出自と経歴
- 字は徳祥。張耆の曽孫。蔭により三班借職に補せられ、また進士に及第し、河間県の知県となり、また呉県の知県となって治績で聞こえ、衛尉丞に抜擢された。従弟の張克公が御史中丞であった時、蔡京を弾劾して罷免させたが、蔡京が再び宰相になると連座して廃された。一年余ののち祥符県の知県に起用され、久しくして広徳軍の知州となり京畿の倉を掌り、陛辞(皇帝への拝辞)の際に留められて庫部員外郎となり、汾州の知州として出た。守城の功により直秘閣を加えられ直龍図閣に進み、右文殿修撰に除せられたが、兵に汾州が破られると自ら命を絶った。事が上聞し延康殿学士を追贈された。
汾州における籠城戦
- 金人が燕山を陥落させて長駆南下し、兵を分けて太原を侵した。太原は汾州から二百里の距離にあり、尼瑪哈はその将の尼楚赫貝勒を遣わして汾州を攻めさせた。金軍は兵を放って四方を掠奪し、外からの援軍は至らず、形勢は日々孤立して危うくなった。公は力を尽くして防戦し、昼夜少しも怠らなかった。太原が陥落すると汾州はますます危険になった。公は軍民を召し「太原は既に陥落した。我らもまた滅びを免れないと分かっている。しかし義として朝廷に背き祖父を辱め子孫を累わせることは忍びない。この城と最期を共にしなければ、我が節を明らかにすることができない」と告げると、皆泣きながら「公は我らの父母です。あくまで公とともに死力を尽くします」と答えた。公は士を募って間道より京師へ走らせ、上章して「太原の失守以来、汾州は日々攻撃を受けています。願わくは陛下、孤城を哀れみ、この情勢が長く保たないことをお察しくださり、急ぎ軍馬を倍の速さで遣わして救援し、一城の生霊の命をお護りください」と述べたが、返答はなかった。
最期の抗戦と自決
- 太原が陥落してから汾州が拒守すること既に一月余りに及んだ。ある日、金の諸酋が城下に列んで降伏を促す文書の提出を指呼して督促したが、公は城壁に臨んで罵り続け、砲の弾が一人の酋長に中り即死させた。翌日、金の攻城はますます急となり、城は西北の隅から崩れ、賊は既に城内に入った。公は朝服を着て南に向かい、書を焼いて拝舞したのち自ら命を絶った。その一族で難に死んだ者は八人であった。
朱熹の評
- 晦庵(朱熹)は「私はかつて張忠文公(張叔夜)の廟に銘を刻み、そのおかげでその遺書を読んでその風烈に感嘆し敬慕したが、さらに公(張克戩)の子から汾州にあった家への手紙を見て、いっそう深く敬仰した。密かに思うに、国朝は太平を保つこと百年、徳は隆く恩沢は豊かで、代々の重臣・名族に人がいなかったわけではないが、ひとたび危難の際に忠義の節がひとり張氏一門に集まったのは、まことに盛んなことである。公の大節は青天白日のごとく、もとより賛述を待たずして明らかであるが、私は特にその筆札の精緻で慎み深いさまにその心の落ち着きを見、その家人・父子の間に、死を誓う覚悟の他はただ遺された孤児を憐れむことを寄せるのみで、いささかも内顧・下流の私心がないことを見た。ああ、その胸中に人並み外れたものがなければ、どうしてこれに及べようか。先覚に『慷慨として身を殺すのは易しく、従容として義に就くのは難しい』との言葉がある。公の死のようなものこそ、まことに従容として義に就いたと言えるのではないか」と評した。