宋名臣言行錄後集卷二十四 徐積
出自と経歴
徐積、号は節孝先生。字は仲車。楚州の人。進士第に及第。官は宣徳郎に至り、節孝処士の号を賜った。
母への礼を尽くす姿勢
先生(徐積)はかつて公裳を整えて貴官に会う際、ふと「貴官に会うときですらこのように公裳を整えるのに、朝夕母に会うのに公裳を整えないでいてよいだろうか」と考え、以後朝夕公裳を整えて母に挨拶するようになった。
胡瑗への師事と心の正しさ
初め安定先生・胡瑗に学び、心を潜めて力を尽くして実践し、仕官を求めなかった。自ら語るには、初めて安定先生に会って退出した際、頭の傾きがわずかにあったところ、安定先生は厳しい声で「頭は真っ直ぐにすべきだ」と言った。徐積はこれによって「頭だけでなく心も真っ直ぐでなければならない」と自省し、以後邪心を持たなくなった。
母への孝行
先生は母に仕えること謹厳で、大事が無い限り母のそばを離れなかった。日々母(太夫人)の好むものを整え、手に入らなければ市中を走り回って求めた。人々はその純粋な孝心を慕い、値段を割り引いて売る者もいた。太夫人が食事をするときは、家人を左右に侍らせて子供の戯れや歌を演じさせて母を喜ばせた。それゆえ太夫人は貧しい路地に住んでいても、その奉養は富貴の家と変わらず、少しの間も心地よくないことがなかった。礼部の会試に応じる際も一日たりとも親のそばを離れることを忍びず、徒歩で母を車に乗せ西に上京した。ある日、人から借りた書冊を一晩で返したところ、その人は必ず異論を挟まないと知って「冊の中に金の葉が入っていた」と誣告した。先生は謝罪し、衣を売って金を弁済しようとした。これを聞いた人々はみな不当だと感じ、無理にその金を返すよう強いたが、先生はついに受け取らなかった。
婚姻を控えた理由と父の諱を守る逸話
壮年を過ぎても娶らなかった。ある人がこれを勧めると、先生は「適した人でなければ必ず母を悩ませることになる。私が跡継ぎを忘れているわけではない、ただ時を待っているだけだ」と答えた。父の羅城君の諱が「石」であったため、生涯石器を用いず、石に出会えば避けて踏まなかった。ある人が「天下では石が広く用いられている、それをすべて避けなければ孝と言えないのか」「山中を歩くときはどうするのか」と問うと、先生は「これは私の私的な行いに過ぎない、必ずしも固執して避けているわけではない。ただ石を目にすると心が痛むので、親の名にちなむ物の上に足を置くのを忍びないだけだ。もし他日、君命があれば、私事を優先させることはない」と答えた。
母の死と喪に服す姿
太夫人が病で亡くなった際、先生は号泣して血を吐き、気を失った後にようやく蘇生した。哭くのを止めず、水や汁も七日間口にしなかった。墓のそばに廬を結び三年間、荒莚に伏し土塊を枕とし、喪服を身から離さなかった。雪の夜にも哀号して墓に伏し、太夫人に「寒くはありませんか」と生前のように呼びかけ、倒れ伏して手足が裂けても顧みなかった。住まいの茅屋は風雨をしのぐこともできなかったが、農夫や樵夫は先生を神のように仰ぎ見た。訴訟のある者は必ず先生を訪ね、義によって裁決を受け、みな喜んで従い、二度と役所に訴えることはなかった。太守が先生を招いて学校に入らせると、先生は州学の中に住んでも、なお両親の位牌を祀り、朝夕の起居に自ら炊事し器を洗い、食事を供えることは母が生きているかのようであった。冬は火で衾を温め、夏は扇であおいで蚊を払い、母が生前好んだものを思い出しては供え、一日たりとも酒を供えないことはなかった。
学問についての教え
先生は日頃、学ぶ者を教えるにあたって常に「心を治め気を養う」ことを第一とし「修身と学問に努めることこそ文を作る要諦であり、これに勝るものはない」と語った。晩年には著書を志したが未完のまま病に倒れた。かつて「私の著書の大要は、正をもって心を治め、直をもって気を養うことに尽きる」と語った。ある人が朝廷に立つ要諦を問うと「正をもって君を輔ける」と答え、また修身の要諦を問うと「正をもって身を修める」と答えた。遠方から大きな軸物を送って教えを請う者があると、先生は大きく「正」の一字を書いて与えた。
天文学への造詣
先生は天文学に特に精通していた。門人がこれについて問うと、先生は「昔、譙周に天文を学ぼうとした者がいた。譙周は『天下の事で学べることは非常に多いのに、なぜ天文だけを学ぼうとするのか』と答えたという」と語った。
諸葛亮への敬慕
先生は前代の名将の中でも特に諸葛武侯(諸葛亮)を深く慕っていた。その学識の広さと修養の厚さによるものである。かつて「兵は実に大賢盛徳の事であり、小才小知の及ぶところではない。用いることが難しいだけでなく、これを論じることもまた難しい。もし修養が足りないままに軽々しく論じれば、事を破ることが多いだろう」と語った。
文章の作り方
先生は文章を作るとき、多くは腹稿(頭の中で作った下書き)によって口述筆記した。かつて「文字は胸中にあり、言葉として出すのに間に合わないものは数え切れないほどある」と語った。
君子たることの勧め
先生はある日、講堂に立って諸生を訓じ「諸君が君子になろうとして、自分の力を費やし自分の財を費やさなければならないなら、それをやめるのも仕方ない。しかし自分の力も財も費やさずに済むなら、なぜ君子にならないのか。郷人がこれを賤しみ父母がこれを憂うようなことなら、やめるのも仕方ない。しかし父母が望み郷人が誉れとするなら、なぜ君子にならないのか」と語った。王資深撰の行状による。
附 陳無己(陳師道)
名は師道、字の一つに履常。侍従の推薦により徐州教授となり、官は秘書省正字に至った。
無己(陳師道)は苦節にして志を厲まし、若い頃から早くに自作の文章を携えて南豊の曾舎人(曾鞏)に謁見した。曾鞏は一度見ただけでその文才を奇として、必ず文をもって著名になると認めたが、当時世間の人々はまだこれを知らなかった。潁州にいたとき「六一堂」の詩を賦し「向来一瓣香、敬為曾南豐」の句があった。謝克家撰の文集序による。
傅公欽之(傅堯俞)が初めて吏部侍郎となったとき、師道が京師に遊学していると聞き会いたいと考え、まず秦観にこれを尋ねた。秦観は「師道は名刺を持って畏まった態度で公卿の門に伺候するような人物ではありません、招くのは難しいでしょう」と答えた。傅公は「そんなことは望んでいない、ただ会いたいだけだが、会ってくれないことを恐れている。あなたが陳君との間を取り持ってくれないか」と述べた。傅公は師道が非常に貧しいことを知り、金を懐に入れて贈ろうとしたが、実際に師道の顔を見てその議論を聞くと、ついにこれを口に出すことができなかった。
陳履常(陳師道)は都に一年余り住んでいたが、一度も貴人の門を訪れることはなかった。章子厚(章惇)が一度会おうとしたが、ついに叶わなかった。中丞の傅欽之、侍郎の孫莘老(孫覚)が彼を推薦し、蘇軾もその名を連ねた。ちょうど朝廷に師道を知る人が多くなり、一官を得た。蘇内翰(蘇軾)が李廌に答えた書簡による。
「あなたの書状に、章公(章惇)が年齢と徳をお下げになり、礼をもってお招きになったとありましたが、私(師道)にどうしてこれほどの待遇があるでしょうか。もしやあなたが誇張されたのではないでしょうか。公卿が士に対して謙るのは今に始まったことではありませんが、それが特に今、私自身の身に及んだことは、この上ない幸いです。私は士に列するに足らぬ身ではありますが、あなたの後に従い風下に順って、あなたの名を成すことに努めるべきでしょう。しかし先王の制では、士は贄(贈り物)を伝えなければ臣下として王公に見えることはできません。それは、面会というものは礼を成すためのものであるのに、その行きつく先は往々にして自らを売り込むことになりがちだからで、それゆえ先王はその始まりを慎重にし防止を設け、士たる者は代々これを守ってきたのです。師道は公に対して以前は貴賤の隔たりがあり、今は生涯の旧交もありません。公は私に会うことがおできになるとしても、礼は無視してよいものでしょうか。また公が私を招いてくださるのは、まさに私が区々たる礼を守っていることゆえでしょう。もし義を理解せず、招きに応じてすぐさま門に走るなら、招かれた理由そのものを失うことになります。公もまたそれでは何を評価されましょうか。とはいえ、もしこの一事があって、公が後日功を成し官を退き、頭巾をかぶって東へ帰られるなら、その時こそ師道は粗末な牛車を駆って上東門の外で公をお待ちすることも、まだ遅くはないでしょう」。後山集の答秦少游書による。