宋名臣言行錄續集卷二十九 朱弁
朱弁、字は少章。徽州婺源の人。太学出身。靖康の難で家族と共に南へ逃れた後、建炎二年(1128年)両宮の安否を問う使者に自ら志願して金国へ赴いた。偽斉への服従や官の変更を拒み続け、十六年近くに及ぶ北庭での抑留に屈せず節を守り、紹興十二年(1142年)にようやく帰国した。秦檜に忌まれて相応の評価は受けられなかったが、朱熹はその忠節を魏良臣と並び称した。
年表(5件)
- 紹興十二年1142年長い抑留を経て帰国する
- 十七年1147年秦檜に阻まれわずかに奉議郎に転じるにとどまる
- 建炎二年正月1128年両宮の安否を問う使者を志願し金国へ赴く
- 壬子の年(紹興二年、)1132年金が突然和好を告げ使者一名を先に帰そうとするが自ら留まり印を託される
- 丁巳の年(紹興七年、)1137年金の諸酋が相次いで死んだ情勢を密かに帰国報告する
- 朱弁。
出自と経歴
- 字は少章。徽州婺源の人。太学に入り内舎生に補せられた。靖康の難で家は賊の手に砕かれ、南へ逃れ淮に至った。建炎二年正月(1128年)、両宮の安否を問う使者として赴くことを請い、官を補せられ右武大夫・吉州団練使を借官として大金通問副使に任じた。北庭に寓すること屈せず、紹興十二年(1142年)帰国した。上はその節義を高く評価し文資に易えさせようとしたが、秦檜はこれを忌み、右宣教郎・直秘閣に換えさせて祐神観を主らせるにとどめ、有司の考課で十七年(1147年)に殿廷で官を数えるべきところであったが、秦檜がまたこれを阻み、わずかに奉議郎に転じただけであった。翌年四月六日に卒した。
建炎二年、使者を志願した経緯
- 建炎戊申(建炎二年、1128年)、両宮の安否を問う使者を遣わすこととなったが、あえて赴こうとする大夫がいなかった。公はこれを聞いて慨然として袖をまくり自ら志願した。詔により官を補せられ、上は「朕はまさに晋国が魏絳を用いて戎と和したのに倣おうとしている。そなたは遠く侯生(春秋時代の使者)のように大公(先例)に倣って漢に帰り命を受けるように」と命じた。すぐに王倫と共に赴き、白水濼で尼瑪哈に会って甚だ切実に説いたが、尼瑪哈は聞き入れず、雲中の館に留めさせ、礼のとおりに食料を給したが実際には兵をもって監視した。壬子の年(紹興二年、1132年)、金は突然、宇文虚中を遣わして和好が成る見込みがあると告げ、使者副使一人を選んで元帥府に赴かせ書を受け取り復命させることとなった。虚中は二人(公と王倫)に籤を引かせて去留を決めさせようとしたが、公は正色して「これは商人のやり方に過ぎない。私が来たのは元より死を覚悟してのことであり、どうして今さら先に帰る幸いを望もうか。公にはすぐに書を受け取り復命していただき、我が君が両宮への孝養を四海に早く示せるようにしていただきたい。そうすれば私はたとえ骨を異域に晒しても、なお生きているに等しい」と言った。王倫が赴くにあたり、また「古の使者は節(使者の印章)をもって信としたが、今は節がなく印だけがある。印もまた信の証である。公が既に帰朝すれば、これを用いる用はない。留めて私に授けていただきたい。もし私が不幸にも意外の辱めを受けたなら、これを抱いて死のう。死しても腐らないだろう」と請うた。王倫は涙を拭ってこれを解き公に授けた。公はこれを受けて懐に入れ、寝起きの際も常に共にした。
劉豫への服従を拒んだこと
- 逆賊の劉豫が京邑(開封)を盗み占拠していた際、金は公に劉豫に仕えるよう迫り、「これは南への帰還の糸口になる」と誘った。公は「私は命を受けて北に来た。命を受けずに南に行くことはできない。まして劉豫は国賊であり、私は常にその肉を食らえないことを恨んでいる。どうして北面して臣従することに耐えられようか。私にはただ死あるのみ、帰ることは望まない」と言った。金は怒って食糧の支給を絶ち公を困窮させようとしたが、公は逆に固く拒み続け、駅門を守り飢えを忍んで死を待ち、屈することを誓わなかった。金もまた感動し、再び慰め安んじて礼を元通りにした。
官を換えることを拒んだこと
- 金はさらに公にその官を換えるよう迫った。公は「古来、兵が交わる際に使者はその間にある。従える言葉は従い、従えない言葉は囚えるか殺すかすればよい。どうしてその官を換える必要があろうか。私は本朝の官を受けている。今日は死あるのみ、決して官を易えて我が君を辱めることはしない」と言った。さらに金の要人である耶律紹文らに書を送り、「上国の威命が朝に至れば使者は夕べに死し、夕べに至れば朝に死のう」と告げ、さらに後事を託す書を洪忠宣(洪皓)に送り「使者を殺すこともまた些細な事ではない。我らが不幸にもこれに遭うのもまた運命であろう。運命は天より出ずるもの、どうして逃れられようか。ただ生を捨てて義を全うするのみである」と告げた。金は公がついに屈しないと知り、それ以上強要しなかった。しかし公は使命を果たせぬまま憂憤して眼病を患い、その鬱屈した嘆きと不平の気を詩に発し、「聘遊集」と名付けた。
金の情勢を密かに報告したこと
- 丁巳の年(紹興七年、1137年)、金の諸酋が相次いで死に絶えた。公は河陽の人から密かにその事情と北朝の虚実を知らせを得て、間道を通ってこれを帰国して報告し「これは逃してはならない時である」と述べた。後に王倫が再び使者として帰る際、公は徽宗の大行(崩御)を悼む文を託して送り、「臣らは凡庸の身をもって誤って選ばれ、若木のごとき盛りの時に雨露を被り、党を絶ち隣国を異にして老いに向かい風霜を犯しました。節の旄(飾り)はすべて落ち、口中の舌もむなしく存するのみ、馬に角が生えるはずもないのに歎きながら、龍髯にすがろうとしても及ばず、涙は氷天に降り注ぐばかりです」と記した。上はこれを読んで感涙し、張忠献(張浚)を顧みて密かに旨を諭し「帰る日には禁林(翰林院)に処すべきだ」と言った。
帰国後の上奏
- 公が帰国すると、上は引見して労をねぎらい、再三嘉嘆した。公は謝辞を述べ、「臣が聞くに、人にとって得難いものは時であり、時の巡りは止まることがなく、事にとって失ってはならないものは機であり、機の兆しは形なく蔵されています。ただ止まることがないゆえに、来るのは遅く遭うのは難しく、ただ形がないゆえに、動きは微かで見えにくいのです。陛下が金と講和されたのは、上は梓宮(先帝の柩)を返還すること、次は太后を迎えること、さらにその次は無辜の赤子を憐れみ既に朽ちた骨に肉をつけるようなものであり、これらはすべて時を知り機を知る明らかな証しです。しかし時運は過ぎ去ればあるいは固く執ることが難しく、機は動けば変化があるもの、まだ兆しのないうちに監るべきです。盟は守れましょうが、詭詐の心には黙して備えるべきです。兵は息められましょうが、その消戢の術は詳細に講ずるべきです。まして金の君臣は、上は天道に従わず、下は民心に合わせようとせず、人は怨み神は怒っているのに、修省を知らず武を黷すことを至徳とし、いっとき安んずることを太平とし、民を虐げて恤まず、地を広げても徳を広げません。これはすべて天が陛下の中興の勢いを助けているのです。もしこの時と機を陛下が既に知っておられるなら、その初めから終わりまでを図られますよう、どうか御心に留めていただきたく存じます」と述べた。上はこれを納れ、賜与をますます厚くした。
朱熹(晦庵)の評
- 朱文公(朱熹)は「国家は政和・宣和以来、公卿大臣は国の寵栄を蒙ること格別に優れていたが、ある日、狂った計略が国を誤り禍いを招き、君父を蒙塵させ砂漠の彼方の苦寒無人の地に流させてしまった。その時、遺臣で国を売り虜に降った者たちが朝廷に相次いで現れ、恥知らずに互いに顔を見合わせ、ひとりとして官家(皇帝)の安否を問いに奔ろうとする者がいなかった。公は草野の一書生に過ぎず、平生一命の禄すら受けたことがなかったのに、ひとり奮然として身命を捨て、鋒鏑(矢と鉾)や斧鑕(斬首の刑)の威を冒して測り知れない禍いを試みることを願い出、死を守って屈せず十六年もの長きに及んだ。ついに偽官の爵位を受けて汚れることなく、再び漢の節(使者の印)を持って帰り天子に見えることができた。その忠義の大節は終始凛然としており、竹帛(史書)に記され丹青に描かれても、これに勝るものはない。和議の成立は公自身の功とは言えないかもしれないが、その風諭・慫慂(説得・激励)もまた与って力があった。しかし公はこれを自らの功と思わず、朝廷に帰って建言したのはすべて遠謀至計であり、朝廷が目前の成果に安んずることを望まず、必ず後日の中興を期すべきだと考えていた。この忠慮の深さは、一時の天の功を貪って自らの力とし、江沱の地に安んじて讎を忘れ国を辱めた者たちとは、まったく比べものにならない。上は太上皇(高宗)が深くその心を照らし、褒め嘉し賜与を前後厚くしたことに頼ったが、不幸にも権臣に阻まれてその志を伸ばせずに死んだのは、天の意志であろうか」と評した。
朱熹による魏良臣との比較評
- また「建炎・紹興の間、強敵が凌ぎ両宮が隔絶し、天子は朝夕の温凊(親への孝養)の念に堪えられず、忠智敏辨の士を得て兵の間を往来し和好を通じさせようと考えたが、大夫たちは怠惰畏縮して赴こうとする者がいなかった。ひとり故魏公良臣(魏良臣)と公とが諸生の身でありながら自ら志願し、慷慨として赴くことを請い、張蓋・旜(使者の旗印)を掲げて前後した。ついに白刃を冒して北庭に命を捧げた。魏公はまもなく偽官を受けず節を守って死んだが、公は必ず死を誓いながらも、たまたま全き身をもって帰ることができた。その遭遇には生死の違いがあるが、身を捨てて国に殉じるという本来の志が胸中に固く定まっていた点では、両者に何ら違いはない。私(熹)が思うに、二公の忠義の大節は既に史册に載せられ万世に伝えられているが、両家が絶域で風霜に耐えた旧誼を後の人が知らぬままにしてはならない」と記した。