宋名臣言行錄前集卷十 孫復

出自と経歴

  • 孫復、号は泰山先生。字は明復。晋州の人。進士に挙げられたが及第せず、退いて泰山に隠居し、富弼・范仲淹の推薦により官に就き、直講に至った。

泰山での講学

  • 若くして進士に挙げられたが及第せず、退いて泰山の陽(南麓)に隠居し、『春秋』を学んで『尊王発微』を著し、多くの学者が集まった。その中で特に賢く道のある者は石介で、石介以下は皆孫復に弟子の礼をとった。孔道輔は孫復の高名を聞いて訪ねた際、石介は杖と履物を持って左右に侍り、孫復が座れば立ち、昇り降りするときは扶け、拝礼するときも同様であった。孔道輔が謝礼に赴いた際もまた同様であった。魯の人々はこれによって初めて師弟の礼を知り、皆感嘆した。(欧陽脩撰の墓誌)

李迪との結婚

  • 泰山の南麓に隠居し、痩せ憔悴して鬚も鬢も白くなっていた。かつての宰相であった李迪(文定)が兗州の知事としてこれを見て、「先生は五十一歳、独り住まいで誰が世話をするのか。不幸にも風雨や飲食で病にでもなればどうするのか。私の弟の娘はたいへん賢く、あなたの世話を任せられる」と嘆じた。孫復は固く辞退したが、李迪は「私の娘をあなたに娶わせても、あなたが一官人であるに過ぎなければ、妻がその徳の高さを天下に及ぼすことはない。しかしあなたに嫁がせて李氏に幸せがあるとすれば、これに勝る栄誉はない」と言った。孫復は「宰相の娘を公侯や貴戚に嫁がせず、山谷に住む衰えて藜(あかざ)や豆の葉さえ十分に食べられない老人に嫁がせようというのは、相国(李迪)の賢明さは古来類がない。私はこの相国の賢明さを成就させないわけにはいかない」と述べ、ついにこれを娶った。その娘もまた質素な暮らしに甘んじ、孫復に礼を尽くして仕えたので、当時の士大夫はこれを賢いと称えない者はなかった。(『澠水燕談』)

経学の姿勢

  • 孫復は『春秋』を治めるにあたり、旧来の伝注に惑わされず、経を乱す曲説を為さなかった。その言葉は簡潔で明快であり、『春秋』に見える諸侯・大夫の功罪から時代の盛衰を考証し、王道の治乱を見極めることに優れ、経の本義を得ることが多かった。

胡瑗との関係

  • 孫復は胡瑗の人となりを嫌い、太学にあっても常に互いに避け合っていた。胡瑗は経学の面では孫復に及ばなかったが、教育の面では孫復を上回っていた。(邵氏後録)

范仲淹に見出された若き日

  • 范仲淹が睢陽で学を掌っていたとき、諸国を遍歴する孫という秀才がいた。范仲淹に謁見して銭一千を贈られた。翌年、孫生は再び睢陽を通って范仲淹に謁見し、また一千を贈られた。范仲淹が「なぜそんなに道々を汲々として歩き回るのか」と問うと、孫生は憂いの色を浮かべて「母が年老いており、これを養う手立てがありません。もし日々百銭を得られれば、うまい食事に事欠くことはないのですが」と答えた。范仲淹は「私があなたの言葉を見るに、物乞いの類には見えない。二年間あちこちを歩き回って得たものはいくらか。学問を廃してしまったことの方が多いだろう。今、あなたに学職を授けよう。月に三千を得られるようにすれば、母を養うことができる。あなたは学問に専念できるか」と述べた。孫生は大いに喜び、こうして『春秋』を授けられ、孫生は篤く学び昼夜を惜しまなかった。翌年、范仲淹は睢陽を去り、孫生もまた別れを告げて帰った。それから十年後、泰山の麓に孫明復先生という者がいて『春秋』を人々に教授し、道徳が高く卓越していると聞き、朝廷はこれを召した。それはかつて物乞い同然に諸国を歩き回っていた孫秀才その人であった。