宋名臣言行錄續集卷二十七 劉韐

劉韐、忠顯公。字は仲偃。京兆の先祖が五代の乱を避け建州崇安に移り閩の人となった。元祐九年(1094年)進士に及第し、地方官・経略司官を歴任。方臘の乱では越州を死守して民を救い、金と結んで遼を挟撃する策に反対したが、靖康の乱後は金への使者として登用を拒み、自ら首をくくって殉節した。享年六十一。

年表(2件)
  • 靖康の初め資政殿学士を拝命し京城四壁守禦使に任じられるが宰相に妬まれ解任される
  • 元祐九年1094年進士に及第し洪州豊城県の尉に任じられる
  • 劉韐、忠顯公。

出自と経歴

  • 字は仲偃。その先祖は京兆の人であったが、六世祖が五代の乱を避けて建州崇安に地を移し、そのまま閩の人となった。元祐九年(1094年)進士に及第し、洪州豊城県の尉に任じられ、再び秦州陝城県の令に任じた。崇寧の初め、王厚が熙州の帥として辟召し狄道県の令とし、さらに経幹(経略司幹官)に辟召され、武勝軍節度僉判に転じた。京西路転運使呉択仁が主管に辟召し、母の喪に服したのち京の綾錦院の監となり、朝散郎に転じ陝西貨司提挙となった。召されて直秘閣に除せられ転運司事を領し、秘閣修撰に昇り中大夫に遷り、制置解塩監副使に除せられ、まもなく使事を領し、集賢殿修撰に除せられ陝西転運使に改められた。宣和の初め祠官を乞い、徽猷閣待制に除せられ西京崇福宮を主り、越州の知州に除せられ、翌年述古殿直学士を拝命する詔があり、四年に召旨により宣撫司参謀官に任じ、五年に光禄大夫・顕謨閣学士に遷り建州の知州となり福州に改められ、延康殿学士に除せられ、まもなく職を落とされ洪慶宮を提挙し、まもなく職を復して荊南府の知州となり建州に改められ、真定府の帥に除せられた。靖康の初め資政殿学士を拝命し銀青光禄大夫に遷り、河北帥を拝命したが赴任前に河北河東宣撫副使を拝命し直ちに京城四壁守禦使に任じられたが、時の宰相に妬まれて解任され五官を降され職を落とされ宮祠に処された。二年後、金へ使者として遣わされ、金人はこれを登用しようとしたが屈せず終わった。享年六十一。詔により官を復され資政殿大学士を追贈された。

豊城における飢民の救済

  • 初め豊城県尉であった頃、飢饉の年に盗賊が多く、近隣の県は皆捕らえて殺すことで賞を求めていた。公は「これは飢えた民が死を逃れんとしているだけである」と言い、豪族富家に穀を出させて賑恤し、生き延びた者は甚だ多く、盗賊もまた収まった。

方臘の乱における越州防衛

  • 方臘が反乱を起こし杭州・睦州の二州を陥落させた。杭州と越州は一水を隔てるのみで越州は大いに震撼し、官吏は皆逃げようとした。ある者が公に去るよう勧めたが、公は「私は郡守として城と存亡を共にする。動じるつもりはない」と言った。民は公の言葉を聞いて次第に戻ってきた。公は「富める者は財を出し、壮健な者は力を出せ」と令を下すと、民は歓び奮って後れを取る者はなく、そのまま塁を修め兵を練って戦守の備えとした。翌年二月、賊は衢州・婺州を陥落させ、八日にして城下に至った。公は衆を指揮して出戦させ、賊は大敗して死屍は野に満ちた。これより賊は公の境に近づかなくなり、温州・台州・明州も越州を屏として全きを得た。越の民は共に生祠を建て、家々にその像を描き、飲食のたびに必ず「私を活かしてくれたのは劉公である」と祝った。

童貫との対立

  • 中使が京師より来て御札を出して戦を督促し、将佐僚属に「朝廷は金人と契丹を挟撃する約を結んで久しい。もし我らが兵を止めれば、彼らは遼を滅ぼして我と隣り合うことになる。責め言葉を受けないだろうか。もし後日、争いが生じればその責任は誰が負うのか」と諭した。公は「外国と事を共にするのは策ではない」と言った。童貫は怒って「これは上の意によるものだ」と言うと、公は「私が策でないと言うのはなぜかとお尋ねか」と言い、「古来、外国と事を共にして後患のない例は稀です。事が成らなければ信義と恩威がともに失われ四隣は離反し、事が成れば敵は功を頼んで必ず要求してきます。唐は回紇を用いて安禄山を破りましたが、侮りを招き乱を呼び、百年たっても止みませんでした。まして金人の気焔は回紇の比ではありません」と述べた。

金への使者としての最期

  • 初め、金が真定に入った際、父老は「もし劉資政(劉韐)が鎮にあったなら、どうしてこのような禍いがあろうか」と号泣した。金はますます公の名を知り、必ず公を得ようとした。宰相は地の割譲を騙って公を遣わし、金国の僕射韓正は公を城南の寿聖院に館せしめた。韓正は公の名を知る国相(尼瑪哈)が今や公を用いようとしていると言った。公は「生を偸んで二姓に仕えることは、死んでもいたしません」と言った。金は尼瑪哈を国相と称していた。翌年正月、韓正が公に会い、公を宰相に据えたいと語り、家族を伴っての赴任を許すと言った。公は天を仰いで大いに叫び「そのようなことがあろうか」と言った。帰って指使の陳灌らを召し「金は私を用いようとしている。私は死をもって国に報いるのみだ」と言った。陳灌らは泣きながら拝礼したが、公は「死生は天命である。むしろ不義に屈するよりは死を選ぶ」と言い、すぐさま手ずから一片の紙に「金人は私を罪ありとせず用いるべしと考えているが、貞女は二夫に事えず、忠臣は二君に事えない。順うことを正しさとするのは妾婦の道である。これが私が必ず死ぬ理由である」と書いた。これを陳灌に託して持ち帰らせ諸子に報告させ、ただちに沐浴して着替え、盃に酒を注ぎ、衣の帯で首をくくった。時に十六日であった。燕の人々は口々に「劉相公は忠臣である」と嘆じ、陳灌と共に寿聖院の西の丘に公を埋葬し、院の壁一面にその場所を記した。陳灌が逃げ帰って公の子の子羽に報告し、公のかつての将であった王〓らが兵をもって護衛して城を出、遺体を大殮した。公が薨じてから八十日を経ていたが、顔色は生けるがごとくで、見る者は皆これを異とした。

人となりと施政

  • 公の人となりは荘重寛厚にして口数少なく、人と交わっては謙恭にして畏れがあるかのようであったが、大事に臨めば毅然として動じなかった。大藩を歴任し、事の大小を問わず必ず自ら臨み、寝食を忘れるほどであり、盛暑や厳寒も厭わなかった。宴遊を好まず、少しの暇があっても心が安まらぬ様子であった。政を為すに人を愛することを誠心より出し、民の疾苦を求めることは己の病を除くようであった。豪強を咎めることはその困難を顧みず必ず力を尽くしたが、小民の犯罪はあるいは法を越えて赦し、大奸に至っては躊躇なく即断した。

二朝に仕えた生涯と後世の評

  • 公は二朝に仕え、軍旅の事に関わらぬことはなかったが、これを甚だ厭う心を持ち、閑職を求める章を上げなかった年はほとんどなかった。宣和の間、長楽(福州)の鎮に赴いた際、公は書生の身から白屋(庶民の家)を起こし、ある日、帥節を持って郷里を通った。祖先の墓に上って親旧と酒を酌み交わし平生を労い問い、旬日にわたって留まり去りがたく思い、閩の人々はこれを栄誉とした。晩年はますます官途を厭い、嘉興に田を買って老後を過ごそうとした。舎の傍らには水竹があり、長楽より帰った日には郷里の賢士大夫と逍遥放浪して娯楽し、恬然として仕進の意はなかったが、朝廷は公を用いて止まなかった。
  • 公は長慮遠識に優れ、事に先立って敵の強弱を測り、事の可否を計ったが、その言葉はことごとく後に的中した。歴任した官職はすべて外に補されたため、人々はその才が用いられなかったことを恨んだ。多事の時に至ってようやく大計を任されたが、動けば齟齬をきたしその謀を施すことができなかった。身をもって国に殉じたことは幽明に恥じるところがなかったが、志ある士は国のためにこれを惜しんだ。
  • 李忠定(李綱)は公を悼む詩の序に「士には必ず一死あり、あるいは太山より重く、あるいは鴻毛より軽い。死そのものが難しいのではなく、死に処することが難しいのだ。公は毅然として心を動かさず、死を視ること帰るがごとくであった。家に遺した書はその義を観るべきもので、懦夫を奮い立たせ節を失う士を恥じ入らせるに足る。誠に烈丈夫と言うべきではないか」と記した。
  • 宇文虚中が撰した旌忠褒節碑には「平生無事の時、公はしばしば外に使いし、朝廷で鳴玉の列に陪することは稀であった。たまに入朝すれば言者はすぐさまこれを攻撃した。囲城の中にあってもなお時の宰相に容れられず、ある日、難に死んだことは他の誰よりも毅然としていた。忠義の士には固より自らの節操があることを知る」とある。
  • また「古語に『人の軍師を謀りて敗れれば死し、人の邦国を謀りて危うくなれば亡ぶ』とある。公は初め計をもって敵に勝とうと図り、激怒して軽々しく戦うことを戒めとしたが、専ら謀を握った者は公と相違し、ついに禍いを招いた。謀った者はすぐには死なず、公が先に死んだ。これは特に忠臣義士にとっても難しいことである」とある。