出自と経歴
- 字は伯修。建州建陽の人。進士に挙げられ、昭慶軍節度書記となり、臨安県の知事を務めた。監察御史に召され、開封諸県鎮の事を提点し、解州の知州となった。入朝して考功員外郎となり、宣州の知州となって蘇州に移り、徽宗即位に及び殿中侍御史に召された。
蔡京弾劾の先見
- 諫官・御史は、専ら天子の逆鱗に触れることを恐れず奸邪を排撃するのを職とする。論じても切実さを欠けば人主の意を動かせず、早くに弁じなければ禍乱の萌芽を断てない。建中靖国の初め、蔡京がまさに翰林学士承旨であった当時、聡明な人々でさえ蔡京がやがて天下を乱すことになろうとは知らなかった。ところが公だけは慨然として上奏し、その過悪を条を分けて論じ、章を四、五度も上げて止まなかった。そして「もし京を用いれば、治乱はここから分かれ、祖宗の基業もここから傾きます。臣が自愛して憂えているのではありません。陛下のため、社稷のため、天下の賢人君子のために憂えているのです」と述べた。まもなく蔡京は執政となり、自分に異を唱える者をことごとく逐い、寵を固め権を市(う)り、主君の耳目を惑わせて国柄を握ること二、三十年に及んだ。これにより諫諍の路は絶たれ、ついに兵革が興り生民は塗炭に苦しむこととなった。公の言葉が的中したのはここに始まる。先見の明と言わずして何と言おうか。