宋名臣言行錄後集卷二十二 劉安世

劉安世、字は器之、号は元城先生。大名の人。進士に及第し、神宗・哲宗に仕えて左諫議大夫に至った。司馬光の高弟で、剛直な弾劾を重ねて「殿上の虎」と呼ばれた諫官。紹聖の党禍で嶺南へ遠流され、命の危険にさらされても節を曲げず、宣和元年に没した。

年表(5件)
  • 熙寧初年進士に及第しながら仕官せず洛陽に帰り、司馬光に師事する
  • 紹聖初め党禍が起こり、章惇・蔡卞に憚られて嶺外に遠く流される
  • 建中年間蘇軾とともに嶺外から都へ帰還する
  • 宣和年間権勢を得た梁師成の誘いを謝絶し、元祐の完人たろうとする
  • 宣和元年元日以降賓客を謝絶し、六月丙午の日に急死する

出自と経歴

劉安世、号は元城先生。字は器之。大名の人。進士第に及第。神宗・哲宗に仕え、官は左諫議大夫に至った。

司馬光への師事と「誠」の教え

劉安世は司馬光(温公)と同年の契りを結び、これによって司馬光に師事した。熙寧初年に進士に挙げられたが選に就かず、まっすぐ洛陽に帰った。司馬光が「なぜ仕官しないのか」と問うと、劉安世は「漆彫開の『吾これいまだこれを信ずる能わず』」の言葉で答えた。司馬光はこれを喜び、劉安世は再び数年間学んだ。ある日、席を避けて「心を尽くし身を行うにあたり、終生行うべき要諦は何か」と問うと、司馬光は「それは誠であろう。私は生涯これを力行し、しばらくも離れたことがない。だからこそ朝廷に立ち身を処するにあたり、俯仰して恥じることがなかった」と答えた。劉安世が「これを行うにはまず何からすべきか」と問うと、司馬光は「妄語しないことから始めよ」と答え、劉安世はこれを終生大切に守った。

蘇軾(公休)との学問

劉安世は司馬光に学んだ際、公休(司馬康)と同じ課業で、四日に一度必ず訪ねて疑問を質した。司馬光は喜んで飽きることなく教えた。五年の後、一語を得て「誠」と言うと、劉安世がその内実を問うた。司馬光は喜んで「この問いは実に善い。まさに『妄語しない』ことから入るべきだ」と答えた。劉安世は初めこれを容易に思っていたが、退いてから自分の日々の行いと言葉を省みると、自ら矛盾すること多いことに気づいた。七年力行して初めて言行が一致し、内外が呼応するようになった。事に臨んでも坦然として常に余裕があった。

「誠」についての司馬光の評

司馬光は「安世の生涯はただ一つ『誠』の字にあり、これは決して破れない。誠は天の道であり、これを思うことは人の道である。天と人に二つの道理はない」と語り、左右の手を挙げて笑いながら「ただこの身体があるがゆえに『思う』ことによって道を通じさせるに過ぎない。その成功するところは一つである。安世は十五歳の頃からこの道理を知っており、あらゆることに力を尽くしてきたが、結局のところそれは一つの誠の字に尽き、縦横自在の妙用があらゆる場に通じる。これによって門を閉ざし独り立っても、その楽しみは無窮であり、どのようなことがあっても安世を動かすことはできない」と語った。道護録による。

司馬光からの推薦の理由

司馬光は劉安世を館職に推薦した際「なぜ私が君を推薦したかわかるか」と問うと、劉安世は「私が長らくあなたに師事してきたからです」と答えた。司馬光は「そうではない。私が閑職にあったとき、君は絶えず節目節目に見舞ってくれた。私が政府の位にあったときは、君だけは一切の書状を寄越さなかった。これが私が君を推薦した理由である」と述べた。

右正言としての権貴批判

右正言に抜擢された頃、政府の親戚の官職任命が頻繁に行われていた。劉安世は「祖宗以来、執政大臣の親戚子弟は内外の華要な職を敢えて受けたことはありませんでした。王安石が政を執って以来、代々の制度がすべて廃され、専ら親党を用いて私意を快くすることに努め、数年のうちに廉恥は地に落ちました。今、廟堂の上でなおこの旧弊が続いております」と述べ、太師平章軍国重事の文彦博、司空平章軍国事の文彦博(同上)、公著(呂公著)、左僕射の大防(呂大防)、右僕射の純仁(范純仁)、門下侍郎の固(劉摯か)、左丞の存(王存)、右丞の宗愈らが堂除で子弟親戚数十人を任じたことを列挙し、「中書侍郎の摯(劉摯)は私親を引くところがまだ見られませんが、その間で曖昧な態度を取り是正できなければ、雷同して沈黙するだけで罪が無いはずがありません。どうかこの章を三省すべてに示し、これより後は気持ちを引き締めて改めさせてください」と述べた。言行録による。

蔡確の車蓋亭詩事件への弾劾

漢陽軍知事の呉処厚が蔡確の安州における謗詩を進呈すると、劉安世はただちに論奏して「蔡確の詩十篇には多く譏訕に渉るものがあり、うち二篇は特に甚だしいものです。唐に借りて喩えとしたものですが、『滄海揚波』の語に至ってはその包蔵する意味は特に悖逆です。蔡確は自らなお歯や髪も盛んで、なすことができると考え、他日の情勢変化に乗じて再び用いられ、禍心を発散させようとする意図です。これを許せば国法は廃されます」と述べた。まもなく蔡確は光禄卿に責め下され南京分司に処されたが、劉安世は梁燾とともに上疏して「処罰が軽すぎ、世論を満たしていません」と力争し、十数回上疏してついに蔡確は新州に流された。

蔡確一派への追及

蔡確は貶謫されたものの、なお章惇らとともに「定策の功があった」と自称し、言葉で貴人を脅す姿勢を見せていた。劉安世はさらに「蔡確・黄履・邢恕・章惇の四人は、元豊末に死党と称され、章惇と蔡確は執政としてこれを内で首唱し、黄履は中丞としてその僚属とともに外で呼応し、邢恕はその間に立ち往来して天下の事をその掌中に収めていました。聖上が即位されたのは、実に太皇太后(宣仁太后)の深遠なる聖慮によって、宗廟社稷の無窮の計を為されたものです。しかしあの四人は天の功を貪り、自分たちの力だと僭称しています。どうかこの四凶の罪を明らかに正し、天下に布告してください。蔡確は既に貶謫されましたが、章惇・黄履・邢恕についても、遠方に逐って終身用いないことを願います」と述べ、これにより三人もまた罪を得た。

起居舎人兼司諫としての宮中の風紀正し

起居舎人に遷り司諫を兼ねた頃、劉安世はたまたま家人が乳母を雇う仲介に来た媼のことで、その理由を問い質した。「内降指揮によって乳母を求められている」との話を聞き、劉安世は怒って「お前は何を妄言するのか、今上はまだ后を娶っていないのに、そんなことがあるはずがない」と言った。しかし媼は「内東門司と開封府の録事がこれに関わっています」と答えた。劉安世は開封府の録事に知り合いがあったため、書状で問い合わせたところ、聞いた通りだと答えが返ってきた。劉安世は「前代の君主で声色によって身を損なわなかった者は稀です。ましてこれに近づく年齢が早すぎ、節度なく耽ければ、真元を保ち寿命を延ばすことができません。これは聖賢の戒めるところであり、寒心に堪えません。世俗でわずか百金の産を持つ家でさえ、子孫を愛し継嗣を大切にすることを知っています。まして本朝百三十年の太平と六代の聖主が憂勤して積み重ねてきた業を、陛下は継承されているのです。自らを愛し重んじ、宗廟社稷の無窮の計とされないでよいでしょうか」と上疏した。もし陛下がこの事を行っていないなら、私の言葉は諫官の職を失していないだけであり、万一行っているなら、私の進言は既に手遅れです。ただ陛下が身を愛し徳を進め、学問に心を留め、心を清め欲を寡くし、福の基を厚くされることを願います」と述べた。宣仁太后は当初知らなかったが、劉安世の言葉によって事を追及し、乳母を雇ったのは劉氏(哲宗の側室)であることが分かった。太后は怒ってこれを鞭打った。これにより劉氏は劉安世を深く怨んだ。

元祐更化と「調停」論への抵抗

宣仁太后の垂簾により祖宗の旧政が復活した後、司馬光が薨じてから、王安石(荊公)の徒が多く流言を発して在位の者を動揺させ、利で誘い禍で脅すなど、あらゆる手段を用いた。大臣の多くは首鼠両端の態度を取り、自らを保全しようとした。呂大防・范純仁の二相は特にこれを恐れ、旧怨を和らげるため元豊派の党を用いようとし、これを「調停」と呼んだ。人事の際、劉安世は梁燾・朱光庭とともに毎回力を尽くして論争した。呂公はこれを煩わしく思い、熙豊の旧人である鄧温伯を翰林承旨に推薦し、言官が必ず争うことを利用してこれを口実に劉安世らを追い出そうとした。劉安世は「鄧温伯は熙寧年間、王安石・呂恵卿が互いに陥れ合った際、始終反覆して両党を出入りし、さらに蔡確に付いてその制詞を草し、その定策の功を称えました。どうか罷免していただきたい」と何度も上疏したが取り上げられず、病を理由に引退を告げ、宮観への転任を求め、集賢修撰・提挙西京崇福宮に任じられた。

諫官としての気迫

劉安世は言路(諫官職)を歴任し、朝廷では正色を保ち、知れば言わないことがなく、言えば尽くさないことがなかった。常に是非邪正を弁じることを先とし、君子を進め小人を退けることを急務とした。面前で反論し朝廷で争い、皇帝の雷霆の怒りが激しくなると簡を執り退いて控え、皇帝の怒りが少し和らげば再び進んで極論した。しばらくの間、進んでは退き退いては進む奏対を四、五度繰り返すこともあり、殿廷の見物人はみな汗を浮かべ身を縮めて謹んで聞き、これを「殿上の虎」と呼んだ。

宣仁太后崩御後の政局

宣仁太后が崩御すると、呂丞相(呂大防)は陵下に使いを出し、范純仁は執政の任命を上奏し、李清臣を中書侍郎に、鄧温伯を尚書右丞に用いることとなった。当時大臣はついに「調停」の説を用い、李清臣・鄧温伯の任命が実現した。二人はともに熙豊の党であり、しばしば元祐の間に攻撃を受けていたが、先朝のことをもって皇帝の意を刺激し、たまたま殿試の進士策題で元豊派が元祐の政をことごとく貶め、新法を復活させる意図を示したことで、元祐の人々を中傷した。劉安世は常山への鎮に出され、まもなく元豊の旧人がことごとく召還され、章惇が宰相となった。言者は「劉安世がかつて蔡確を弾劾したこと」を理由に彼の職を落として南安軍知事とし、呂丞相もまた遠方に流されることを免れなかった。呂丞相は劉安世に深く恥じ入った。その後、范丞相(范純仁)の門人が范公の行状に「もしその言葉が熙豊の時代に行われていたなら後に紛更に至ることはなかったであろうし、元祐の中に全て申し述べられていたなら紹聖の大臣による復讐の禍も無かったであろう」と記した。ある人がこれを劉安世に問うと、劉安世は「微仲(呂大防)や堯夫(范純仁)は、君子と小人の勢が氷炭のように両立できないことを知らなかった。だから幸運の門を開き李清臣・鄧温伯を招き入れ、正人を排するのは掌を返すよりも容易であった。『調停』の説にどんな益があろうか。かつて司馬光が宰相であった当時、彼はこの後必ず反覆の禍があることを知っていたはずだ。しかし民の患いを救うことは焚火や溺水から助け出すようなもので、それすら間に合わないことを恐れていたのだから、他日の一身の患いを顧みる暇などなかったのだ」と述べた。世の人はこれを劉安世の見識だと評した。言行録による。

紹聖の党禍と嶺外への流謫

紹聖初め、党禍が起き、器之(劉安世)は特に章惇・蔡卞に憚られ、嶺外に遠く流された。盛夏に老母を伴って移動し、道行く人はみな彼を憐れんだが、器之は屈しなかった。ある日、山中を行く際、母を籠に乗せて休んでいたところ、大蛇がゆっくりと近づいてきた。草木は皆なびき担ぎ手は驚いて逃げたが、劉安世は動じなかった。蛇はまるで向き合うかのように長らく留まっていたが、やがて去った。村民は劉安世に平伏して「官人は異人でいらっしゃいます。蛇は我が山の神ですが、官人を喜んで迎えに来たのでしょう。ご旅行は無事でしたか」と語った。司馬光の門下には士が多くいたが、劉安世が守り抜いた凛然たる態度は死生禍福によっても変わらなかった。彼は生涯『孟子』を愛読しており、その剛大不屈の気風はこれに似ている。

章惇・蔡卞の迫害

章惇・蔡卞が政を執ったとき、必ず劉安世を死に至らしめようとした。まさに広東に流された後、広西に移し、広西に着くとまた広東に移す、というように、両広の間で辺地・悪地を遍歴させた。人々はみな劉安世が必ず死ぬだろうと考えたが、七年の間、一日も病むことなく、年齢ほぼ八十に至るまで堅忍不抜であった。これは人の力の及ぶところではなく、天の助けとしか思えない。ある人が「どうしてこれが可能だったのか」と問うと、劉安世は「誠あるのみ」と答えた。

文及甫の讒言事件

先に、文及甫が父の喪に服して河陽におり、邢恕は懐州にいた。文及甫は劉丞相摯(劉摯)が中司の職にあったとき自分の左司郎の官を弾劾罷免されたことを恨み続けており、邢恕への手紙に「喪が明け禫祭が終われば、外任から入朝する計画があるだろうが、要路にある者の猜疑がますます深まっている。司馬昭の心は路人の知るところである。さらに『粉』と『昆』の朋類が入り乱れており、必ずやこの身を彼らの意のままの餌食にしようとするだろう」と記した。紹聖末年、蔡確の子が翰林学士蔡京の指示を受けたとして、大臣に迎合し、文及甫を証人として引き、劉丞相らが誣告して父(蔡確)を社稷を危うくしようとしたと訴える上書をした。朝廷は驚愕し、蔡京にこれを究明させ、同文館に獄を設け、ついに文及甫を捕らえて吏に付した。文及甫は「鷹揚」とは自分の父・文彦潞公を指すとし、「要路にある者」とは劉摯を指すとし、「その徒が実に多い」とは梁燾・王巖叟・劉安世・孫升・韓川らを指すとし、「司馬昭の心は路人の知るところである」とは劉摯が顧命の宰相蔡確を追放しようとしたことを、当時国勢が甚だ危うい中で劉摯に朝廷を傾け動揺させる企図があると疑われたことを、司馬昭の廃立事件になぞらえたものだと述べた。「粉昆朋類」とは、「粉」は顔が粉のように白い王巖叟を指し、「昆」は字を貺之という梁燾を「貺」から「兄」の意で「昆」と呼んだものだという。「この身を彼らの意のままの餌食にしようとする」というのは寒心に堪えぬ話で、「この身」とは主上を指し、劉摯には君主を無視する心があり、動揺不逞の意図があった、以前は蔡確らを餌食にすることに満足していたが、今は主上を餌食にしようとしている、つまり主上を彼らの餌食にしようというのは、国を憂える心のある者にとって寒心に堪えぬことだ、と論じられた。「何の証拠があるのか」と問われると、「亡父が人を避けて語ったことなので、確たる証拠はない」と答えた。この時すでに劉丞相・王彦霖(王巖叟)は世を去っていたが、その謀は元々蔡京から出ていた。それゆえ蔡京はなお御前に上って親筆で争論しつづけた。三省は「蔡京の奏によれば劉摯らの逆心は、その一時党に付き行動を顕著にした人々が悪事に加担していたことも十分ありうる。劉安世は常に禁中の乳母雇用の件を論じて『陛下は既に女色に親しんでおられる』と言い、また経筵に出ないことを論じて『陛下は既に酒色に惑っている』と言ったが、これは君主を誣罔したもので、その言葉は上疏に明白に示されている。これはいったいどういう心であろうか。今、劉摯は貶死し子孫にまで及んでいるのに、劉安世は罪罰を問われていない。これでは不公平ではないか。私にはその理由がわからない」と述べた。詔により劉安世は梅州安置に移された。劉安世はこの時まだ喪に服しており服喪を終えないまま貶所に赴いた。当時、劉安世の貶所に、進納によって仕官した土豪がおり、多額の資財を携えて都に上り章惇に会おうとした。財貨を惜しみなく使い僕にも賄賂を与えたが、長らく面会が叶わなかった。その者が劉安世を殺す意向を伝えたところで、章惇はやっと彼に会い、数日のうちに殿上に推挙され、選人から改秩して本路転運判官に任じられた。その者は飛ぶように馬を駆って劉安世の貶所に直行した。郡将は客を派遣して劉安世に後事の始末を勧め、涙ながらに語ったが、劉安世は顔色一つ変えず、客を留めて酒を飲み談笑して普段通りであった。まもなく運判が郡城から二十里余りの地点まで来たと報告があり、翌日到着すると聞くと、家人はますます泣き叫んで食を断ち、劉安世の後事を整え始めた。しかし劉安世自身は飲食起居いつも通りで、少しも変わることがなかった。夜半に様子をうかがうと、劉安世は熟睡し鼾は雷のようであった。突然鐘が鳴り始め、上下の者は驚いて「鐘の音がこんなに早いのはなぜだ」と言った。夜明けに問うと、鐘を鳴らしたのはまさにその運判の死を報せるものであった。彼は一夜のうちに血を吐いて死んだのであった。翌日、弔問の客が「もしその者が死ななかったら、あなたの身がどうなっていたか分からなかった」と言ったが、劉安世に喜色は無かった。これによって劉安世が死に臨んでも心を乱さぬ様子が見て取れる。言行録による。

諫官在任と弾劾の数

劉安世は「私が諫官に任じられて三日目に大きな任命があり、私はすぐに文書を提出した。全部で二十四章、また章惇を論じたものは十九章に及んだ」と語った。罪を得ると、章惇は必ず彼を殺そうとした。人々は「春・循・梅・新の地は死と隣り合わせであり、髙・竇・雷・化はさらに恐ろしい八州の悪地だ」と言ったが、劉安世はこれら七州をすべて遍歴した。

建中年間の帰還と梁師成からの誘い

建中年間、劉安世は蘇子瞻(蘇軾)とともに嶺外から同じく帰還した。宣和年間になると、内侍の梁師成が寵を得て一時権勢を震わせ、蔡京・童貫もその下風に立つほどであった。梁師成は呉可という者に京師から劉安世を訪ねさせ、彼を引き入れて大用しようとし、書状を託した。呉可は三日を経てからやっとこれを差し出し、その来意をおおよそ「諸孫の仕官を求める」という言葉で劉安世を動かそうとした。劉安世は謝絶して「もし私が子孫のために計るなら、こんな有様にはならなかっただろう。私は三十年近く廃斥されてきたが、一点の墨も当朝の権貴に送ったことはない。私は元祐の完人でありたい、戒めを破ることはできない」と述べ、書状を返して答えなかった。人々はみな劉安世の身を危ぶんだが、彼は普段通りであった。

王安石の「三不足」説批判

先生(劉安世)は「金陵(王安石)に『三不足』の説があるのを聞いたことがあるか」と問い、聞き手が「聞いたことがありません」と答えると、「金陵が政を執ったとき、同朝の人々が立って攻撃した。金陵は衆論を退けて皇帝に『天変は畏れるに足らず、祖宗は法とするに足らず、人言は恤うるに足らず』と進言した。この三句は趙氏(宋)だけの禍ではなく、万世の禍である」と語った。先生はさらに「人主の勢いは天下に敵う者がない。もし過ちがあれば、臣下がこれを正そうとするとき、必ずこれより大きな理由を用意しなければ翻せない。しかし、人主に天変を畏れず祖宗に法らず人言を恤わないようにさせるとすれば、何をしても構わないことになってしまう」と語った。馬永卿編の語録による。

王安石の人物論

先生は「金陵もまた並みの人物ではない。その粗野な行いは老先生(司馬光を指すか)とほぼ同様であり、質朴倹素で終生学問を好み、官職に意を用いなかった点は共通している。ただ学問には邪正があり、それぞれ自分の学ぶところを行おうとしたに過ぎない。それなのに人々はすぐに彼を悪罵する。これによって人主は信用せず、天下の士は今なお疑っている。その言葉が公平でないため、悪罵すればするほど信用されなくなる。だから金陵を攻撃する者はただ『その学問は邪僻であり、これを用いれば必ず天下を乱す』とだけ言うべきである。そうすれば人主は必ず信じる。もし『財利をもって人主を結びつけたのは桑弘羊のようだ、人の言を禁じて位を固めたのは李林甫のようだ、姦邪なることは盧杞のようだ、大佞なることは王莽のようだ』と言えば、人主は信じない。それは彼の人物に元々徳行があり、天下の人々が元々尊んでいたので、人主がこれを吟味しても事実と異なると分かれば、悪口すら信じられなくなるからだ。これは進言する者が大いに戒めるべきことである」と語った。

「秤停」の教え

器之(劉安世)はかつて私に「官にあり事を処すには、必ず軽重を権衡し、道理にかなうよう努めるべきだ。偏った重みを持たせないことが肝要で、これを『中』という」と語った。さらに元祐年間に馮当世(馮京)を訪ねた話を語り、馮当世は「熙寧初年、陳暘叔・呂寶臣とともに枢密の任にあった。陽叔は聡明で並ぶ者が少なく、事に対処すればすぐに解決したが、呂寶臣は特に『秤停』が上手く、事あるごとに必ず軽重を秤にかけ、適切な処置を得てから終わらせた」と語り、寶臣が処理した事案は人情・事理ともに妥当でないものが無かったという。器之はこれによって「秤停の二字こそ我々が今日最も力を致すべきことだ」と力説した。

李若谷の四字の教え

器之は「安世が初めて及第したとき、二人の同年とともに参政の李若谷を訪ねた。三人揃って立ち教えを請うと、李若谷は『私は官についてから常に四字を持している、勤・謹・和・緩である』と言った。その中で一人の若者が『勤・謹・和はすでに承りましたが、緩の一字はまだ理解できません』と応じると、李若谷は顔色を正して『いつ賢者に事を成し遂げなくてよいと教えたか。緩とは、世の中の何事も慌てて誤ることがないようにするという意味だ』と答えた」と語った。呂氏雑録による。

死の様子と評価

劉安世は宣和元年の元日以降、賓客を謝絶し、四方からの書状にも封も開けなかった。家事は大小に関わらず一切問わなかった。夏六月丙午の日、突然大風が起こり瓦が飛び、驟雨が降り注ぎ、雷電が昼を暗くした。彼の正寝で人々は皆驚き恐れて逃げたが、雨が止み日が現れると劉安世は既に息絶えていた。これを聞いた人々はみな不思議に思った。楊中立(楊時)が文を送って弔い「劫火が洞々と燃え、燃え尽きぬのはただ玉のみである」と記し、士大夫たちはこれを口ずさみ的確な評だとした。劉安世は在宋の間、門を閉ざし人との交際を控え、めったに人前に姿を見せなかったが、農夫や市井の人々は「南京を過ぎて劉待制に会わないのは、泗州を過ぎて大聖に会わないようなものだ」と言った。彼が没すると、耆老・士庶・婦人女子が薫剤を持ち仏経を誦して哭する者が一日数千人にも及んだ。二年後、金軍が墓地を荒らして棺を開いたところ、彼の顔貌は生きているかのようで、皆驚いて「必ずや異人であろう」と言い、何も動かさず棺を閉じて去った。

蘇軾による人物評

かつて蘇子瞻(蘇軾)と元祐の人材を論じた者がいて、劉安世について語る際、蘇軾は「器之は真の鉄漢、及ぶ者はいない」と評した。