宋名臣言行錄續集卷二十五 黄庭堅
黄庭堅、号は山谷先生、諡は文節公。字は魯直。洪州分寧の人。治平四年(1067年)進士第に登第し、以後神宗・哲宗・徽宗の三朝に仕えて地方官・史官・侍従を歴任した。蘇軾に並ぶ元祐の文人として知られ、詩文・書法に優れたが、新旧党争と趙挺之との私怨から実録改竄事件・宜州流謫の禍いを受け、配所で没した。
年表(13件)
- 治平四年1067年進士第に登第し汝州葉県の県尉となる
- 元豊三年1080年吉州太和県の知事となる
- 元豊八年1085年哲宗の即位に伴い校書郎に任じられ実録院検討を兼ねる
- 元祐二年1087年著作佐郎兼史館に任じられる
- 元祐三年1088年著作郎に任じられるが趙挺之の言により著作佐郎に戻される
- 元祐六年1091年起居舎人に任じられるが韓川の言により旧職に戻される
- 元符三年1100年徽宗の即位により赦され宣義郎・監鄂州税に復す
- 建中靖国元年1101年権知舒州に任じられる
- 崇寧元年1102年太平州知事となるが九月に罷免され祠官となる
- 崇寧二年1103年宜州へ羈管の処分を受ける
- 崇寧三年1104年永州へ移される命が届く前に没する
- 紹聖二年1095年実録改竄事件で史官として糾問され毅然と答える
- 崇寧三年1104年承天寺の塔記に名を連ねることを断ったことから讒言され流謫の契機となる
出自と経歴
黄庭堅、号は山谷先生、諡は文節公。字は魯直。洪州分寧の人。治平四年(1067年)進士第に登第し、汝州葉県の県尉に任じられた。熙寧年間、北京の教授となった。元豊三年(1080年)吉州太和県の知事となり、八年(1085年)哲宗が即位すると校書郎に任じられ実録院検討・集賢校理を兼ね、右諫議大夫に除された。元祐二年(1087年)正月、著作佐郎兼史館に任じられ、三年(1088年)五月著作郎に任じられたが、趙挺之の言によって著作佐郎に戻された。六年(1091年)七月起居舎人に任じられたが、韓川の言によって旧職に戻された。八年(1093年)編修官に任じられた。紹聖初め宣州知事となり鄂州に改められ、七月に祠官に任じられ、十二月に涪州別駕に責め下され黔州に安置された。元符初め戎州に移された。三年(1100年)徽宗が即位して赦され、宣義郎・監鄂州税に復し、十月奉議郎・定国軍僉判に復した。建中靖国元年(1101年)三月、権知舒州に任じられた。崇寧元年(1102年)太平州知事となったが、九月罷免されて祠官となった。二年(1103年)十一月宜州へ羈管の処分を受け、三年(1104年)永州に移されることとなったが、命を聞かぬうちに没した。紹興初め、特に直龍図閣を贈られ、後にたびたび加贈されて太師に至った。
七歳・八歳の詩才
七歳で「牧童詩」を作ることができた。八歳では、人が科挙に赴くのを送る詩を作り「君を送り帰らしむ玉帝の前、若し旧時の黄庭堅を問わば、謫せられて人間に在ること今すでに八年」と詠んだ。
治平年間の郷試
治平丙午年(1066年)、先生(黄庭堅)は再び郷挙に赴いた。詩の題は「野に遺賢無し」であった。試験官の廬陵の李詢は先生の詩の中の二句「渭水空しく月を蔵し、傅巌深く烟を鎖す」を読み、節を打って賞賛し「この人物は文理において場中随一であるだけでなく、いずれ詩をもって四海に名を馳せるだろう」と批し、先生はついに首席に選ばれた。
李詢についての注記
李詢は字を仲同といい、幼武の先祖にあたる人物である。廬陵の朋川に住み、皇祐己卯年(1039年)に及第し、後に奉議郎として致仕した。その孫の忱は字を彦誠といい、これもまた及第し、元祐六年(1091年)に洪州の獄掾となった。先生とは世代を超えた親交があり、その交流は書帖に詳しく記されている。周益公(周必大)がこれに跋を書いている。並びに先生年譜による。
葉県尉時代の詩
葉県の尉であったとき「新寨」の詩を作り「俗学近ごろ回首の晩きを知り、病身全く折腰の難きを覚ゆ」の句があった。この詩が都に伝わると、半山老人(王安石)はこれを見て節を打って称賛し「これは清らかな才であり、奔走する俗吏の作ではない」と評した。これによって北京の教授に任じられ、すぐに文潞公(文彦博)に知られることとなった。
熙寧年間・友人からの贈り物
熙寧年間、宮教(教授)であったとき、開府(五開府)の者が酒宴の折に浅色の畨羅襖を脱いで先生に着せた。先生は酔中で詩を作り「疊送する香羅、浅色の衣、著来すれば春気書帷に入る、家に到れば慈母驚いて相問う、為に説く王孫脱贈の時」と詠んだ。
趙挺之との対立の発端
元祐年間、先生と趙挺之はともに館閣にあった。先生は趙挺之が魯(山東)の出身であることから常にこれを軽んじていた。厨房の吏が食事の内容を尋ねに来るたびに趙挺之は必ず「明日は蒸餅を食べる」と答えていた。ある日、皆で集まって酒を飲み言葉遊びの令を行った際、先生は「五字を頭から尾まで各一字ずつ挙げ、最後にこれを合わせて一字にする」という遊びを提案した。趙挺之は長らく考え込んだ末に「禾・女・委・鬼・魏」と答えた。先生はすぐさま「来・力・(欠字)・正・整」と答えたが、その音は「趙」に通じるものであった。一座は大いに笑った。趙挺之はまた「郷里では潤筆料(原稿料)を最も重んじ、墓誌一篇が完成すればいつも大八車に載せて贈るものだ」と語った。先生は「それはきっと大根と塩漬け野菜ばかりだろう」と言った。趙挺之はこれを深く恨みに思い、以後力の限り先生を陥れ、ついに宜州への流謫を招くこととなった。
元豊実録改竄事件での毅然たる対応
紹聖二年(1095年)、章惇・蔡卞ら奸臣たちが実録を論じて誣告し、前の史官たちを畿甸に分けて拘留し、摘発した千余条を示して「証拠が無い」と主張した。ところが史院の吏が調べ直すと、いずれも根拠があり、残ったのはわずか三十二事、それもごく些細なものであった。先生はかつて「鉄龍爪治河」(黄河治水の一種の機具)について「まるで子供の遊びのようだ」と書いたことがあり、これがまず問題とされた。先生は「私はその頃、北都の官にあり自ら目にしたが、実に子供の遊びのようであった」と答えた。すべての問いに対してこのように率直な言葉で答えたので、これを聞いた者はみなその剛毅さに感服した。
趙挺之との別の対立
東坡(蘇軾)が語るところによれば、趙挺之は元豊末年に徳州の副知事であった頃、先生はちょうど徳平鎮の監督であった。趙挺之は提挙官の意向に迎合しようとし、この鎮で市易法を実施しようとしたが、先生は「鎮は小さく民は貧しい、これ以上収奪すれば必ず民は散り散りになる」と反対した。公文の往来はやがて士人の間で語り草となった。
崇寧三年・宜州流謫のきっかけ
崇寧三年(1104年)、蜀から三峡を出て荊州に留まり、辞免・乞郡の命を待っていた。府帥の馬珹と非常に親しくしていた。閩人の陳挙は台官から漕運の官に出た人物で、先生とは元来交わりが無かった。承天寺の僧が先生に塔記の文を頼み、完成すると馬珹は諸部使者を塔下に招いて宴を開いた。人々が先生の書いた碑を取り囲んで見ていたとき、碑文の末尾には「記を作りしは黄某、石を立てしは馬某のみ」とだけあった。陳挙・李植・林虞は互いに顔を見合わせ、先生に「私どもも名を連ねさせていただき、不朽を託したいと思いますが、いかがでしょうか」と願い出た。先生は答えなかった。陳挙はこれを恨みに思った。陳挙は先生が以前河北で趙挺之と対立していたことを知り、趙挺之が政を執ると、拓本を差し出して「災いを喜び国を謗った」と訴えた。先生はついに除名され宜州に羈管された。
零陵での曽紆との交わり
家族を連れて南に流される途中、零陵に泊まった際は独りで貶所に赴いた。曽紆は党争に連座して先にこの郡に流されており、先生は一ヶ月余り滞在して大いに親しく交わり、互いに詩を唱和した。「江樾書事」などの詩がこれにあたる。二人でともに浯溪に遊び「中興碑」を観た際、先生は詩を賦して自分の姓名を詩の左に書こうとしたが、曽紆は急いでこれを止めて「あなたの詩文はひとたび世に出れば即日流布します。今方(あなた)は流人の身であり、どうして郊外に姓名を出してよいでしょうか。あなたはさらに遠方に流される可能性があります。蔡元長(蔡京)が国政を執っている以上、これを警戒しないわけにいきません」と述べ、これに従って中止した。
宜州での貧しい生活
李資深の書巻に跋して「私は宜州に流されて半年、役所は私が城内に住むべきでないとして、寝具を抱えて子城の南に宿った。借りた住まいは『喧寂斎』と名付けたが、屋根の上には葦、傍らには風が吹き込み、何の覆いも障りも無い。市の喧騒を人は堪えられないものと言うが、私の本業は農桑であり、もし進士とならなかったら、田舎の粗末な家はこのようなものだっただろう、どうして堪えられないと言えようか」と記した。すでに寝台を設け、香を焚いて座っていたが、西隣は牛を屠る店であり、その机と向かい合っていた。三文で鶏毛筆を買い、これを書いたという。
楊萬里による宜州祠堂記
誠斎楊公(楊万里)が宜州の祠堂記に記すおおよそは「私が聞くところ、山谷(黄庭堅)が初めて宜州に着いたとき、ある百姓の家に泊まったが、太守はその家人に罪を科した。ある僧の家に泊まったが、同じく罪を科された。ある宿屋に泊まったが、また罪を科された。結局、戍楼(見張り台)に泊まらせたのは、彼を囚人のように扱ったのである。彼が流謫の地で没したのは、飢えと寒さのためであった。先生の流謫は当時の宰相によるものであったが、太守によっても罪を得たと言えるだろうか。鹿の肉は人の食であり、君子は小人の資(餌食)となるものだ。誰が先生の身をもって小人の餌食にさせたのか。先生が太守に罪を得ていなかったとすれば、太守は当時の宰相に罪を得なかったことになる。罪を得ないどころか、かえって栄達を得ることになる。今から見れば、当時栄達を得た者がどれほどいただろうか。しかし先生が飢寒のうちに窮死した地は、今や騒人文士がこれを仰ぎ見る場所となっている。来る者は思いを馳せ、去る者は懐かしみ、いわゆる太守なる者の名は今なお臭気を放っている。すなわち君子にとって、小人に罪を得ないことこそ患いとすべきであり、罪を得ることは何も憂うるに足りないのである」とあった。
九江の碑工の逸話
九江に彫刻の巧みな碑工がいて、先生はその居所に「琢玉坊」の名を書き与えた。崇寧初め、詔によって郡国に元祐党籍の姓名を刻ませることとなり、太守は彼を呼んでこれを彫らせようとした。碑工は「私は元来貧しかったのですが、蘇内翰(蘇軾)・黄学士(黄庭堅)の詞翰を彫らせていただいたおかげで、生活が豊かになりました。今日、姦人の名として彫るのは、どうしても手を下すことができません」と答えた。太守はこれに感じ入り「賢いことよ、士大夫にも及ばぬ心がけだ」と言い、酒肉を贈ってその願いを聞き入れた。
蔵真の書法をめぐる逸話
かつて元祐年間、蘇子瞻(蘇軾)・穆父(劉安世か李常か)と共に宝梵寺の僧舎で食事をした折、草書数紙を作ったところ、子瞻はこれを大いに賞賛したが、穆父は一言も発せず、ただ「あなたはまだ蔵真(懐素)の真筆を見ていないのではないか」とだけ言った。先生は内心これを不快に思った。紹聖年間、黔中に流され懐素の自叙帖の石刻を陽休の家で得て、数日つぶさに観察するうちに、恍惚として悟るところがあり、筆を下すとかえって以前の作より優れていることに気づいた。「以前の作品を見れば笑ってしまうほどだ」と語り、ようやく穆父の言葉が誤りでなかったことを知り、それを見せてくれた時に及ばなかったことを恨んだ。
「換羊書」の逸話
かつて東坡に戯れて「昔、王右軍(王羲之)の字は鵞鳥と交換されたが、韓宗儒は大食漢で、いつもあなたの一帖を殿帥の姚麟のもとに持って行き、羊肉数斤と交換していた。あなたの書は『換羊書』と呼ぶべきだ」と語った。東坡が翰苑にあったある日、誕生日の祝辞の起草が立て込んでいたとき、韓宗儒は続けて手紙を書いて見返りを求め、使いの者は急かして督促した。東坡は笑って「本官に伝えよ、今日は屠殺を止める」と言った。
濁った人物への嘲り
かつて濁った俗物の老人を嘲って「濁気は撲っても破れず、清風は倒れて射返す」と詠んだ。東坡は「これに勝る評言はない」と語った。
詩論
「詩詞の高いところは学問から来るべきものだ。後に学ぶ者は時に妙句を得ることがあっても、それはまるで目を閉じて象を撫でるようなもので、触れた部分についてはその通りでも、全体としては正しくない」と語った。また「詩は空をうがって無理に作るべきではない、境に対して自然に生じるのを待てば自ずと巧みになる。作るたびにまず大意を立てるべきで、長編では曲折し三度意を尽くしてこそ章を成す」と語った。
詩の本質についての論
「詩とは人の情性であり、強いて庭で諫争したり、道で怨み詬ったり、隣を怒り座を罵ったりするものではない。忠信篤敬な人が道を抱いて世に居り、時と乖離し、物事に遭って悲喜を感じても、同床の者にも察せられず、同時代の者にも聞かれず、その情が堪えられなくなったとき、詠嘆や調笑の声に発露される。心中はこれによって釈然とし、聞く者もまた励まされる。律呂に合わせて歌え、干羽を並べて舞えるようなもの、これが詩の美である。それが謗訕や侵陵となり、首を引いて矛を受け、衣を開いて矢を受けるほどの一時の憤りを晴らそうとするものになれば、人はこれを『詩の禍』と呼ぶが、これは詩の趣旨を失っているのであって、詩そのものの過ちではない」と語った。
「奪胎換骨」の詩法
「詩の意は無窮だが人の才には限りがある。限りある才で無窮の意を追い求めれば、陶淵明や杜甫(少陵)でも巧みにはできない。意を変えずにその語を作ることを『換骨法』と言い、その意を規範として形容することを『奪胎法』と言う」と語った。
李白の詩評
李白の詩を評して「黄帝が洞庭の野で音楽を奏でるようなもので、首も尾もなく、決まった型に依らず、墨工や版木職人が真似できるものではない」と述べた。
読書についての教え
「昔、譙周に天文を学ぼうとした者に対する話のように、古人には『敵を並べて千里を一挙に討ち、将を殺すには心地の修養によって汗馬の功を収めねばならない』という言葉がある。書を読めば味わいがあり、書冊を手放して遊び休んでも、書の味わいは胸中に残る。長らくすれば古人の心の用い方が見えてくる。このように一、二冊の書に心を尽くせば、あとは竹を割るように迎え刃で解けるものだ」と語った。
人生観
「人は一年に十匹の衣を着て一日に二盂の飯を食べて一生を終える、それなのに一年中荒々しく疲れ果てて働くのはどういう理屈か。男女の婚姻や嫁ぎ先は各々生まれ落ちたときから衣食の分限が定まっているものだ。いわゆる『これを狭い路地に投げ置いても牛羊がこれを育てる』というように、溝壑に凍え飢える者すら天は殺すことができない。今、眉をひそめて一日中悩むのは、まさに百草が春に萌え出るのを憂えているだけのことだ。青山白雲や江湖の澄み切った様子には、これ以上何を嘆く必要があろうか」と語った。
王栄老と扇の逸話
王栄老がかつて観州に赴任していたが、任を解かれて観江を渡ろうとしたところ、七日間風が止まず渡ることができなかった。父老が「あなたの舟中に必ず珍しいものがあるはずだ。この川の神は非常に霊験あらたかなので、必ず献じれば渡ることができるだろう」と言った。栄老は何も無いと思ったが、ただ黄色の麈尾(払子)があったのでこれを献じたが風は止まなかった。次に端渓の硯を献じたが風はますます強くなった。さらに宣包・虎帳を献じても効果は無かった。夜、寝床で考えていると「魯直(黄庭堅)の草書の扇があった、韋応物の詩を題している『幽草の澗辺に生ずるを憐れむが為に、上に黄鸝有りて樹を遶りて鳴く、春潮帯雨晩来急に、野渡人無く舟自ら横たわる』」と思い出した。取り出して見ると、その恍惚たる筆勢に「私自身鬼神が分からないのに、どうして鬼神がこれを識別できようか」と思いつつも、これを献じた。香火がまだ消えぬうちに、天と水が互いに映り、まるで二つの鏡が向かい合うように、南風が徐々に吹いてきて、一時のうちに舟は渡り終えた。洪覚範(恵洪)は「この神はきっと元祐の流謫者の霊魂だろう、そうでなければどうしてこれほど深く好むだろうか」と語った。
朱熹による評
朱文公(朱熹)は『東都事略』を読んで学者に「これはただ影のようなものを伝えているに過ぎない、黄公(黄庭堅)にも良いところがあるが、載せられていない」と語った。ある人が「どんな良いところがあるのですか」と問うと、「彼もまた孝友であった」と答えた。並びに文公語による。
陳師道との文章比較
山谷(黄庭堅)は物事の情を叙するのが巧みで、叙し尽くすことができるが、后山(陳師道)は叙述がやや疎な部分がある。しかし散文になると、山谷は后山に大きく及ばない。
文章創作時の気概
后山(陳師道)と山谷(黄庭堅)はともに文章を語ることを好んだが、実際に作る段になると気力が萎えてしまうことがあった。
二人の気質の比較
后山は元来頑健で山谷に似ているが、気力は山谷ほど大きくはない。ただし山谷ほどの軽薄な意識は持ち合わせていなかった。