宋名臣言行錄前集卷十 胡瑗
胡瑗(号は安定先生)。字は翼之、泰州の人。幾度も科挙に挙げられたが及第せず、范仲淹の推薦により官に就き、太常博士に至った。蘇州・湖州で経義齋・治事齋を設けて経学と実務の学を教え、太学の学法の基礎を築いた宋代随一の教育者。門下から范純仁・孫覚ら多くの人材を輩出した。
出自と経歴
- 胡瑗、号は安定先生。字は翼之。泰州の人。幾度も科挙に挙げられたが及第せず、范仲淹の推薦により官に就き、太常博士に至った。
泰山での苦学
- 侍講としてまだ無官であった頃、孫復(明復)・石介(守道)と共に泰山で読書し、苦労を重ね質素な食事で夜通し眠らず、十年間座り続けて家に帰らなかった。家からの手紙が届くと、文中に「平安」の二字があればそれだけを見て、以後読まずに谷川に投げ入れたという。(曽孫の胡滌の記録)
師道の再興
- 師道が廃れて久しかったが、明道・景祐年間以来、学者に師と仰がれたのは胡瑗と孫復・石介の三人だけであり、その中でも胡瑗の門下が最も盛んであった。慶暦四年の春、天子が天章閣を開いて大臣と天下の事を論じ、初めて州県すべてに学校を建てるよう詔した。これにより京師に太学を建てることになったが、有司は湖州から胡瑗の学法を取り寄せ、太学の法とするよう求め、今に至るまで正式な規則となっている。(欧陽脩撰の墓表)
治道齋の設置
- 湖州にあったとき、治道齋を設け、治道を明らかにしたいと望む学者にはその中で講義した。用兵・治民・水利・算数などがそれである。胡瑗はかつて「劉彛は水利に長じている」と語ったが、劉彛は後に度々政を執り、いずれも水利を興して功績を上げた。(程氏遺書)
経学教育の実践
- 胡瑗は隋唐以来、仕官の進み方が文辞を重んじ経学を軽んじ、いたずらに禄利に趨る風潮を特に憂えていた。蘇州・湖州の二州の教授になると、規則を厳しくして自ら模範を示し、真夏の暑さでも一日中官服を着て学生に接した。経を解いて要義に至るとねんごろに、まず自らを治めた上で人を治める道を学生に説いた。学徒は千人を数え、日夜文章を磨き、皆経義を伝授されて理をもって優れることを尊んだ。師説を信じ、実践を重んじる気風であった。後に太学に転じると四方から集まり、校舎に収まりきらず、旁ら歩軍の営舎まで拡張して収容した。五経についての異説は弟子がこれを記録し、『胡氏口義』と名付けられた。(蔡襄撰の墓誌)
講義での態度
- 侍講として『易』の「乾元亨利貞」の句を読んだ際、避諱(皇帝の諱を避けること)をしなかったため、皇帝と左右の者は皆顔色を失った。胡瑗は落ち着いて「文を読むときには避諱しないものです」と述べ、皇帝の心も解けた。(曽孫の胡滌の記録)
弟子・劉彛の証言
- 湖州で学んでいた頃、福唐の劉彛は数百人の学生の中で従学し、優れた高弟であった。熙寧二年、召し対されて皇帝に「胡瑗の文章は王安石とどちらが優れているか」と問われた劉彛は次のように答えた。「胡瑗は道徳・仁義をもって東南の学生を教えていた頃、王安石はちょうど科挙場で進士の業を修めておりました。臣が聞くところ、聖人の道には体・用・文があります。君臣・父子・仁義・礼楽など、歴代変わらないものが体です。詩・書・史伝・諸子・文集で後世に法を垂れるものが文です。これを挙げて天下に施し、民を潤し皇極(帝道の根本)に帰するものが用です。国家は歴代の科挙で人材を取るに当たり、体用を根本とせず声律の浮華な文辞を重んじてきました。それゆえ風俗は薄っぺらになったのです。臣の師の胡瑗は宝元・明道の頃、特にこの弊害を憂え、体用の学を明らかにして学生に授け、朝夕勤め励むこと二十余年、学校の事に専念し、蘇州・湖州から始まり太学に至りました。その門から出た者はおよそ千余人に及び、それゆえ今の学者が聖人の体用を明らかにし、政教の根本とするに至ったのは、皆臣の師の功績なのです」。皇帝が「その門人で今朝廷にある者は誰か」と問うと、劉彛は「銭藻(淵篤)・孫覚(純明)・范純仁(直温)・銭公輔(簡諒)らはいずれも陛下がご存知の者です。地方で体用の学を明らかにし民を教える者も数十人に及び、その他政事・文学において世に出た者は数え切れません。これは天下の人々が皆知り、称賛して止まないところです」と答え、皇帝は喜んだ。
儀式作法についての姿勢
- 侍講として召し対する際、慣例では先に閤門で儀礼を習わねばならなかったが、胡瑗は「私が生涯読んできた書物こそが君に仕える礼である。何を習う必要があろうか」と述べた。閤門はこれを上奏したが、皇帝は舟の中で習うよう命じ、胡瑗はなお固辞し、皇帝もこれを強いなかった。人々は皆、山野の人ゆえ必ず儀礼を失するだろうと思っていたが、対面するとかえって皇帝の意にかない、皇帝は左右に「胡瑗の進退・立ち居振る舞いはすべて古礼にかなっている」と語った。(曽孫の胡滌の記録)
『易』の講義と時事
- 皇祐から至和年間、国子直講となり、朝廷は千余人の太学生を統轄させた。胡瑗は毎日『易』を講じ、講義を終えるたびに当世の事を引いてこれを説明した。小畜の卦に至って「畜とは止めることである。臣が君を止めるのだ」と述べ、さらに中書令の趙普が破いた劄子を宋の太祖(芸祖)に呈上した故事に言及した。
学生への配慮
- 国子監を判じ、諸生の教育には規則があった。胡瑗は諸生に「食事で満腹になった後にすぐに机に向かったり、長時間座り続けたりすることは、皆気血を傷つける。射礼を習ったり投壺(酒宴の遊戯)をして休息をとるべきである」と語った。これもまた「食事のときに語らず、寝るときに話さず」の遺意である。程頤(伊川)は「およそ安定先生(胡瑗)に学んだ者は、その醇厚で穏やかな気風は、見るだけで分かるものだ」と述べた。
武学の興隆を上言
- 仁宗朝に上書して武学の興隆を請い、その概要は次のようなものであった。「先年、呉育は武学を興すべきと建議しましたが、適任者を得られず、まもなく廃されました。今、国子監直講の中で梅堯臣はかつて『孫子』に注釈を加え、その深い意義を大いに明らかにしており、孫復以下もみな経の趣旨に通じています。臣はかつて辺境の丹州で推官を務め、いくらか武事に通じております。もし梅堯臣らに武学を兼ね掌らせ、毎日『論語』を講じて忠孝仁義の道を知らしめ、『孫子』『呉子』を講じて敵に勝ち防ぐ術を知らしめ、武臣の子孫の中から智略ある者二、三百人を選んでこれを教習させれば、十年二十年のうちに必ず成果が現れるでしょう」。臣はすでに『武学規矩』一巻を撰し、進呈した。当時この議論は難ぜられた。(呂夏卿の記録)
湖州での経義齋・治事齋
- 当時、世は詞賦を尊ぶ風潮であったが、湖州の学だけは経義と時務を学ぶことを旨とし、学中に経義齋・治事齋を設けた。経義齋は疏通で器量のある者を選んで住まわせ、治事齋は人ごとに一つの事を治めさせ、さらに辺防・水利のような一つの事を兼ねさせた。それゆえ天下は湖州の学は優れた人材が多いと称賛し、出仕すればしばしば高い等級を得て、政事を執っても世に適う者が多く、老練な吏事のようであった。これは日頃からの講習によるものである。欧陽脩の詩に「呉興の先生(胡瑗)は道徳に富み、詵詵たる弟子は皆賢才なり」とあり、王安石の詩には「まず先生を取って梁柱とし、次いで桷(たるき)と榱(垂木)を収拾する」とある。
教育方針
- 初めて直講になったとき、専ら一学の政を掌るようにとの詔があり、誠意を尽くして多くの学生を教育し、また人物を見分けた。それゆえ経術を好む者、兵戦を語ることを好む者、文芸を好む者、節義を尚ぶことを好む者、それぞれの傾向に応じて群れをなして共に講習させ、胡瑗は時に彼らを召してその学ぶところを論じさせ、その理を定め、あるいは自ら一つの見解を出して人々にこれの可否を答えさせ、その時々の政事に照らして判断させた。それゆえ人々は皆喜んでこれに従い、成果を上げた。今の朝廷の名臣にはしばしば胡瑗の門下の者がいる。
教育における逸話
- 国子監の先生であったとき、ある日、番禺の大商人がその子を胡瑗のもとに学ばせに遣わした。その子は放蕩で、千金を持参していたが、病がひどく痩せ細り、旅宿で客死しかけていた。たまたま父が都に来て、これを憐れみ責めることなく子を連れて胡瑗に謁見し、事情を告げた。胡瑗は「まずその心を戒めた上で、道をもって教え導くべきだ」と言い、一冊の書を取り出して「これを読めば、まず養生の術を知ることができる。養生を知って初めて学問に進むことができる」と告げた。その子がその書を見ると『黄帝素問』であった。読み終わらないうちに、放蕩が命を害することを深く恐れ、痛く後悔して自ら責め、改めることを願うようになった。胡瑗はすでにその子が悟ったことを知ると、召して教え諭し「身を愛することを知れば、身を修めることができる。今から心を洗い道に向かい、聖賢の書を順序立てて読むがよい。その意義に通じてから文を作れば、名を成すことができるだろう。聖人は過ちの無いことを貴ばず、過ちを改めることを貴ぶ。昔の後悔を懐かず、ひたすら学業に努めよ」と語った。その者は聡明で学ぶことに優れ、二、三年で科挙の上位に及第して帰郷した。
家庭教育
- 家を治めることは非常に厳しく、特に内外の区別を謹んだ。息子夫婦は父母が存命であっても、節句や朔日でなければ里帰りを許さなかった。遺訓に「娘を嫁がせるには必ず我が家より勝る家に、嫁を娶るには必ず我が家に及ばない家から」とあった。ある人がその理由を問うと、「娘を我が家より勝る家に嫁がせれば、娘は夫に仕えるのに必ず敬い慎むだろう。嫁を我が家に及ばない家から娶れば、嫁は舅姑に仕えるのに必ず婦道を尽くすだろう」と答えた。(曽孫の胡滌の記録)