宋名臣言行錄後集卷二十二 王巖叟
出自と経歴
王巖叟、字は彦霖。大名の人。明経に挙げられ、哲宗に仕えて官は簽書枢密院事に至った。
御史推薦への態度
近臣が詔を受けて御史を推薦する際、意中は王巖叟にあったがまだ面識が無かった。ある人が「一度会いに行けばよい」と勧めたが、王巖叟は笑って「それはいわゆる『呈身御史(自ら売り込む御史)』というものだ」と言い、結局会いには行かなかった。
監察御史としての諫言
監察御史に任じられるとすぐに「社稷の安危は諫を聞き入れ賢を用いることにあり、小利によって民心を失ってはならない」と上書した。
差役法をめぐる封還
元祐元年(1086年)、左司諫に遷った。ある日、執政の任命が同時に行われたが、その中に士望に協わない者がいた。王巖叟はちょうど給事中を権知していたため、その録黄(辞令)を返上し、諫官としての立場も併せて上疏した。しかし命が再び下されると、こんどは門下省を経ずに直接出された。王巖叟は対面を求めてさらに強く言い、退出後閤門でさらに上疏し「私は諫官として言うべき職責があり、給事中を兼ねる以上、非を駁す職責もあります。私が高論を好み大臣に逆らうことを喜んでいるわけではありません。ただ命令が門下省を経ずに斜めに出されることは、なおさら紀綱を損なうものです」と述べた。八度にわたり上章し、ついに命は取り消された。
諫官の欠員の建言
九月、侍御史に任じられた。左右正言が久しく欠員のままであったため、王巖叟は「補充を詔して諫臣の職を長く空しくすることのないよう」上疏した。
京城の盗賊摘発
京城の盗賊が集まる場所は「大房」と呼ばれ、多くは僻遠の地にあって数十から百人を容れていた。王巖叟は密かに掩捕を命じ、これを取り壊し、情状に応じて処決した。これによって盗賊がいなくなり、住民は戸を開けて安眠できるようになった。供備庫使の曹読という者は、家財を貿易に投じて万緡を稽留し、市儈(商人仲介人)に一年を過ぎても半分しか払わせていなかった。曹読はどうにもならず困り果てていたが、ある日戸の外に銭の音がして、数を確かめるとすべて揃っていた。曹読は不思議に思い理由を尋ねると「王公が今日、開封府知事になられたためです」との答えであった。
枢密院事就任時の上奏
枢密直学士に拝し枢密院事を僉書することになったとき、王巖叟は謙遜して進み「陛下が聴政を始めて以来、諫を納れ善に従い人心にかなうよう努めておられます。どうかこれを信じて疑わず、守って失わなければ、宗社は千万世の福となりましょう。人を用いる際にはさらに審察を加えていただきたい、邪正は見分けがたく、少しでも判断を誤れば治乱に関わります」と述べた。さらに進んで「陛下が今日聖学を進められるのは、まさに『邪正』の二字を理会するためです。正人が朝廷にあれば朝廷は安んじ、君主は過ちを犯さず天下は平治となります。邪人が一人でも進めば朝廷はたちまち不安の兆しを見せます。これは一人の力ではなく、その類がこれに応じる者が多いためです。上下がともに蒙蔽され、君主はこれを知る術がなく、いつのまにか禍患が養われてしまうのです」と述べ、二聖(哲宗と宣仁太后)は深くこれを是とした。王巖叟はさらに「君子と小人を並び用いるべしという説を陛下に告げる者がいると聞くが、それは本当だろうか。これは陛下を深く誤らせようとするものである。古来、君子と小人を並び用いる理は無い。聖人はただ『君子内にあり小人外にあれば泰となり、小人内にあり君子外にあれば否となる』と説いた。君子が進めば小人は君子と同じ事に与ることができず、自然に近づけなくなる。小人が進めば君子は小人と争って進もうとせず、自然に少しずつ身を引く。君子と小人が競い進むこと、これは危乱の機である。この点はよく察していただきたい、どうか陛下には常にこれに心を用いていただきたい」と述べた。張芸叟の撰した墓誌を併せ用いる。
侍講筵での学問の心得
侍講筵に侍った折、「陛下は退朝後、何もすることが無いとき、どのように日を過ごされますか」と問い、皇帝が「文字を読んでいる」と答えると、王巖叟は「陛下が読書を楽しみとされるのは天下の幸いです。おおよそ聖賢の学問は一朝一夕に成るものではなく、積み重ねが必要です。積み重ねの要は『専』と『勤』にあります。他の好みを退けることを『専』と言い、久しく倦まないことを『勤』と言います。この二字が積学の要諦です。どうか陛下には特にお心を留めていただきたい」と述べた。
邇英閣での節費の進講
邇英閣で『宝訓』を進読し「節費」の項に至ったとき、王巖叟は「およそ節用を言うのは、たまたま一事を節約すれば済むということではない。すべての事において節倹を心がけてこそ、日々の積み重ねによって国用は自ずと豊かになる」と述べた。