て国事に死ぬのは、志気に感じるところがあるとはいえ、平生その胸中に養ってきたものに必ず人並み外れたものがあり、事に遭って発するのは偶然ではない。段太尉(段秀実)が笏で朱泚を撃った事について、ある者はこれを武人が一時に発した命知らずの行為に過ぎないと言ったが、柳子厚(柳宗元)はひとりこれに反対し遺事を集めて伝を作り、それが真の見識でなかったことを明らかにした。公の忠義の節は明らかである。国を去る日、自ら必ず死ぬことを覚悟して家族に書を託し平生の操守を述べたのは、まさに『中に養う所あり、大節に臨みて奪うべからず』というものではないか。書の末尾になお墓表による不朽を託そうとしたのは、こせこせと名を求めたのではない。名は元より士君子の重んじるところであり、聖人は名節をもって天下を砥礪した。ゆえに士には生を捨てて義を取り、生を求めて仁を害さない者がある。顔魯公(顔真卿)は必ず死ぬと知って自ら李希烈への祭文と墓誌を書き、常にこれを座右に置いたというが、公の用心もこれと何ら変わらない。近世は名節が立たず、ただ自己保全のみを務めとしているが、国家の大変に遭ってなお節を守って死んだ臣が古人に恥じないでいられようか。公のように卓然と節を立てられたのは、ああ、畏敬すべきものである」と述べた。

朱熹の評

  • 晦庵(朱熹)の評は鄭驤の項に後述する。