宋名臣言行錄續集卷二十七 程振

程振、字は伯起。饒州楽平の人。太学出身で教授・監察御史・国子祭酒などを歴任し、王黼に忤って一時左遷された。欽宗即位後は時政を厳しく批判し金との対応を諌めたが、靖康二年、金の金銀強要に対し宰相ら四人が官長の責を負わされて処刑される際、自ら官長であると名乗り出て共に殺された。享年五十七。

年表(4件)
  • 程振。

出自と経歴

  • 字は伯起。饒州楽平の人。太学に入り、崇寧三年(1104年)に皇帝が学に行幸した際、高第により和州の教授に補せられ、辟雍に留まった。久しくして博士に遷り、太学博士に抜擢され、外任を乞うて京西路の提学となった。五年、京南倉に改められ、尚書省膳部員外郎に入り、翌年監察御史となり、司業に遷り太子舎人を兼ね、国子祭酒に改められ、左司員外郎に遷って旧官も兼ねたまま、中書舎人に除せられたが王黼の意に逆らい言者に諷せられて弾劾され、冲佑観提挙に責め落とされた。時に宣和三年(1121年)であった。翌年再び集賢殿修撰に復し、喪に服したのち再び徽猷閣待制・中書舎人に除せられたがいずれも力めて辞し拝命しなかった。淵聖(欽宗)が禅譲を受けると、たちまち吏部侍郎に除せられ、連ねて章を上げて辞去を求めたが許されず、開封尹に除せられ、刑部侍郎に除せられた。靖康の初め、兵が京師を陥落させると金を求めて冒死して直に前へ進み殺害された。時に靖康二年二月二十五日(1127年)、享年五十七。建炎の初め朝議大夫に進み、端明殿学士を追贈された。

東宮での進言と王黼の妨害

  • 初め東宮の太子に見えた際、「古の大祭祀では餕(祭祀の残り物)を受け爵を賜るのは必ず正嫡の子であるべきです。既に礼にその旨が載せられ、元豊の彝典にも具わっています。先日、上(皇帝)が明堂において祭祀を行われた際、殿下がお加わりにならなかったのは、宗廟を尊び社稷を重んじる道ではございません」と述べた。太子は驚いて「初めてこのことに言及する者に出会った」と言い、これより急速に公を重んじるようになった。
  • 方臘が浙右に暴れた際、公は王黼に対し「この機に乗じて天下の事について進言し、天意に叶い人心に順うべきである」と述べたが、王黼は不機嫌に「上はまさに私が寇を挟んでいるとお考えになるだろう。どうしようもない」と言った。公は王黼がこの進言を忌んでいると知り答えずに退出したが、太子は公を甚だ力めて推薦しており、朝廷はこれを知らなかった。両省の官に欠員が出た際、上は「程某は老成忠実である。必ず給事中に任じよ」と言ったが、王黼は先の恨みをなお解かず「公は資歴が浅く、また言葉巧みなだけである」と言い、中書舎人にとどめられた。

淵聖即位後の政治批判

  • 淵聖(欽宗)が禅譲を受けた後、公は大臣が協調せず議論が食い違い、詔令が軽々しく改められその実効を失っていること、金人が半年にわたって兵を引かず、和すべきか戦うべきかの説が一定しないことを論じた。濫賞を裁抑することも黒白のようにはっきりしているはずなのに、数か月の間にその説が三度も変わったのは、廟堂が私情を忘れられず多くその党のために計らっているためだと論じた。今日ある人が「これは誤りだ」と言えばそれで止まり、あるいは聖断が過度に及んで諮詢する暇もなく、あるいは大臣の偏った意見が用いられ、その布告が動くだけで必ずしも善処されず処置されるとは限らず、たやすく前言を翻すことになると論じた。虜が河北を侵すと聞くと、諸路の兵を合わせ掎角の勢で撃つことを力めて請い、「彼らがこれほど猖獗であるのに、陛下はなお和議を守り、彼らを少しも懲らしめようとされないのですか」と述べた。淵聖はその言葉を良しとしたが大臣に阻まれて用いることができなかった。

割地要求への対応と死

  • 靖康二年(1127年)、金は天子に自陣営への行幸を求めた。公は急ぎ宰相の何㮚に、金を退けるための言葉を思案して上に告げるよう進言した。何㮚はひそかに翌日車駕が出城すると宣言し、群臣は色を失った。まもなく金は金・絹を無制限に求め、府庫が不足すると民財をもって続けさせようとした。詔により尚書の梅執禮・侍郎の陳知質および公・給事中の安扶が民に輸送を督促することとなった。ある日、金は城壁に座して「我が国は民に羊馬を賦課し、家々に順に割り当てる。もし甲が輸し乙が輸さねば、乙を捕らえて誅する。誰があえて違えられようか」と言った。民は窮すれば変事を生じかねず、隙を狙って発するだろうと恐れられた。梅執禮ら四人は同じく「今、天子は蒙塵し、臣民は皆先んじて死ぬことを願っている。肝脳を計らずとも金や絹などどうということがあろうか。ただ誠にこれ以上応じきれない」と答えた。金は大いに怒り、官の長は誰かと問い、罪を加えようとしてその他の者は放免しようとした。公は尚書がその罪を負うことを恐れ、急いで前に出て「皆が官長です」と言った。金は憤りに堪えず、四人はすべて殺された。上(高宗)が即位すると、その忠を哀れんで璽書を下して褒め嘆いた。

沈積中への戒めと童貫らへの遠見

  • 初め公が中書舎人であった時、王黼の客である沈積中が河朔の帥となり燕を窺おうとした際、公は積中に、いずれ一族が覆るような禍が起こることを思うべきだと語った。積中は公の戒めを心に留め、任地に至ると真っ先に書を送って公に謝した。公はこれをすべて朝廷に告げた。公が左遷されると、童貫・蔡攸はついにこの役(燕京討伐)を興し、変事は肘腋の間に起こる結果となった。公はその凶事に見舞われたため、公の喪を聞いた士は賢愚を問わずすべて涙を流した。

道教崇拝への諫言と両宮の調和

  • 宣和の中頃、上皇(徽宗)が道家の説を崇めていた際、公が東宮に至ると淵聖が問うたので、公は詳しく答えた。その概略は、「周公は鴟鴞の詩を作り、孔子はこれを道を知る者とした。その言葉は、天がまだ陰雨を降らせないうちに桑の根を取って窓戸を綢繆する(備える)ことに過ぎない。老子も道経に『事が起こる前に対処し、乱れる前に治める』と著しており、老氏と孔子が一致するのはこの点である。今、無事の時に根本を固めず、ただ目先の功に汲々とするのは、二聖人の意ではない」というものだった。後日、淵聖が太上皇にこの話をすると、太上皇は大いに感嘆し羨ましがり、左右の近習の臣を疎んじた。しかし楊戩がまさに龍徳・太一の造営を進めていたところで、これが得られなくなることを恐れ、讒言をほしいままにした。楊馮という家令が太子を輔けて非常のことをしようとしていると讒言したため、太上皇は激怒して楊馮を捕らえ誅殺し、淵聖の言もそのまま廃された。靖康中、公が開封尹となった時、利を語る者は両宮(皇帝と太上皇)を離間しようとしたが、公はひとりこれを卑しんで、常に父子の間を調和させ、恩義に厚く接した。龍徳宮の近侍梁忻を鞫問せよとの詔があった際も、特にその罪を寛大にし、これにより些細な疑いも生じなかった。聞く者はこれに感嘆し服した。

人となりと最期の評

  • 公は天性楽しみ易しく、人と談笑する際は極めて醞藉風流であったが、事を論ずるに至っては挺然として揺るがなかった。郷里にあっては専ら人の急を助け、急を頼って公の門に至る者を断ったことがなかった。書物はあらゆるものを読み、あらゆることを学ばなかったものはなかった。文を書くのは敏捷で豊かであり、筆を執れば自ら止まることなく書き進み、書簡は翩翩として千里の彼方でも対面するかのようで、これを見る者は飽くことなく賞玩し、争ってこれを蔵することを栄とした。
  • 龍溪の汪藻が撰した墓誌には、「士は平時に大いに議論を交わし手を打って禍福・死生を自らの任とし、それを人はできないことだと言うが、それは容易いことに過ぎない。ひとたび利害に臨めば、わずかな秋毫ほどの差でも心を失い、その守るところを移す者が少なくない。身を免れることを図って禍いを他人に押し付ける者は肩を並べるほど多い。公の風を聞く者はいくらか恥じるべきであろう」と記されている。程氏の先祖は祝融の裔であり伯休を鼻祖とすること、漢唐を経て南に移り家を建てたこと、そして忠を貫いて死んだ節義が晋の賢人の帰するところに従うべきものであることを称える銘が続けられている。