宋名臣言行錄續集卷二十七 傅察

  • 傅察、忠肅公。

出自と経歴

  • 字は公晦。献簡公の従孫にあたる。孟州済源の人。十七歳にして類試により河北運司より高薦を受け、礼部の試を受けたが親を避けるため別に試を受け、また高い選に入った。初めて青州の司法官に任じ、永平・淄川の丞を歴任した。久しくして太常寺丞に除せられ、対問を経て兵部員外郎に除せられ、一年余で吏部に遷った。宣和七年十月(1125年)、宗正少卿を借官として金の使者の接伴使を務め、境上に至って屈せず殺害された。享年三十七。徽猷閣待制を追贈され、乾道中に累ねて少師を追贈された。

蔡京の懐柔を拒んだこと

  • 公が廷試を受ける前、蔡京が輔政の任にあり、権威を売り弄んで中外を脅制していたが、表面は寛容を装い、公を娘婿に迎えようと固く望み、その子と術士数人を続けざまに遣わして公の様子を窺わせ、また姻戚関係を頼んで強いて会わせようとした。公はこれに従わなかった。識者は「公は年少ながら器識があり、容易に測り難い人物である」と評した。後に公は清献公(趙抃)の婿となり、蔡京はこれを恨みに思った。

接伴使としての死

  • 接伴使を務めていた際、金人は既に盟約を破っていた。公が燕山に至り斡里雅布(斡離不)の侵入を聞くと、ある者は母がにわかに立ち去るよう勧めたが、公は「命を受けて出た以上、難を聞いて止まるのは君命に反することになる」と言い、そのまま進んだ。斡里雅布が兵を率いて至ると、金人は「太子(斡里雅布)にお会いしたら拝礼せよ」と言ったが、公は「太子は貴人であっても人臣に過ぎない。賓礼をもって会うべきであり、どうして拝礼する必要があろうか」と答えた。斡里雅布は怒って「お前の国は信を失った。我は南に向けて興師する。海上の盟は頼りにならぬ」と言った。公は「両国は講和し、使者は往来し前後絶えなかった。何をもって信を失ったと言うのか。太子が盟を犯して動くとはどういうことか」と答えた。金の左右は公を捕らえて拝礼させようとし、白刃が林のように迫った。公は「死ぬなら死ぬまでだ。どうして人臣たる者が軽々しく拝礼できようか」と言った。ある者が公を押さえつけ地に伏させようとしたが、公は衣冠を正して立ち尽くし、よろめきながらも最後まで屈しなかった。斡里雅布は怒って「お前は我に拝礼しないのか」と言い、麾いて去らせようとした。公は免れられないことを知り、部下に「彼は我を脅して拝礼させようとしたが、我は義として辱められることを拒み、必ず死ぬだろう。我が父母は老いて常に我を思っており、これを聞けば必ず大いに嘆き悲しむだろう。お前たちが逃れられたなら、私の言葉を覚えて父母に伝え、私が国のために死んだことを知らせて、その果てしない悲しみを少しでも和らげてほしい」と言った。左右の者は皆涙を流した。燕山に至ってついに殺害された。

幼少期の資質

  • 公は生まれつき秀でて他の子と異なり、十歳にして遊戯をせず、書を誦し学を問うことを朝夕怠らなかった。

忠孝の資質と修身

  • 公の忠孝は天性より得たもので、学を好むことに刻意すること幼少より壮年に至るまで一日も廃したことがなかった。かつて学舎に遊学していた頃、同室の者が出入りして飲酒博打をすることがあったが、公一人だけはいつも在室していた。初めのうちは特に異とされなかったが、後に至ってもいつもそうであったため、人々はその修めた慎み深さに感嘆した。

蔣噩との対比における不屈

  • 公は蔣噩とともに接伴使を務め、敵に遭遇した際、噩らは拝礼したが公一人だけは屈せず、「主上は日月のごとく明らかであられるのに、どうして盟を破ろうとするのか。南北は敵国であり、これが死を送る策でないと誰が知ろうか。私はただ死あるのみ、膝を屈することはできない」と言った。