出自と経歴
- 字は元忠。真州の人。大観二年(1108年)、上舎出身を賜った。靖康の初め、中大夫・門下侍郎・知枢密院事となり、まもなく少宰兼中書侍郎に除された。罷免されて観文殿学士・崇福宮提挙となり、まもなく揚州の知州・明道宮提挙となった。紹興の初め、潭州の知州となったが力めて辞し、資政殿学士・洞霄宮提挙に改められ、のち観文殿学士・湖広宣撫使に復した。二年後さらに宮祠に復し、三年後に卒した。
三省・枢密院の一体化と元祐の名臣への褒贈を請う
- 公は三省・枢密院が並びに祖宗の法に依るべきことを請い、また司馬光・范純仁・張商英への褒贈と、元祐学術の禁の廃止を請うた。上はなお元祐の名を憚り、筆を取って「純仁」を「仲淹」に塗り替え、「もっぱら元祐を顕彰するわけではない」と述べた。そのため当日の詔書では「仲淹」が「光」の下に序された。
露香の禱りに応えた上奏
- 先立って上は毎夕、露香を焚いて天に「力を尽くして興復し、政事を行い賢俊を抜擢して天下を救わんことを願う」と祈っていた。これを受けて公は「政事の規(のり)は陛下が露香の禱りにおいて定められたところです。今こそ次第にこれを実行すべき時です。ただ臣には私に願う二事があります」と述べた。一つは、唐の李徳裕の言に「宰相は速やかに罪せられることはあっても、政令が中書から出ないようにしてはならない」とあるように、自らの不能はただちに罷免してよいが、政令が二省(中書・門下)から出ぬようなことがあってはならないと願うこと。上は「よし」と言った。もう一つは、蘇軾の言に「祖宗が台諫を重んじたのは大臣の奸を察するためである。国朝の制は内を重んじれば天下の権が宰相に集まるため、台諫にこれを察させた」とあるように、自分は宰相の任にあっても常に言路を開いて下情に通じたいと願うこと。上はまた「よし」と言った。
藝祖(太祖)の武定と歴代皇帝を範とする建言
- 公は上に、藝祖(太祖)が受命の初め、やむを得ず澤州・潞州・維揚を親征して平定したのち十年休息し、その後に四方へ兵を用いたことを説いた。太祖が親ら河東に出陣しても攻略できず、退いて将を遣わして蜀を平定した際は、発兵から蜀の攻略まで凡そ四十六日という、古来類を見ない速さであった。しかし蜀の平定後、蜀中は再び乱れ、三年を経てようやく定まった。そこで太祖は曹彬を抜擢し王全斌を廃してもって諸将を戒め、これにより藝祖の将を将する紀律は以後明らかとなり、荊湖・交広・平江南・両浙の平定もすべて意のままとなった。天下の草創がいかに艱難であったかがここに窺える。今、陛下が藝祖に倣って武をもって天下を定めるにしても、これを持続すること久しくして初めて大難を平らげられる。蔡京・王黼が文を壊し、高俅・童貫が武の綱紀を壊し、禍いの兆しは既に久しい。陛下には寛大な聖心をもって速成を求めず、大業を成すよう願う。また、漢の文帝は惇厚な長者を用いて天下は安んじ富んだが、武帝は才知の士を用いて天下は多事となった。本朝の仁宗皇帝は恭倹寛仁で、用いた者は皆重厚であり、日々の計は足らずとも歳の計には余りがあった。神宗皇帝は政事に励んだが、王安石を用いてから急功利の風が起こり、風俗はこれより壊れた。要するに、今日は藝祖の英武と仁宗の恭倹寛仁とを陛下は範とすべきであると述べた。さらに、天下を治める者は天下を一物として扱うべきで、近年は御前銭・朝廷銭・有司銭の別があり、人材にも親擢と大臣の薦引の別があって、天下を分け隔てて扱っているために君臣が相疑い政令が改まる事態を招いていると論じ、陛下には常に天下を一物として見るべきだと願った。上はこれらをすべて嘉納した。
六経の学と春秋学官の再興を請う
- 公はまた上奏し、六経は世を治める法として天が定めたものであり、三代以後、生民が一飯の安をも得られたのはすべて六経の功であることを久しく世は知らずにきたと述べた。ただ秦の禍で礼楽が失われたことを恨むところ、近年は王安石が経術を自ら任じてその一つ(春秋)を廃し、魯史が既に亡んで三伝も信ずるに足らぬとすれば春秋は永遠に考証できないとしたが、聖人が経を作った際にどうして後世の書が次第に湮滅することを予見しなかったはずがあろうか、と反論した。昔、韓宣子が魯に赴き易象と魯春秋を見て「周礼は尽く魯にあり」と言った。易は天道を明らかにし、春秋は世法を著すもので、文王の易と孔子の春秋はいずれも周礼の存するところである。よって明詔を下して春秋の学官を復し、三年ごとの貢挙で取士することを願うと述べ、皆その通りとなった。