宋名臣言行錄續集卷二十六 曹輔

曹輔、字は載徳。南剣州沙県の人。元符三年(1100年)進士に及第し、地方官・台諫を歴任した。徽宗の軽率な外出を諫めて左遷される剛直の士であり、靖康年間には金への対策・和戦両様の備えを説き、張邦昌の僭位を拒んで高宗を出迎えた。高宗即位後も力を尽くし在任のまま没した。享年五十九。

年表(3件)
  • 曹輔。

出自と経歴

  • 字は載徳。南剣州沙県の人。元符三年(1100年)進士に及第し、福州寧徳県の尉に任じられた。喪に服したのち寿州安豊県の主簿となり、詞学兼茂科の試に及第して〓令所の刪定官となり、安粛軍の通判に転じた。南外宗室財用を掌り一月に満たず秘書省正字に改められたが、上書したことで郴州に編管される罪を得て六年を過ごし、量移されて袁州に移された。靖康の初め召還されて諫議大夫に任じられ、まもなく給事中に遷り、御史中丞に任じられ、僉書枢密院事に任じられた。張邦昌の僭位に際し脅されて政務を執らされたが、私室に籠って病と称し出仕せず、死を誓って済州へ奔り高宗を出迎えた。高宗即位に及び内侍を遣わして都堂での職務に赴かせられたが、その日のうちに暑病を得て三度上章して致仕を乞うたが許されず、在任のまま薨じた。享年五十九。

車駕の軽率な外出を諫めた上書

  • 宣和の初め、車駕(皇帝)がしばしば軽々しく外出し、朝士大夫は寒心しながら誰も敢えて言う者がなかった。公は秘書省正字として慨然と上書した。翌日、上はこれを宰執に示して都堂に召し審問させた。太宰の余深は「小臣ふぜいがこのような大事を論じるとは」と言うと、公は「臣に小と大の別があろうとも、君を愛する心は一つです」と答えた。深が「兵戈が軫下より起こるとは、あまりに峻烈ではないか」と言うと、公は「小臣の言葉が激切でなければ至尊のお心を動かせません」と答えた。少宰の王黼は「そのようなことが本当にあるのか」と言うと、公は「このことは巷間の民でさえ知らぬ者はいません。相公は国政を執りながらお一人ご存じないとは。それでも知らぬと仰るなら、宰相はいったい何のためにおられるのですか」と答えた。王黼はこれを自分への当てこすりと憎み、属吏に命じて公から供述を取らせたが、公は筆を執り「区々たる此の心はただ君を愛するのみで、他に求めるものはございません」と記し、二度突き返されてもついに言葉を変えなかった。この件は上に聞こえ、公は遠地の小官へ左遷され、まもなく郴州への編管となった。

金への対策と将の起用をめぐる進言

  • 天子より召し対面して議論した際、上が「今憂うべきは金人である」と言うと、公は「賢相があれば金は恐るるに足りません」と答えた。上が「朕が憂うのは将がいないことだ」と言うと、公は「漢の高祖は蕭何を丞相に得、韓信を大将軍として兵柄を任せ、ついに帝業を成しました。相が人を得れば韓信のごとき将も出てまいります。将のことも憂うるに及びません」と答えた。後日また面奏し、「陛下がこの数人(時の権臣)を艱難の際に用いれば、必ず事を敗ります」と述べた。

辺境の地図作製の建言

  • また河北・河東・陝西の三路のうち山川の険易・出入向背に習熟した者に三路の図を描かせて進呈させ、控扼の要地や分屯・戦守・制敵の要を究め、将を遣わし師を出す際には図に照らして計画を定めるべきだと乞うた。

金への使者・王雲の帰還と講和交渉への異論

  • 王雲が使者として赴いた後、遣わされた人が復命し、大金は十六字の徽号や玉輅・袞冕などの儀物を得たいと望んでおり、三鎮を求めることはもうしないと言っていると伝えた。朝廷はこれを聞いて安堵し、皇帝を尊んで加えるべき語を推し量ろうとした。乗輿はまさに国境まで進んで屈己し民を愛するのが社稷の大計であるべきと考えられたが、公はひそかに「社稷の大計はまさにこの一挙にかかっているが、あるいは一時の憂いを寛げるばかりで異日に禍を移すことを知らぬのではないか。そうなれば天地が位を易え神民が帰する所を失うような、忍びざる事態を招くことになりましょう」と考えた。なぜなら、このような尊号を与えれば彼は名に縁って実を求め、このような儀器を与えれば彼は器に縁って用を求めるからである。一、二年のうちに観兵・較猟あるいは省方・巡狩を名目に全軍を挙げて我が境に迫り、大言壮語をもって我に号令し、自ら天下随一と称して四海に妾を置くだろう。その時、頭を垂れて聴き従うか、あるいはこれを拒むか。拒めば強弱が敵わずその禍いは前より甚だしく、頭を垂れて聴き従えば天地は位を易え神民は帰する所を失うことになると論じ、魯仲連が秦を帝と仰ぐことを退けた故事を引いて証とし、千余言にわたって曲折詳尽にこれを述べた。

和戦両様の備えを説く上疏

  • 奉使・計議に遣わされる人々はみな和議に改められ、左右の輔臣も議が一致せず引退を図る動きがあった。公は上疏して「今の議論は、ひたすら和を説くのも誤り、ひたすら戦を説くのも誤りです。ひたすら和すれば敵勢が凌ぎ国威が挫かれ、三鎮を求める要求はまた前の約を追うでしょう。ひたすら戦えば堂々たる二百年の基業が交鋒の間の成敗にかかり、その危うさは甚だしいものとなります。臣は和を名として戦を実とし、この二つのいずれも廃さず、ただ先後をもって用いることを願います」と述べ、上は深くこれを是とした。

金使をめぐる警戒と急務五事の上奏

  • また、金の使者王汭が和議を名目に朝夕闕に到来していることについて、国事を謀る臣がその甘言軟語を敵の真情と誤り、あるいは備えを緩めて金人の計中に陥れば、先の禍いが再び至ることを恐れると論じた。そして朝廷が急ぐべきなのに緩んでいる五事を挙げて上奏した。邢州・洛州・磁州・相州は敵の南下の要衝でありながら将を任じて兵を分け、屯を置き寨を列ねる措置を講じていないことなどが、いずれも当時の急務であった。

京城防衛と康王擁立の献策

  • 金軍が京師に迫った際、宰相の何㮚が守禦を統率し、公はその副となった。何㮚は公が謝礼の使者を派遣したことを妬み、公は金営に留められること七日にして帰還した。何㮚はまさに妖人郭京を信じ、六甲の兵と称して市井の無頼数千を募り、強引に出戦させようとした。公は「古来、妖術で用兵を成功させた例はない」と力めて争ったが聞き入れられず、病と称して機務からの解任を乞う章を三度上げたが返答がないうちに京城は陥落した。金人は大元帥(康王)が兵を率いて外にあることを不安に思い、これを京師へ迎え還そうとし、朝廷はやむなく興仁府へ迎えの兵を遣わした。公はひそかに上に「今、外に頼るべきはただ康王のみです。あの方を外に留めておけば、敵もなお憚るところがありましょう」と啓した。上は「卿の言は極めて正しい。しかし一片の公文を得て復命させるだけでよい」と答えた。公は興仁府に至り、その事情を康王側に語り、守将はこれを聞いて公文を回収してしまった。金は再び鑾輿(皇帝)の郊外への出頭を求め、議は決しなかった。何㮚が事を奏上して退出すると翌日には車駕が出城するとの命が出た。公は急ぎ「金の意図は測りがたく、この行は先日とは違うのではないか」と言ったが、何㮚は声を荒げて公を詬った。公はまた馮澥とともにこれを説得しようとした。馮澥は何㮚と同郷で年長であったため、少しは聴き入れられることを期待したが、何㮚は従わず、ついに金営へ行幸するに至り、以後は北へ拉致されるまで、すべて公の予測した通りとなった。

帰還後の受難と康王への上書

  • 金が北へ引き上げる際、使者を遣わして公を京師へ還らせた。当時、張邦昌の僭位から既に二十余日が経っていた。帰るとすぐ病と称して出仕せず、邦昌がしばしば脅して政務を執らせようとしても、公は死を誓ってこれを固く辞した。ひそかに書を太学生の楊愿・陳扑に託して康王へ献じ、たまたま康王が遣わした黄永錫が京師に至ったのに乗じて、公は囲城および政変の始末を具に述べた書を付して進呈し、そのまま済州へ奔って康王を出迎えた。

南京での五事の上奏

  • 公は康王に従って南京に至り、まず五事を陳べた。一に要害の地に分屯して兵伍を整えること、二に新都を区画整理して公私の便を図ること、三に人材を甄別選抜し登用して功勲を共に図ること、四に恩威を並び行い、叛く者は討ち服す者は赦すこと、五に近辺の地を分けて数節鎮とし秋の防備を謹むことである。上はこれを嘉納した。